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戦史研究室コミュの中世戦史の部屋

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中世戦史についての雑談トピックです。
使い方は自由です!

対象となる時代は大まかに以下の通りです。
★西洋史
 5世紀(西ローマ帝国崩壊:476年頃)〜15世紀(東ローマ帝国崩壊:1453年頃)
★中国史
 3世紀(後漢王朝崩壊:220年頃)〜10世紀(北宋成立:960年頃)
★日本史
 12世紀(鎌倉幕府成立:1192年頃)〜16世紀(朝鮮征伐:1599年頃)

主な戦争については、以下をご参照ください。
「戦争一覧」https://w.wiki/3KXm

※時代区分はトピック運用のため便宜上、採用したものです。
皆さまのご意見により変更する場合があります。また時代区分は厳密なものではありませんので、境目近くの区分につきましては皆さまの判断にお任せいたします。

コメント(17)

背景画像に「クレシーの戦い」を採用しましたので、wiki記事ベースに特徴を記します。

クレシーの戦い(英: Battle of Crécy)

1346年8月26日に百年戦争の一環としてフランス北部、港町カレーの南にあるクレシー=アン=ポンティユー近郊で行われた戦い。エドワード3世率いる少数のイングランド軍(約1万2千人)がフィリップ6世率いるフランス軍(約3万 - 4万人)を打ち破った。歴史家はこの戦いを騎士道華やかなりし時代の終焉の始まりを告げるものだったと位置づける。

イングランド軍のロングボウを装備した弓兵の活用は、バノックバーンの戦いでの手痛い敗戦を経て、スコットランド独立戦争の中で急速に発展していた。イングランド軍の戦術の骨子は、戦闘力の高い下馬騎士と熟練した弓兵の連携にあった。
フランス軍の騎士は、自身の力への過信のために血気盛んで、統率を乱していた。フィリップ6世はこれを見て当日の戦闘開始を決意。ロングボウ部隊に対抗するためにクロスボウ部隊を前衛に配置し、その後方にフランス騎士軍(重騎兵部隊)を配置した。

まずフランス軍のジェノヴァ人の傭兵で構成されたクロスボウ部隊が射撃を行い、戦闘が開始された。対するイングランド軍は、ウェールズ人の自由農民で構成されたロングボウ部隊が応射し、射撃戦となった。フランス軍はイングランド歩兵の恐怖を煽るために、クロスボウ部隊の攻撃に合わせて楽器を打ち鳴らしたが、その目論見は脆くも崩れ去った。本来、直接照準における水平射撃では射程、威力、命中精度に勝るクロスボウであったが、上向きの射撃となったことで、効果が大きく減殺された。一方のロングボウ部隊は上方からの射撃であり、地理上の優位があった。
また、エドワード1世の時代より時間をかけて鍛え上げられてきたロングボウ部隊は練度も高く、クロスボウに比べて扱いの難しいロングボウを完璧に使いこなしていた。ロングボウは間接照準で上方に向かって打ち上げることにより射程の点でクロスボウに勝った。また1分間に1、2発程度しか発射できないクロスボウと、1分間に6 - 10発と速射性能で大きくまさるロングボウとの差は明白で、クロスボウ部隊は散々に打ち負かされた。 また一説には、フランス軍が出撃準備の整っていないクロスボウ部隊を強制的に(脅して)出撃させ、そのため大盾で身を隠すことの出来ないクロスボウ部隊はロンクボウの一斉射撃に混乱し、崩壊したとも言われる。
劣勢となったフランス軍だったが、怯むことなく重騎兵部隊による突撃戦術を敢行する。退却しようとしていたクロスボウ部隊は後方から迫った味方の騎士に薙ぎ払われ、踏み潰された。自然の傾斜と人工の障害、そして雨による不安定な地盤によって重騎兵部隊の進行は妨げられ、その突撃の威力は減少した。ある者はロングボウに貫かれ、ある者は落馬して圧死し、それでもなおフランス軍は幾度となく突撃を繰り返し、正面の歩兵部隊に猛攻を仕掛けるが、イングランド軍の陣形を崩すことができず、両側面から矢を射掛けられて負傷者が続出した。夕暮れになってついにフィリップ6世は自軍の退却を命じ、クレシーの戦いは終結した。

