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競艇の昔話をしませんか?コミュの競艇百物語 第十七夜

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競艇百物語 第十七夜
中道善博。技のカリスマへの旅打ち
〜稀代の名手がなした笹川賞連覇〜

中道善博―艇界最高峰のテクニシャン。
これに異論のあるファンはいないだろう。
指一本でハンドルを回す「マジックターン」で、数々の栄光を積み上げてきた。勝ち続けてきた。
身体の限界を悟って潔く現役に幕を引いたが、未来に競艇を語り継ぐ時に、中道善博の名は外せない。
その輝かしい航跡のはじまりは笹川賞の連覇からだった。


膝がキリキリ悲鳴を上げていた。それでも男は『中道善博』であらねばならなかった。
 腰が重くとも、胃が痛んでも、目に異常を覚えても、その名に叶う働きを何よりも自らが求めてきた。
 だが限界は訪れた。
 中道善博。競艇がもつことのできた、素晴らしき名手の名前である。ただの一流選手であったなら、こんなに早く幕引きする必要はなかった。その名に特別な重さを感じ、支えられなくなった時の選択だ。それは矜恃である。
「日本一のテクニシャン」
長きにわたって我々は、この人をこう呼び習わしてきた。一流の上に立つ特別なそんざいのひとりだった。でも決して最初から特別視されていたわけでない。出発点がある。それはおそらく初めてSG競走を獲った時、21年前の住之江、笹川賞。そして翌年、タイトル連覇を達成した。ここに競艇界が誇る、名手としての中道善博が誕生したのだと思う。
 また、春が巡ってきた。今年も笹川賞が近づいてきた。そこには『中道善博』の名前はない。2度と見る事が出来ない。だからこそ思いを馳せる。かつてに立ち返ってみる。

 花の22期生。中道の同期は称される。なるほど俊英が集っている。すでに引退しているものも含めて、記念(SG・G1)覇者を輩出する事9名。内4名がSGタイトルに輝いている。同じく「花の〜」といわれることの多い。野中和夫を擁する27期生にしても7名(うちSG覇者4名)、高山秀則、国光秀雄がSG競走に優勝している36期生も7名、若い世代では粒ぞろいで知られる69期生もまた7名(SG覇者2名)という数字からも、彼らのレベルが忍ばれる。高校を中退してこの世界に飛び込んできた中道は、中でも若かった。
 その選手生活は、66年11月の丸亀から始まった。56142とデビュー3走目に初勝利を飾っているように、最初から素質の高さを見せていたのは確かだが、スタート事故に苦しんだ時期もあり、同期の先頭を走っていたわけではなかった。

 22期ではまず安部邦男(82年ダービー覇者、引退)が69年の下関15周年で記念優勝に到達した。
次いで村上一行、永松栄(引退)が名乗りをあげ、当時においてはこの2人の方が中道より評価が高かった。中道が記念初?を飾るのは75年、地元鳴門の四国地区選手権を制して、記念ウィナーの仲間入りをしている。

 SGキャリアでも、安部や村上に先んじられていた。優勝戦に載ったのは安部が早く、71年の桐生モーターボート記念(4着)だが、活躍度では村上で73年下関モーターボート記念(3着)、75年・常滑笹川賞(準優勝)と実績を積み上げていって、78年の唐津モーターボート記念で、ついに同期のトップを切ってSG優勝を記録したのである。
 中道もそのモーターボート記念で村上の3着に入選している。自身2度目のSG優出だった。
前年の総理大臣杯が初優出、そこではFに散っていた。これについては以前書いた山本泰照さんにまつわる物語に詳しい。
 記念優勝は初?の後、76年に地元なるとの23周年、77年にふたたび地元の地区選主権と増やしていき、78年はタイトルに恵まれなかったものの、前述のモーターボート記念3着があり、この時期に選手生活で初めてA級勝率トップ(8.21)の勲章を得た。
ハイレベルな同期、そして5期遅れてデビューして、一気に頂点へ駆け上がった野中和夫を追う形で、着々地位を固めていった。で、SG覇者に名前を記すその時が1979年がやってくる。

