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鉄道友達仲間サークル♪コミュの新線 廃線 未成線 写真館

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開業間もない新線新駅 夏草や兵どもが夢の跡…廃線やその夢半ばで途絶えた未成線を紹介して下さい

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長野県 篠ノ井線南松本駅前

南松本駅貨物ターミナルから延びる引き込み線跡
その先にラーメン屋さん 店内にも線路が残っていたら嬉しいが…[写真]
名鉄三河線‘山線’廃線歩き

旧枝下(しだれ)駅のホーム上の待合スペースには この旧山線を使った遊歩道の計画の案内があった[写真1]

その計画は 山線の現在の終着駅の猿投駅から旧山線の終着駅の旧西中金駅
その先の未成線区間の足助までの壮大な計画

線路跡がそのまま残っているのは この計画が残っているからなのか

旧枝下駅の夢みたいなプラン[写真2]

この先の矢作川橋梁の遊歩道の夢みたいなプラン[写真3]

旧枝下駅の先も 県道沿いも手付かずで線路跡が残っている[写真1]
普通だったら 道路拡幅のえじきになってもおかしくない

その先の矢作(やはぎ)川橋梁は通行できないが 東海自然歩道の看板が
工事用フェンス乗り越えて歩いちゃっていいの?[写真2&3]
旧矢作川橋梁は歩こうとは思えないが…[写真1]

矢作川橋梁現役当時[写真2]

次の駅 旧三河広瀬駅に到着[写真3]

ここも ホームもベンチもそのまま残る[写真1]

木造駅舎も現役当時以上にきれいに整備され 地域のコミュニティスペースとして活用されている[写真2&3]

旧駅舎内の改札口や運賃表も残されていた[写真1&2]
豊田線を介して 名古屋市営地下鉄の運賃がやたら詳しく掲げられている

現役当時の三河広瀬駅の様子の写真も展示[写真3]

京急 逗子・葉山駅 その先は三浦半島西岸を南伸し 久里浜線と接続し‘三浦半島環状線’の構想があったそう

逗子・葉山駅の南側はその予定地として細長い敷地が延びる[写真1]

その先は駐輪場に[写真2] さらにその先は京急バスの車庫になり 未成線の痕跡は消える

大河『麒麟がくる』ゆかりの地 岐阜県恵那市旧明智町を目指して 名鉄三河線の廃線歩き

旧広瀬駅を出た 旧三河線は農村風景の中 次第に高度を上げて行く[写真1]

そこに この先のトンネルの説明看板があった[写真2]
廃線は そっくりそのまま残っていたが その廃線の説明がこれまで全くされていなかった

終点の西中金駅まで 広瀬トンネルと力石トンネルと二つのトンネルがあることが分かる[写真3]

ひとつ目の旧広瀬トンネル[写真1]

トンネルをくぐると 水はけが悪いらしく 足元はぐちゃぐちゃ[写真2]
線路の上を歩こうとも 苔が生育しており 滑って転んで全身グッチャグチャになることが目に見えているので
泥の中を進む

次のトンネル 力石トンネルまでは築堤がそびえるが 広瀬トンネルと築堤をつなぐ橋梁は撤去されていた[写真3]

短い旧力石トンネル[写真1]の先も林の中の快適な散歩道に[写真2]

高度を徐々に下げ 林を抜ける
線路内に細かい砂利が敷き詰められ 歩きやすくなっている[写真3]

その高度を下げていた線路跡は立派な築堤の上
しっかりと草刈りもされており その築堤は美しい状態で残る 右手が終点の旧西中金駅[写真1]

架線柱も美しい状態で残されている[写真2]

神社に向かう第4種踏切は使用休止の告知もなく こちらも現役当時のまま[写真3]

事情を知らない人は 今でも一時停止をして参拝に向かっているとか

そして 終点の旧西中金駅に到着する ここでもホームなどはそのまま残る[写真1]

駅舎も現役当時のままで 土日は駅舎でカフェ営業しているそうで 平日のこの日は閉じられ駅舎内に入ることは出来なかった[写真2&3]

再び 鉄道路線として復活を目指しているかのごとく 全線にわたり 鉄道施設が橋梁以外は見事に残されていて 中々面白い廃線歩きでした

名鉄三河線 通称‘山線’の廃線歩き終了

しかし この先 足助(あすけ)という街を目指して未成線が延びているのでした
三河線‘山線’未成線歩きに続く
平成筑豊鉄道田川線 源じいの森駅の田川駅寄りの油須原駅から鉄道の路線が分岐してました[写真1]

国鉄油須原線という路線で 正確には未成線なので 分岐するはずだったというべきですが

2017年11月にこの旧油須原線探訪に出掛けて参りました

油須原駅構内 ホームは8両編成ぐらいは停車出来そうな長さですが それ以上に構内に延びる線路は長い[写真2]

