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ビートたけし コミュの写真

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写真
「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と『写真』について語っている[14]。


家族・縁戚
父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。2人の兄と1人の姉がおり、次兄はタレントで明治大学教授、工学博士の北野大である。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男、長女の井子。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。

たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。


人物
人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」とし、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあるとコメントした。

自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。

たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。


評価
1981年、文芸評論家の鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。

1983年、吉本隆明は栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[15]。この本は著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだが、一方で的外れだという批判も大きかった[要出典](のちにたけしは栗本と対談。後日、作家の小林信彦に「ああいうインテリはお笑いがわかってないのが、よくわかりましたよ」と洩らしたという[要出典])。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。

加藤茶はインタビューで「…たけし君が映画監督で評価されている。でも、(お笑いに)帰ってくると、必ずバカなことするじゃないですか。(バカをやる、という素晴らしさの)原点を知っているんです。だから大好き」と、評価している[16]。

色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)[17]。

一方で否定的な論評の一例としては1981年、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[18]。またルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、のちに吉岡はその認識を変え、北野映画のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。

それ以外にも辛淑玉、佐高信や諸井薫がたけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」とそれぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。

田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)としつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方でたけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判し、たけしに擁護的な立場を取った[19]。その後田中はたけしとテレビ番組でたびたび共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。またバイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。

たけしの誰でもピカソで島田洋七がゲスト出演した際に「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは自分が一番かな」と漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で自己評価をしている。


映画出演作品
戦場のメリークリスマスで注目され、Johnny Mnemonicでハリウッドデビューも果たした。自分以外の作品に出演する際は監督に意見しないようにしているという。

ゆけゆけ二度目の処女(1969年、エキストラ出演)
まことちゃん(1980年、アニメ映画に声優で本人役カメオ出演)
すっかり…その気で!(1981年、初主演作品)
マノン(1981年)
戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督、友川かずきの代役)
十階のモスキート(1983年、崔洋一監督)
哀しい気分でジョーク(1985年、瀬川昌治監督)
夜叉(1985年)
コミック雑誌なんかいらない(1986年、滝田洋二郎監督)
ほしをつぐもの(1990年)
教祖誕生(1993年、天間敏広監督、たけし原作)
Johnny Mnemonic(1995年、ロバート・ロンゴ監督)
Tokyo Eyes(1998年、ジャン・ピエール・リモザン監督)
御法度(1999年、大島渚監督)
バトル・ロワイアル (映画)(2000年、深作欣二監督)
バトル・ロワイアル 【特別篇】(2001年、深作欣二監督)
バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】(2003年、深作欣二・深作健太監督)
血と骨(2004年、崔洋一監督)
ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発(2008年、河崎実監督)

2009年現在の出演番組

レギュラー番組
世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ)
たけしのコマネチ大学数学科(フジテレビ)
奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ)
ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)
最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学(ABC)
たけしの誰でもピカソ(テレビ東京)
チャンネル北野eX(フジテレビ721)
情報7days ニュースキャスター(TBS)

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