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戦史研究室コミュのWW2・ヨーロッパ戦線

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第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線の戦史を語りましょう。

コメント(85)

第2次ナルヴィク海戦

1940年4月、ドイツ軍はヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェー各地に侵攻した。ナルヴィク攻略部隊は、ボンテ代将が指揮する3個駆逐隊の駆逐艦10隻からなっていた。4月9日、ボンテ代将麾下の駆逐艦はオフォト・フィヨルドに侵入し、ノルウェー海軍の海防戦艦2隻を撃沈、兵員を上陸させてナルヴィクを占領した。
10日早朝、イギリス海軍の第2駆逐隊がフィヨルド内のドイツ駆逐艦に攻撃をかけた。この第1次ナルヴィク海戦でイギリス側は駆逐艦2隻が沈没、ドイツ側は駆逐艦2隻が撃沈され、3隻が大破した。また、ドイツ駆逐艦は弾薬、燃料の不足が深刻な状態になっていた。

4月12日午後、空母フューリアスから発進したソードフィッシュが、フィヨルド内のドイツ艦船攻撃を行ったが戦果はなかった。そのため、戦艦の投入が命じられ、その部隊の指揮官には巡洋戦艦戦隊司令官だったウィリアム・J・ホイットワース中将が選ばれた。巡洋戦艦レナウンを旗艦としていたホイットワース中将は、13日に司令部を戦艦ウォースパイトに移した。

戦艦1隻と駆逐艦9隻からなるイギリス艦隊は、オフォト・フィヨルドへの入り口のあるヴェスト・フィヨルドに集結し、フィヨルド内へ侵入を開始。ドイツ軍ナルヴィク攻略部隊の駆逐艦を攻撃し全滅させた。
海戦後、イギリス艦隊はドイツ軍の航空機や潜水艦の攻撃を避けるため、フィヨルドの外へ引き揚げた。

第1次ナルヴィク海戦と第2次ナルヴィク海戦の結果、ドイツ軍ナルヴィク攻略部隊の駆逐艦10隻は全滅した。
戦艦ウォースパイトを中心とするイギリス艦隊は、4月24日に再びフィヨルド内へ進入しナルヴィクを砲撃した。連合軍は5月28日にナルヴィクを占領したが、6月7日、8日には撤退した。
当トピックで柳先生さんが、WW2について深い考察をされていますが、それとは別に私自身の勉強のために時系列に沿って、WW2の戦争史(作戦史)を記述しています。
柳先生さんやメンバーの方にはうるさいかもしれませんが、ご容赦ください。

なお、私の記述に足りない点や補足したい点、質問等ありましたら、遠慮なく書き込みしていただきたいと思います。

私は、ヨーロッパ戦線については満足に、その流れも知らないので、皆さまのご教示をお待ちしております。
>26 柳先生

僭越ですが「カチンの森」事件について、私から書込みさせて頂きます。第2次世界大戦を語る際に外せない重大事件であると考えます。

『スターリン秘録』(産経新聞社刊)より一部転記

1939年9月1日、ヒトラーが西方からポーランドに侵攻して第2次世界大戦が火を噴くや、スターリンも独ソ不可侵条約の密約に基づいて東方からポーランドに軍を進め、ロシア帝国の領土だった西ウクライナと西ベラルーシをあっさりと奪回した。この過程でソ連軍は25,000人を超す大量のポーランド将兵を捕虜にした。これが後に「カチンの森」事件として国際的な論議を呼ぶポーランド兵の大規模粛清の契機となる。

1940年3月5日、内務人民委員(内相)、ラブレンティ・ベリヤはスターリン宛に「厳秘」と記した「ポーランド兵銃殺承認要請書」を送っていた。そこには「内務人民委員部の軍事捕虜収容所とウクライナとベラルーシの西部各州の監獄には、ポーランド軍の元将校、元警察官、元スパイ、元ポーランド民族反革命メンバーらが収容されている」と報告した上で、スパイや警察官、軍人は階級別に仕分けし、銃殺人数を明記したリストがあった。この表紙にスターリンは「ザ(承認)」とメモを走らせて署名した。