● 1979年
年末年始に丸亀→鳴門で、最初と最後に2着と4着を挟んで14連勝。凄まじい勢いで、中道の79年は幕を明けた。その後、唐津25周年でFを持ってしまったものの、勢いはいささかも揺るがず、宮島を優勝戦2着し、つづく桐生は8戦して負け知らずのパーフェクト優勝だった。
序盤のピークはここらあたりだったか、地元における3度目の四国地区選制覇と繋がっていく。
 中道は2走目に転覆、足を痛めていながら、そこから盛り返して優勝したのだ。エンジン自体も出足一本だったし、優勝戦当日は朝から風邪気味で体調を崩していた。それでもイントップスタートから、伸び足で勝る出晴政信の追撃を、収支冷静に捌き切った。その後の選手生活を映し出すような優勝劇ではないか。
 もはや地元では、並ぶ者なしのハンドルの冴えだった。全国区のビッグステージにおいて、それを発信するだけになっていた。

地区選のあとこそ、4節消化して3優出ながら優勝なしで終わったものの、笹川賞を前にして集計された新勝率は8.09。2期連続で8点オーバーを決めていた。しかもこういう流れの中で、4月3日に結婚式を挙げた。公私共にベクトルは最高潮に向かっていた。

《第6回笹川賞競走・住之江》
 当時の優先出場は前年覇者だけ、シードされていたのは彦坂郁雄だった。
実績的にはこれと並ぶ野中和夫はF禍に陥ってB級落ちしていたため出場権をもたず、最多得票を得たのは加藤峻二である。2位=北原友次、3位=井上利明、4位=岡本義則、5位=中村男也で上位を占めたが、当時の人気、選手勢力をまずは順当に指し示している。
 中道は8位に支持されて住之江に向かった。そこで手にした4号機のエンジン複勝率は29%、決して誉められないものだったが、初日イン逃げと順調に滑り出した。
誤算だったのは2日目、3日目である。内コースに陣取ったもののよもやの大敗、一躍ピンチに立たされてしまった。また、一方では、シリーズリーダーになるはずだった彦坂がどうにも冴えを欠いていた。
北原、岡本に地元期待の常松拓支も着が上がらず、荒れ相場の前半戦だった。2日目などは最低配当が970円で、2万5120円という大万舟も飛び出している。また彦坂は3日目遂にF。連覇の夢は潰えてしまった。

 中道は4日目2走に望みを託す事になった。ともにインと目論見どおりのコースを取ったが、結果は1着3着。得点5.80と微妙なポジションに立たされた。
そしてもう一人、北原が土壇場かららしさを見せた。予選ラストを日本レコードで駆け抜けて(ちなみにそのタイムは1分49秒3.現在より6秒以上も遅い)、ボーダーラインまで上がってきたのだ。こちらも得点率5.80である。中道とぴったり並んだ。
明暗は着位数で引かれた、1着本数で中道が上回っていたのである。中道は18番目に滑り込んだ。北原は次点に甘んじた。
稀代の勝負師を抑え込んだ瞬間、はっきりとしたツキを呼び込んでいた。

【準優勝戦・5月7日】
このシリーズで、希薄を露にしていたのは安岐だった。レンジt快スタートを繰り出し、楽々準優まで進んできた。ここでもそれは変わらなかった。
イン奪取、そして極めて早い仕掛けを見せた。何とコンマ00、ギリギリでオンラインに入れた。
しかし最年少の25歳にして、売り出し中の地元の若手、北山二郎がダッシュをつけて伸びてきた。これを牽制しにいった分、ジカ付けの福永達夫に差しきられてしまった。安岐は北山とバック並走、2マーク内有利に捌いて優勝戦のイスを確保した。