石炭輸送で賑やかだった往時がしのばれる
今は 単行DCが行き交うのみで寂しい限り

田川線は油須原駅を出ると 掘り割りの中を走るが 旧油須原線の敷地は確保されている様子はなく
旧油須原線は田川線の線路と共有する予定だったと思われる[写真3]

その掘り割りを過ぎると 田川線と並行する旧油須原線の路盤が現れる[写真1]

そして 平成15年に設置された赤駅に[写真2]

赤村の役場が移転された際に駅が新設されたが
油須原集落から全く民家も無い山間部に わざわざ 移転する理由はなんだろうか
駅舎前には 線路があるが 旧油須原線を活用した 赤村トロッコ列車が運行されている
運行時は駅前にトロッコ列車が横付けされる[写真3]

しばらく 田川線と並走していた旧油須原線は左手にそれていく 奥が赤駅方面[写真1]

山あいに入り 最初のトンネルに[写真2]

トンネル内には 立ち入ることはできず トロッコ列車の車庫代わりになっている[写真3]

道路をまたぐ橋には「油須原線」と銘が入っている[写真1]

旧油須原線 最長700mの野原越トンネル
入り口はやはり閉ざされており 中に入ることはできない[写真2]
通り抜けられたら有難かったが…

トンネルの中をのぞくが そのトンネルはまだ新しい[写真3]

旧油須原線は 1980(昭和55)年まで工事が続けられたが この旧油須原線は 筑豊地区で採掘される石炭の輸送の為 バイパス路線として計画されたが
そのさなかに 石炭需要が急激してしまい 旧油須原線着工の意義は失われ
用地取得もほぼ終わり 6割は路盤完成し 軌道敷設も4割に達しており 完成間近だったが 建設は中断し放棄された

そんな経緯もあり このトンネルや路盤 軌道も完成から40年余りで まだ真新しい

野原越トンネルは通り抜けることはできなかったので 迂回し山を越えるが トンネルの出口は見つからず
旧油須原線の築堤が一部残り[写真1]

その先は 築堤は切り崩すされ 不必要に思える程広い歩道付きの2車線の道路になった[写真2]
築堤跡の道路の幅が広いということは それだけ築堤は高さがあったということ

この道路は 下っているが 油須原線の築堤と交差している道路と合流する為に 巨大築堤は切り崩された模様[写真3]

筑豊地区の石炭の栄華の忘れ形見 油須原線未成線歩き 後編

道路に転じた旧油須原線は 日田彦山線から分岐しショートカットし直進していた旧添田線に合流する[写真1]

旧油須原線と旧添田線がX(エックス)状に合流していた場所は 旧大任駅があった[写真2&3]

旧大任駅は構内は広かったらしく 交通公園として整備されていた 片隅に線路と車輪が置かれていた[写真1&2]

迷路のような 筑豊地区の線路網ですが 日田彦山線は小倉を出て今は 田川市や後藤寺市街に立ち寄ってから 添田駅に向かっていたが
元々 日田彦山線は石炭輸送が目的なので 田川市や後藤寺市街には寄らず 直進して添田駅に向かっていた
その後 田川市などに寄る為に分岐して こちらが日田彦山線を名乗り
元々本来の直進していた日田彦山線が添田線として分離したという歴史がある[写真3]
路線網もややこしいが その歴史もややこしい

しばらくして 旧油須原線は旧添田線から分岐していく
手前の道路が旧添田線 向こう側のコンクリート橋梁が旧油須原線[写真1]

彦山川を渡る 旧大行事橋梁は 昭和40年代半ばに建設されたので まだ真新しい[写真2]
これだけ立派な建造物を放置するなんて せめて遊歩道として活用できないか?

対岸に渡ると その先に続いていた築堤は撤去されていて なおさらこの巨大建造物が浮き立って見える[写真3]

築堤を削り取った跡は 農地に戻すともなく 単に田んぼの中の無駄に広い農道になっている[写真1]

道路は途絶え 油須原線跡は自然に戻りつつある
トンネルの入口があるが そんなに長くはないみたいだが
中をのぞくが出口は見えないので 通り抜けようとするチャレンジはしない[写真2]

トンネルの反対側は 住宅地になり 旧油須原線は生活道路に変わる[写真3]

合流する日田彦山線が近づくと路盤が現れる[写真1]

日田彦山線と合流地点
左側の茂みが旧油須原線[写真2]
単線並列という形を取らなかったのは すでに石炭輸送が既に斜陽に差し掛かっていたからか

国道が日田彦山線をオーバークロスするが
将来 油須原線が日田彦山線と分離し 単線並列になる構想が残っていたのか そのスペースを空けて高架橋が作られている[写真3]