1959年3月3日、当時の国家保安委員会(KGB)議長、アレクサンドル・シェレービンが党第一書記のニキタ・フルシチョフにこのベリヤ報告書の内容を説明した手書きのメモが残っている。それによると、銃殺されたポーランド兵は21,857人で、内訳は
●スモレンスク州近郊のカチンの森=4,421人
●ハリコフ近郊のスタロベルツスキー収容所=3,820人
●カリーニン州オスタシコフスキー収容所=6,311人
●西ウクライナと西ベラルーシの収容所と監獄=7,305人
となっていた。(ソ連共産党中央古文書館所蔵の秘密古文書)

1943年4月、ソ連に侵入していたドイツ軍はカチンの森で4千人を超えるポーランド将兵の虐殺死体を発見したと発表する。しかし、スターリン指導部は1944年、「特別委員会」を組織し調査した結果として「ドイツ軍による犯行」とヒトラー軍に罪をかぶせた。

ソ連当局が「ソ連秘密警察の仕業だった」と公式に謝罪するのは、ゴルバチョフソ連大統領の1990年4月のポーランド訪問を待たねばならなかった。しかし現実には、カチンの森の犠牲者もスターリン粛清の一部にすぎず、その4倍ものポーランド将兵がソ連各地の収容所、監獄で銃殺されていたのだった。<終>


同事件については、ウィキペディアでも閲覧する事ができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6



まやかし戦争

第二次世界大戦初期における西部戦線のことを意味する。
1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻の後、1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻まで、ドイツとフランス・イギリスは戦争状態にあったにも関わらず、西部戦線では陸上戦闘が皆無に近い状態であったことから、「奇妙な戦争」とも呼ばれる。ドイツでは「座り込み戦争」、フランスでは「花戦争」とも呼ばれていた。

1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、9月3日にフランスとイギリスはドイツに対し宣戦布告した。ドイツ陸軍は主力がポーランド方面にあるため、弱体な部隊が西部国境沿いに展開しているのみであった。ポーランドは約1ヶ月でドイツおよびソ連に占領されるが、フランスとイギリスは軍を動員し、フランス・ドイツ国境およびフランス・ベルギー国境沿いに陸軍部隊を展開した。
この後、1940年5月にドイツが西方諸国に侵攻するまで、フランス・ドイツ国境地帯においては、フランス軍がドイツにごく小規模な侵攻を行い撤退したことを除けばほとんど陸上戦闘は生じなかった。戦争状態にあり、国境を接しているにもかかわらず戦闘が生じないことから「まやかし戦争」との名称が生じた。

ただ、フランス・ドイツ国境地帯では陸上戦闘はほとんどないものの、北欧では冬戦争やドイツ軍による北欧侵攻が行われており、また海上ではUボートによる攻撃やラプラタ沖海戦など活発な戦闘が行われている。
>「奇妙な戦争」とも呼ばれる。ドイツでは「座り込み戦争」

 これは読んだことがありますね。。。私が読んだのはどこぞの川をはさんで、お互いに白旗ふって、川の真中で食料を投げ合って交換していたというのがあります。

 まあ、兵士は国の都合で戦争はするけど、必ずしも憎みあっているわけではないということですか。
1945年4月頃の西部戦線についていくつか質問させていただきます

もしご存知の方がいらっしゃればご教示もしくは資料を紹介していただければ幸いです
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質問1
SS-Panzerbrigade "Westfalen",
武装親衛隊装甲旅団"ヴェストファ−レン"

と

sPz.Abt 507
第507重戦車大隊

の関係ですが、第507重戦車大隊は国防軍の部隊ですよね

ですからこの時期の武装親衛隊の"ヴェストファ−レン"を「支援」していたのでしょうか?それとも"ヴェストファ−レン"の「指揮下」に入っていたのでしょうか?ドイツ軍が柔軟にカンプグルッペを編成していたのは知っていますし、この時期(レマ−ゲンが突破された後)のドイツ軍が崩壊しかかっていたのも理解できるんですが・・・