フランス軍退却後、イングランド兵は身代金を取るために敗残兵のチェックを行った。その際、重傷の兵士はミゼリコルデ(慈悲の短剣)によって止めを刺された。その後、イングランド軍は港町カレーを包囲し占領したが、ペストの流行などの要因により一時休戦協定を結び、足踏みを余儀なくされる。
しかし、この戦いでロングボウ部隊を利用した戦術を用いて勝利したイングランド軍は、フランス軍のクロスボウ部隊および重騎兵部隊を用いた戦術に対して優位に立ち、以後の戦いでも同様の戦術で勝利を収めていくこととなる。
【薔薇戦争の話題】

 6月に英国に行く機会があり、昔ながらの駆け足でロンドン塔(の一部)を見てきました。
 薔薇戦争(1455〜1485)勃発当時の国王で、戦争の原因にもなったヘンリー6世(1421〜1471)は英国王ヘンリー5世を父に、仏王女キャサリン・オブ・ヴァロアを母に持ち、生まれながらに英仏両国に王として君臨することを約束された人物でしたが、政治や軍事の才能には恵まれず、百年戦争での敗戦や寵臣による縁故政治によって親戚であるヨーク公リチャードの反乱を招いてしまいます。

薔薇戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-049.html

 ヘンリー6世はヨーク公の息子であるマーチ伯エドワード(エドワード4世)によって王位を奪われてロンドン塔に幽閉。その後エドワード4世が身内の反乱などで窮地に陥った時は彼を許し、勢力を盛り返したエドワード4世によって再び幽閉されるという仕打ちを受けてしまいます。
 薔薇戦争の帰趨がヨーク朝の勝利で決したところで、利用価値の無くなったヘンリー6世は礼拝中にエドワード4世の刺客に暗殺されてしまったといわれています(公式発表では自然死)。

 シェイクスピアの戯曲『ヘンリー6世』の主人公ということもあり、お墓か最期の地にお参りしたいとずっと思っていたのでした。信仰篤く、学問を愛し保護した寛恕の人ヘンリー6世の冥福を祈りつつロンドン塔を後にしました。
【薔薇戦争の話題】

 薔薇戦争、ロンドン塔といえば「リチャード3世によってロンドン塔に幽閉され、失踪を遂げた(暗殺された)幼い王エドワード5世と、その弟ヨーク公リチャード」の悲話は欠かせません。
 2人の幽閉、失踪の舞台となったブラッディータワーはロンドン塔の中でも大人気で、観光客が絶えません。上の階では2人の悲劇を壁に映した影絵で紹介しています。

 実は2人は殺害されておらず、当のリチャード3世によって塔から脱出させられ、名前と身分を変えられた上で然るべき保護者を与えられていた…という研究も近年発表されています。成人したエドワード5世とヨーク公リチャードが王位奪還を求めて戦った意外な相手も。

◉ナショナル・ジオグラフィック(日本語電子版2024年6月)の記事
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/053000295/

◉この件を解説しているゆっくり動画(よつばch)

https://youtu.be/8YMru-VA310?si=hiRjCtYes9iVf9GJ

 非常にスリリングかつ説得力のある発表で、「大悪人」リチャード3世の評価をも塗り替える可能性があるものの、これだけ世界中に流布された「悲劇」〜観光地としてのロンドン塔の目玉でもある〜ともなると、オトナの事情で公認されるのはまだまだ先なんだろうなあと思います。

 写真はブラッディータワー入口と、外から見たロンドン塔。

 
【薔薇戦争の話題】

 薔薇戦争の前哨戦というか、プランタジネット朝からランカスター朝に王座が移ったリチャード2世の廃位。
 リチャード2世がヘンリー・ボリングブルックに王権を譲り、新国王ヘンリー4世が誕生したのがロンドン塔のホワイトタワーでした。シェイクスピアの戯曲『リチャード2世』ではウェストミンスター寺院で大規模な譲位式が行われたとされていますが史実とは違うそうです。