未成線区間の起点の豊前川崎駅はすぐ

旧油須原線 未成線歩き終了

福岡県 筑豊地区廃線 未成線探訪シリーズ

添田線廃線歩き

添田線 いまいちマイナーな香りがするが 元々 日田彦山線の前身
東小倉駅(現在は廃駅)から添田駅を目指した1915(大正5)年開業の小倉鉄道がルーツ

後に後藤寺や田川など人口集積地に乗り入れる為に 一本松駅から伊田田川駅の連絡線を設け そちらが日田彦山線を名乗り
元々の添田駅まで直進していた元日田彦山線の添田駅までが 添田線になる[写真1]

一本松駅の先から分岐していた 旧日田彦山線の添田線跡は見事な築堤として残る[写真2]

築堤上の線路もそのまま残り 1985(昭和60)年に廃止になってから そのまま時間が止まっている[写真3]

レンガ積みの橋台が残る[写真1]

そして平成筑豊鉄道田川線と交差する ここも両側に橋台が残る[写真2]

添田線と平成筑豊鉄道田川線の前身の国鉄田川線は交差はするが 駅は設けられなかった
それは 国鉄田川線の前身は私鉄の豊州鉄道として 日田彦山線の前身が私鉄の小倉鉄道として開通したこともあり お互いを無視するかのような形になった[写真3]

田川線を渡った先の築堤上にも線路が残っていたが ぷっつりと途絶え[写真1]

築堤は削り取られ 2車線の道路に変わる[写真2]

今任駅跡は公園に[写真3]

今任駅跡の公園には 駅舎を模した様な休憩所があった[写真1]

中をのぞくと 昔の汽車時代の駅舎っぽく 山高帽をかぶった紳士がスーツケースを持って現れそうな感じ[写真2]

駅名標が再現されていた[写真3]
なかなか 凝った駅跡の公園でした

2車線の道路として続き
油須原線 と連結する大任駅を経て 終点の添田駅へ[写真1]

旧添田線1番線ホームはさら地になっていた[写真2]

添田線廃線歩き終了

名鉄三河線 通称‘山線’廃線 猿投駅〜西中金駅間の歩きは終了してましたが
その先 かつては宿場街賑わい 香嵐渓(こうらんけい)という観光名所がある 足助(あすけ)という集落を目指して計画は進んでいた

三河線‘山線’の終点の旧西中金駅は暫定的の終点だった

確かに 旧西中金駅終点は目立った集落はなく 終着駅にしては不自然な立地

旧西中金駅からは工事が進み 約4Km先まで路盤まで完成していたが線路は敷かれることはなかった

旧西中金駅から50mまで伸びた線路が埋められていた[写真1]

振り返って旧西中金駅をのぞむ[写真2]

三河線未成線跡は この先 国道の幅の広い歩道になり 集落の中の生活道路となっていた[写真3]

しばらく 生活道路に化した旧未成線を進むが 行き止まりの看板が立つ[写真1]

この先 国道をまたぐ高架があるので 築堤が築かれているが 国道をまたぐ橋梁部分は撤去されているので通り抜けは出来ない[写真2]

やぶに覆われた コンクリートの橋台[写真3]

国道を渡った先も 生活道路として続き[写真1]

道路脇にスペースが設けられ 何やらモニュメントが立っていた[写真2]

ここは駅が作られるはずだった
詩人の野口雨情のゆかりの地ということで 仮称野口駅だったそう[写真3]

沿道には 名鉄の社紋が入った境界柱も残されていた[写真1]

田んぼの中 築堤として残り かすかに鉄道の雰囲気が漂う[写真2]

農道をまたいだりする[写真3]

しばらくして 生活道路はぷっつりと途絶える[写真1]

この先に 岩山があり 目的地の足助まであと2Kmに迫っており ここで三河線延伸の意思は切れてしまったのか〜 無念…
路盤まで完成していたから 取り敢えずここまで開通して欲しかったねぇ

岩山を越えた先の川 橋の跡?に見えてくる[写真2]
終点の足助駅予定地は 市民病院に[写真3]

豊田市コミュニティバス「おいでんバス」のターミナルになっており 今の三河線‘山線’の終点の猿投駅からのおいでんバスと 旧足助町内や隣町の旧旭町に向かうバスの乗り換えが行われる

ただし 東岡崎駅や豊田市からの名鉄バスは乗り入れない

三河線‘山線’足助未成線歩き終了

あの前方に 屋島水族館がありますが、
あの屋島山の 真ん中が窪んだ所に 前にロープウェイが登ってたようで、
少し前までは、ロープウェイの駅に車両もあったみたいですね!

今は、バスに変わって運行される

屋島山からの 景色
松山 別子銅山
あの山の白い所に 別子森林鉄道が 通ってました!
すごいデス!!
別子 も 歴史がある所で…
日本三大銅山です。
(心霊スポットなんかいなあ?)

ぷらっとホーム跡地 と 駅があった写真
↑ぷらっとホーム跡地抜けてた(^^)

歴史ある鉄橋 と トンネル
今は 五分くらいトロッコで乗れます!
鉱山掘ってたら、山が割れたのである!

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