このあたりの関係がよくわからないんです
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質問2

1945年4月10-11日の「オステロ−デ(Osterode)の戦い」でモ−スベアクの森で善戦したフラッヘスバ−ト大尉の集成中隊で活躍した第228装甲猟兵大隊の1両のヘッツァ−ですが「ラストオブカンプグルッペ」のP358の地図ではモ−スベアクの森付近で撃破マ−クがついていますが、下記のドイツのサイトではヘッツァ−はオステロ−デまで後退に成功したように見えるんですが、あのモ−スベアクの森の青い点はヘッツァ−ではないんでしょうか?

http://www.alpha64.de/o-k-saft.htm

集成中隊とヘッツァ−の運命が知りたいのです。知っておられる方がいらっしゃればよろしくお願いします

ヘッツァ−といえば第326国民擲弾兵師団か第277国民擲弾兵師団の装甲猟兵中隊はもうこの頃には消耗しちゃってたんでしょうねぇ・・・

逆にオステロ−デで最後まで戦う第1326突撃砲大隊の?号突撃砲G型3両はどこから来たんだろうと考えてしまいます
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オステロ−デで撃破された第507重戦車大隊のティ−ガ−?のクルーが射殺されたのは同じ4月11日にオステロ−デを陥落させたアメリカ第3機甲師団の別の部隊がノルトハウゼンを陥落させたのと関連があるんでしょうか?・・・でもこれはきっと答えが出ないでしょうね

注、ノルトハウゼンは以前に他トピでフォン・ブラウンやシュペ−アに関連してでてきたV2の地下工場・ド−ラ収容所がある町です
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写真はモ−スベアクの森で米第3機甲師団の6両のM4シャ−マン戦車を撃破した第507重戦車大隊のティ−ガ−?の位置はどこか?とグ−グルア−スの現地(モ−スベアクの森)の写真と1/44の戦車を並べてみたところ

でも実際の距離は800mの1/144なので実際の縮尺でやると約5.5m離さなきゃいけないので「家の中ではでき-ん!」となりました・・・気づくの遅すぎですよねw

もう一つは6両を撃破した後、ティ-ガ−?が最後にオステロ−デで撃破された史実の写真です

あ、脱字発見!戦車の縮尺は1/144です

失礼いたしました。

あと下記の()内は「。」だけでよかったですね

>下記のドイツのサイトではヘッツァ−はオステロ−デまで後退に成功したように見えるんです(が、)あのモ−スベアクの森の青い点はヘッツァ−ではないんでしょうか?

他にもいろいろあるかもしれません・・・駄文ですいません
連続ですみません。

参考文献&Webを提示しておくのを忘れておりました

メインの参考文献
「ラストオブカンプグルッペ」
「1945年のドイツ国防軍部隊」等

メインのWeb参考資料
1945 - Das Kriegsende in Osterode am Harz
http://www.alpha64.de/1945.htm
ドイツ語は読めないので内容はほとんどわかりません

第512重戦車駆逐大隊
http://www.eonet.ne.jp/~noricks/sub03/sJgpzAbt512.html
オット−・カリウスは第2中隊長だからオステロ−デには参加してないんですよね

ドイツ重戦車大隊
http://web1.aaacafe.ne.jp/~catalog/tiger/daitai.html

等

第11軍がたてこもるハルツ山地を迂回してゆく第7軍団のコリンズの采配(なんでしょうか?)も調べるときっと面白いんでしょうねぇ

もっと調べるなら買っておくべき資料があるのはわかっているんですが・・・なかなか資金繰りと家のスペ−スが難しいですよねぇ
>資金繰りと家のスペ−ス・・

激しく同意・・
19日に始まるジャンボとミリオンドリームに期待をかけよう・・
>74

質問1に対する自己レス

重戦車大隊記録集-1-陸軍編 
http://www.amazon.co.jp/%E9%87%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E5%A4%A7%E9%9A%8A%E8%A8%98%E9%8C%B2%E9%9B%86%E3%80%881%E3%80%89%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%B7%A8-%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC/dp/4499226686