 明治時代にロンドン塔を訪ねた夏目漱石が、リチャード2世の非命について綴っています。

 >千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。僧侶、貴族、武士、法士の前に立って彼が天下に向って譲位を宣告したのはこの塔中である。その時譲りを受けたるヘンリーは起(た)って十字を額と胸に画して云う「父と子と聖霊の名によって、我れヘンリーはこの大英国の王冠と御代とを、わが正しき血、恵みある神、親愛なる友の援(たす)けを藉(か)りて襲(つ)ぎ受く」と。さて先王の運命は何人も知る者がなかった。その死骸がポント・フラクト城より移されて聖セントポール寺に着した時、二万の群集は彼の屍を繞(めぐ)ってその骨立せる面影に驚かされた。あるいは云う、八人の刺客(せっかく)がリチャードを取り巻いた時彼は一人の手より斧を奪いて一人を斬り二人を倒した。されどもエクストンが背後より下せる一撃のためについに恨みを呑んで死なれたと。ある者は天を仰いで云う「あらずあらず。リチャードは断食をして自からと、命の根をたたれたのじゃ」と。いずれにしてもありがたくない。帝王の歴史は悲惨の歴史である。
 いつもの@CeJour_HistireさんのX投稿で、アルビのサント=セシル大聖堂についてです。
異端とされたカタリ派(アルビジョワ派)が勢力をもつフランス南部を攻撃する為、ローマ教皇インノケンティウス3世がフランス王フィリップ2世に要請して、アルビジョワ十字軍を興しました。120年から1229年まで続いたこの戦争で、カタリ派とこれを支持する有力者たちは殺戮と財産掠奪の憂目に遭い、フランス王権は南仏に勢力を拡大しました。

https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-024_1.html

 >アルビ大聖堂は要塞のように見える。なぜなら、実際に要塞だからだ。

 高さ40メートルの赤いレンガの壁、ほとんど窓のない、唯一の門が開いているだけ。遠くから見ると、街の上に置かれた城郭のように見える。

 建設は1282年に始まり、ちょうど戦争から抜け出したばかりの地域だった。長年にわたり、教会はカタリ派を追跡した。彼らは南部のキリスト教徒で、異端と見なされ、オック語圏での十字軍の末にその運命を辿った。

 教会は勝利し、その勝利を目に見える形で示したかった。したがって、司教は単なる質量だけで圧倒する建物を建てさせた。

 すべてがレンガでできている。なぜなら、タールヌ平野には石材が不足しているからだ。完成にはおよそ200年かかり、高さ78メートルの鐘楼が加わった。

 内部には、最後の審判のフレスコ画があり、ビルの長さほどもある。それは、呪われた者たちがどこへ行くのかを、誰もが思い起こさせる。

 今日では、世界最大のレンガ造り大聖堂として知られ、ユネスコに登録されている。威嚇のための武器が、国の一つの宝となった。
https://x.com/cejour_histoire/status/2092476891735445669?s=61&t=_uvwdkGYTMiIcu49KlE0kw
コメント7訂正。120年からバツ 1209年から輪
【薔薇戦争の話題】

 今日8月22日はリチャード3世が戦死を遂げた命日だったとは!

 「馬をくれ!馬をくれたら国をやるぞ!」

 主にシェイクスピアのせいで悪逆非道の醜い暴君としてのイメージが強いリチャード3世も、近年の研究ではかなり見直しが進んでいるようです。幼王エドワード5世と弟のヨーク公リチャードも、本当は殺していないとも…。CeJour_HistireさんのX投降です。

 >1485年8月22日、イングランドの王が戦場で命を落とす。5世紀後、その骨格が駐車場の下から発見される。

 その死者こそ、リチャード3世である。その朝、彼はイングランド中部のボズワース近くで、王冠を奪おうとするライバル、ヘンリー・テューダーに立ち向かう。

 リチャードは混戦の中心に突撃し、自らの手でヘンリーを討とうとする。わずかに失敗し、包囲され、武器を手に戦死する。

 彼とともに、イングランドを3世紀以上支配してきたプランタジネット朝が滅亡する。ヘンリー・テューダーは戦場で王冠を拾い上げ、ヘンリー7世として王となる。

 この日以来、イングランドの君主が戦闘で命を落とすことは二度となかった。リチャード3世は最後の王である。

 彼の遺体は急ごしらえで埋葬され、墓碑もなく、レスタ―市の小さな教会に葬られる。その後、教会は消滅し、埋葬場所さえ忘れ去られる。

 2012年、レスタ―の駐車場の下、想定される場所で考古学者たちが発掘する。彼らは、重度の脊柱側弯症で歪んだ脊柱を持つ骨格を発見する。それは、文献が記す王の姿とぴったり一致する。