4メートルから5メートルの向かい風が吹いていた。その事が選手の踏み込みを大胆にさせたのか。安岐の00スタートはプロローグに過ぎず、次の準優が大アクシデントに見舞われた。
内に常松拓支−柴田稔、中に瀬古修−松尾泰宏、外に杉本健己−岩口昭三の予想通りの並びから、やや中へこみながら全艇はやい握りこみを見せた。
そして1マークは杉本の捲りに常松が抵抗、柴田と岩口が差して2マーク岩口が内有利に
先行も、ここで4艇Fが告げられたのだ。松尾と瀬古が僅かに残っていただけだった。

 中道はその重苦しい空気が残る中、敢然とピットを飛び出していった。回りこんでのイン取り、「誰も来んけん、放ったわ」のスタートでも、しりっとで他艇を半分から一つは千切る完勝だった。風向きが追い風1メートルに変わっていたことをも自分有利に取り入れた。
2着には全速→全速で大北隆志を抑えた加藤峻二、準優最後はこのように決着した。
 優出6人が出揃った。実績では既にSG?4の加藤、ついで?2の松尾だったが、松尾には3月の総理大臣杯につづくSG連覇が懸かっていた。
のこる4選手は安岐が6度目、福永が4度目、中道が3度目、瀬古は3年前のモーターボート記念準優勝以来のSG優勝戦への進出、初?を目指す走りとなった。

【優勝戦・5月8日】
枠番抽選で、インに最も近い6号艇を手にしたのは中道だった。しかし若干の不安があった。スローの効きと出足は十分だったものの、ピット離れに自信がなかったからだ。被せてこられるのが嫌だった。
「でもスタートは決まっているし、思い切って行くだけじゃ」
迷いを振り切った。朝から降り続いていた雨が午後になって上がり、優勝戦がはじまる前には、モヤもほとんどなくなっていた。中道の心境を映し出すように・・・。

 問題のピット離れも普通に出た。いち早くオレンジポールにたどり着き、そこに福永が忍び寄ってきたが、これはそんなに派手なアクションでなかった。大きく動いたのは安岐である。「早すぎる!」スタンドのドヨメキをよそに、2マークブイ横に居座ってしまったのだ。
「今までに自滅しよる事ばかりやったけん、2コースからの差しも考えとるよ」
戦前のインタビューもなんのその、生来の強気の虫には逆らえなかった。それでもスローは良く効いていた。100メートル起こしなら深くない。スタートも10とをピタリと決めた。
中道はターンマークから少し入った2コース。福永−松尾と続き、瀬古−加藤が奥へ引っ張っていった。
スタートタイミングは02の瀬古が早かったが、80メートル地点でのアジャストと伸び不足のため、うちの松尾に捕まり、松尾はその勢いを借りて安岐に向かった。ここで中道が安岐の動きを鋭く読んでいた。
「安岐さんは寄りすぎている。」
1マークを早く回りたい気持ちがそうさせた。人情である。松尾も安岐が握ってきたのに対応して捲くり差しに変えたが、それよりサキに中道の差しハンドルが入っていた。バックから中道、松尾、安岐で並走、そこに最内を加藤が伸びてくる展開になった。
中道は2マーク先マイ、加藤を回して差し迫る松尾を2周ホームで締めこんで、2周1マークで?を決定づけたのだった。
「出足がよくなっていた分、1マーク回ってスーッと出て行った」
最後に変えたピストンも当たった。中道は勝率に見合うビッグタイトルを手に入れた。名実ともに競艇界にニューヒーローが誕生した。

● 1980年
笹川賞でSG初優勝を果たした中道は、そのまま絶好調モードに入っていった。夏場の記念に6優出2優勝、蒲郡とまたも住之江の周年をコレクションした。
それまでは年間1タイトルの割合で来たのが、一挙に?3である。記念戦線における主役の一人に躍り出た。だが勢いは一時頓挫する。
準優で3着と敗れた福岡のダービーの最終日にFをしたのだ。これが年間3本目、80年最初のSG・総理大臣杯競走には出られなくなった。
年明けから記念の優出からも見放されてしまった。たしかにリズムは狂っていた。そんな中、じっと春の訪れを待っていた。前年覇者の権利で、笹川賞には出られる…