P368
第507重戦車大隊の項目で

1945年3月28日
第3中隊をSS戦車旅団「ヴェストファ−レン」へ分遣。

とありますからそういう形で所属したようです

この記載のした(1945年3月30日)に載っているロ−ズ少将殺害事件・・・興味深い事件ですね、時間があったら調べてみたい
【独ソ戦】東部戦線について【大祖国戦争】が盛り上がりをみせているので、刺激されてWW2を勉強し直しています。

WW2で雑談めいた会話をされたい方は、こちらでもやりましょう。

それにしても、ナチス・ドイツもソ連もWW1で生まれた国家体制なんですよね。あらためて世界史に与えたWW1の影響力を感じます。

WW1について本格的に言及されたい方は、以下をご覧ください。
《第一次世界大戦》トピック
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24829247&comm_id=396416

第一次世界大戦コミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3908422

 @CeJourHistoireさんのX投稿。
 ペタン元帥は第一次世界大戦の英雄でしたが守旧的な権威主義者であり、第二次世界大戦でフランスが英国と共にドイツと戦い続けることで既成の秩序が崩れるよりも、ナチス・ドイツに屈してフランスの古い価値観を守ることを選びました。

 >ペタン元帥とヒトラーの有名な握手は1940年10月24日に遡ります。ヒトラーは見返りに何も与えませんでした。

 フランスは1940年6月に敗北しました。84歳のフィリップ・ペタン元帥が、ヴィシーで樹立された政権を率いています。

 ヒトラーはスペイン国境のエンダイから戻ってきました。前日、彼はスペインの独裁者フランコと会談しました。

 彼の列車はロワール=エ=シェール県の小さな駅、モントワール=シュル=ル・ロワールに停車します。すぐ近くのトンネルが、航空機から彼を守ることができます。

 ホームで、ペタンはヒトラーの手を握ります。プロパガンダの写真家たちがそこにいます。

 公式な報告書は一切公表されませんでした。合意は何一つ署名されませんでした。

 ペタンはイギリスとの戦争参加を拒否しました。ヒトラーは一方、何も譲りませんでした。

 10月30日、ペタンはラジオで語ります:「私は今日、協力の道に入ります。」

 この写真はプロパガンダに使われるはずでした。それは協力の象徴として残りました。
https://x.com/cejourhistoire/status/2113979074465206483?s=61&t=_uvwdkGYTMiIcu49KlE0kw
【戦間期の話題】

 @UnJourHistireさんのX投稿。この時の日和見が原因で、戦後、イタリアの王政は廃止に。

 >ローマ進軍は1922年10月28日に始まった。ムッソリーニ自身は歩かず、2日後の11月1日に王から召喚されて寝台車で到着した。

 彼の黒シャツ隊は、3万人未満の貧弱な武装の男たちだったが、装備の整った正規軍と対峙していた。王は軍の介入を拒否した。

 1922年当時、イタリアは第一次世界大戦から疲弊して抜け出したばかりだった。ストライキと暴力が多発していた。

 元社会主義ジャーナリストのベニート・ムッソリーニは、ファシスト運動を創設した。彼の民兵である黒シャツ隊は、ストライキ参加者や左派の当選者を攻撃した。

 数日前のナポリで、彼はこう宣言した:「彼らが我々に政府を与えないなら、我々はローマへ向かってそれを取る!」

 10月27日から28日にかけての夜、彼の部下たちは公共施設を占拠し、首都へ向かって進軍した。

 ローマでは、約2万8千人の装備の整った兵士が彼らを待っていた。

 政府首班のルイジ・ファクタは、戒厳令を布告しようとした。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は署名を拒否した。

 ムッソリーニ自身はミラノに留まっていた。すべてが失敗した場合、スイスへ逃亡する準備ができていたと言われている。

 10月29日、王からの電報が彼をローマに呼び、政府樹立を命じた。

 彼は夜行列車に乗り込んだ。30日朝、彼は黒シャツ姿で王に謁見し、戦場から戻ったかのように振る舞った。

 その後、彼の部下たちがローマを行進した。進軍は勝利の後に行われたのだ。

 ムッソリーニは20年以上にわたりイタリアを統治した。
https://x.com/cejourhistoire/status/2115535076268347706/photo/1?s=61

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