 生き残る子孫のDNAと比較した分析が、信じがたい事実を裏付ける。まぎれもなく彼だ。死後500年以上を経て。

 武器を手に戦死した最後のイングランド王は、市の駐車場の車の下で終わりを迎えていた。
https://x.com/cejour_histoire/status/2091027089638187026?s=61&t=_uvwdkGYTMiIcu49KlE0kw

↑ 近世戦史の部屋から移しました。薔薇戦争の話題なので。
【百年戦争の話題】

 @CeJour_HistireさんのX投稿から。
 百年戦争当時のフランスは今日のように一枚岩の「フランス」ではなく、貴族たちや〇〇公国の関係が私にはよくわからないのが残念です。イングランドの方の理解はシェイクスピアの『リチャード2世』を上演した関係で少しはマシですが、黒太子の具体的な業績についてはまだまだ…この人が早死にしないで「エドワード4世」になっていればプランタジネット朝ももう少し続き、リチャード2世も餓死もしくは暗殺されなくて済んだろうに…と。

 >フランス王は、ポワチエから8キロ離れた場所でイングランド人に捕虜にされた。その夜、彼の勝利者は彼を立たせて食事を給仕し、一緒に座ることを拒否した。

 1356年9月19日土曜日、ヌアイユ=モペルテュイ。
 王の名はジャン2世、通称「善良王」。対するはイングランド王の息子、ウッドストックのエドワード、後に「黒太子」と呼ばれる。

 フランス軍は2、3倍の数で優勢だったが、朝のうちにウェールズの射手たちに切り刻まれ、敗北した。最後には、王は徒歩で戦い、狭まる円の中心にいた。彼の傍らには末息子のフィリップ、14歳。伝承によると、彼は父に右を守れと叫び、次に左を守れと叫んだという。この日の出来事から、彼は「大胆王」の異名を得た。ジャン2世は、フランスから追放されイングランドに仕えるアルトワの騎士、デニ・ド・モルベックに降伏した。彼は右の手袋を差し出した。

 その夜、黒太子の天幕の下で、敗者は勝利者によって給仕されながら夕食をとった。勝利者は彼のテーブルに座ることを拒否した。

 次にボルドー、冬。続いて1357年春のロンドン。
 1360年、ブレティニー条約で身代金は金貨300万エキュに定められた。解放前に100万エキュを支払い、残りは83人の人質で保証。その中には息子2人も含まれていた。
 フランスにはその金がなかった。1360年12月5日、王の騎馬像を刻んだ新しい貨幣が鋳造された。

それは「フラン」と呼ばれた。

 1363年、人質の息子の一人が脱走した。ジャン2世は再びロンドンで自ら囚われの身となった。彼はそこで1364年4月8日に没した。死去時、身代金は3分の1しか支払われていなかった。身代金を清算するために生まれた貨幣は、ユーロに取って代わられるまで存続した。
https://x.com/cejourhistoire/status/2101248944009548045?s=61&t=_uvwdkGYTMiIcu49KlE0kw

◉ジャン2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B32%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

◉エドワード黒太子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E9%BB%92%E5%A4%AA%E5%AD%90
【百年戦争の話題】

 @CeJour_HistireさんのX投稿。
 オルレアンの乙女ことジャンヌ・ダルクは意外や、シェイクスピアの長編戯曲『ヘンリー6世』にも登場します。役名はずばり「乙女」。
 史実通りの颯爽ぶり…と思いきややっぱり魔女扱いで、悪霊の召喚して働かせるのでした。お芝居の中では英国のヨーク公リチャード(のちヘンリー6世に叛乱して薔薇戦争を起こし戦死する、エドワード4世やリチャード3世の父)に捕えられ、火刑に処されるのでした。
 