《第7回笹川賞競走・住之江》
前戦の一般戦を2節、ともに優勝戦2着として調子を整えた。そして中道は住之江に向かった。
この大会には、前年に続きまたも野中和夫の姿はなかった。その上、彦坂郁雄も不在、北原友次まで欠場となった。
ちなみにファン投票の上位は、加藤峻二・常松拓支・井上利明・岡本義則・立山一馬の順である。もちろん中道も今回のメンバーでは、堂々の優勝候補だった。
エンジンも良かった。抽いた3号機の複勝率は40パーセントを超えていた。中道はあっさりイン逃げで滑り出している。
 ただし噴きっぷりでは常松・中村男也である。エース機の鍛冶義晴、地元の上船俊一も軽快に動いていた。
新鋭の望月重信も(そう、この人もまた売りだしの頃だった)いきなり連勝と伏兵っぷりをアピールした。
中道は13131の好成績で予選をクリアー、インを取ったレースでは、必ず勝利に結びつけていた。

【準優勝戦・5月8日】
予選3位の中道は絶好枠である6号艇を手にした。出番は最初の8Rである。人気は当然・・・だが最も支持されたのは、スタート練習・展示航走で快速ぶりを見せ付けた中村男也だった。
中道はそこで『腕』を見せつける。隙を見せずにインキープ。実に力強い握りこみだった。
センターに出た中村は予想通りに伸びてきた。しかし、まったく危なげなかった。向こうが捲り流れるのを尻目に、悠々バックへ抜け出したのである。その後方では、差した立山が2マーク中村を裁いて、優勝戦のイスを確保した。
次の9Rも最後の10Rも振り返ればイン逃げの決着だった。
「ここは住之江」そんな声高らかなレースの流れだった。加藤元三が楽インから03スタートの速攻ならば、常松拓支は深インに身じろぎもしない、出足一気の押し切りだった。それぞれ2着には、差して強烈に伸びた上船俊一と、絶妙の落とし差しでつづいた後川博が入線した。
中道の連覇が懸かる一戦。その相手が決まった。全て近畿勢である。何と4名が地元である。中でも桁違いのパワーを見せつけていた常松が、最大のハードルと思われたのだが・・・

【優勝戦・5月9日】
その日の常松は明らかに変調していた。リング交換が裏目に出たといわれる。早朝練習から、ここまで準パーフェクトで来た面影が無かった。
でも、優勝戦は待ってくれない。定刻より45分遅れでピットアウトした。
絶好枠の加藤、スタート練習インの常松、この両者がコースを競った。前々に行く常松に加藤が必死に食らいつき、先に常松が音を上げた。外に艇クビを向けたのだ。
加藤はインを取ったと思った…一安心…その心の隙間を中道が見事に衝いた。するりと中道が滑り込んできたのである。
このレースにおいては、このシーンがすべてだった。中道は90メートルまで入ったものの「スタートした瞬間、勝ったと思った。」完璧な逃げを決めた。
後川が巧差し2着、常松は4コースまででて大敗した。しかし、何もかもが、素晴らしい笹川賞連覇の前では色褪せていた。

年号が平成になった年の3月である。
住之江のG1を制したばかりの中道さんに電話取材した時の一言が心に残っている。
「いつ辞めるかわからんぞ」
前年の賞金王でも準優勝、景気のいい話を引き出すはずだった。なのにこの言葉…聞き手の期待は裏切られたのだが、思えばあの時に、中道さんの今日を予感していた。
たしかに清い引き際だった。しかしそれは、ギリギリのところで戦ってきた故の清さだったという事を受け止めておきたい。
遠い春の日、若き中道さんによって、笹川賞連覇は達成された。ここに技のカリスマは誕生した。
この人のそれからの足跡を振り返るとき、まことに祝福されるべき競艇の春、2つの優勝だったと思うのである。



・・・・・・おしまい

マクール「競艇百物語」 文・鷲田義継 より

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