 >オルレアンは、ジャンヌ・ダルクの到着前に6か月以上も包囲に耐えました。ついには自らの郊外を破壊するほどでした。

 それは598年前のことです:包囲は1428年10月12日に始まりました。

 1428年、百年戦争はフランスにとって不利な展開をしていました。イングランド人とそのブルゴーニュ同盟者はパリと王国北部を支配していました。

 その敵たちはシャルル7世を「ブールジュの小王」と呼びました。彼はロワール川以南しか支配していませんでした。

 オルレアンは川にかかる唯一の橋を守っていました。それが陥落すれば、南への道が開かれるのです。

 10月、ソールズベリー伯のイングランド軍が街の前に到着しました。

 彼らは橋を守る要塞、トゥレルに占領しました。

 10月末、ソールズベリーはトゥレルの窓から街を観察していました。オルレアンから発射された砲弾が壁に命中しました。

 彼は顔に傷を負いました。数日後に亡くなりました。

 誰が撃ったのかは誰も知りません。年代記では、子供、従者、生徒のいずれかと記されています。

 イングランド人は街を包囲し、要塞であるバスタイルを築きました。

 彼らに隠れ場所を与えないため、オルレアン市民は自らの郊外を解体しました。教会全体が取り壊されました。

 1429年2月12日、四旬節のためのニシンの積荷を運ぶイングランドの輸送隊が襲われました。フランス軍は敗北しました。

 それは「ニシンの日」と呼ばれるようになりました。街は失われたかに見えました。

 1429年4月29日、ジャンヌ・ダルクは17歳で、馬に乗り、ブルゴーニュ門からオルレアンに入りました。

 9日後の5月8日、イングランド人は包囲を解きました。

 1430年以来、オルレアンは毎年その解放を祝っています。6世紀近くで中断されたのはわずか48年だけです。
https://x.com/cejourhistoire/status/2109608528185090554?s=61&t=_uvwdkGYTMiIcu49KlE0kw
 『ブルゴーニュ公国の大公たち』はオススメですよ。百年戦争末期のジャンヌ=ダルクとの直接的な絡みが薄いというか素っ気ないのが玉に瑕ですが、そもそも論的に百年戦争やブルゴーニュ公国(家)が理解できるのは、玉に瑕を補って余りあります。

 「父君、ご注意を・・・右を・・・左を・・・」
>>[14]

 この時代のフランスの〇〇公国とかが、まずよくわからないので、それをわかりやすく説明してくれる本はありがたいですね。
>>[14]

 投稿のラスト、お父さんに注意を呼びかけているのは王子フィリップ(大胆王)なのだといま気付きました。
【百年戦争の話題】

 ヘンリー5世がフランス軍を撃破して、フランス王の没後は英仏両国の王となることを決めさせた「アジャンクール(エジンコート)の戦い」についての@UnJourHistireさんのX投稿。ヘンリー4世の息子ハル王子が、ファルスタッフら悪友を率いて傍若無人な振舞いを繰り返すものの、父王没後には立ち直って名君となるシェイクスピアの『ヘンリー5世』でも描かれる戦いですね。

 >1415年10月25日、フランスの騎士道はアジャンクールで、自分たちよりも小規模なイングランド軍によって惨殺されました。

 戦場はぬかるみのドロ沼でした。そしてイングランド王は捕虜たちを殺害させました。

 これは百年戦争です。イングランド王ヘンリー5世はフランス王冠を主張していました。

 1415年8月、彼はノルマンディーに上陸します。包囲戦の後、彼の軍隊は疲弊し、病に倒れていました。

 彼は当時イングランド領だったカレに向かって進軍します。10月末、フランス軍がアジャンクール近く(現在のパス=ド=カレー県)で彼の進路を遮りました。

 フランス軍は数で勝っていました。歴史家たちはその差について今も議論しています。

 イングランド側では、圧倒的多数が弓兵です。約5,000人。

 フランス側では、甲冑をまとった貴族の精鋭たちです。

 一晩中、雨が新しく耕された畑に降り注ぎました。

 朝になり、フランスの騎士たちは泥の中を進みます。年代記作家は、彼らが膝まで泥に沈んだと記しています。

 矢が雨のように降り注ぎます。負傷した馬たちがパニックを起こします。

 重い甲冑の重みで、騎士たちの何人かは泥の中で溺れました。

 イングランド軍は数百人の捕虜を捕らえ、もっと多いかもしれません。その後、ヘンリー5世は新たな攻撃を恐れます。

 彼は捕虜の殺害を命じます。身代金目的で最も裕福な者たちだけが助かります。

 その夜、約6,000人のフランス人が死にました。その中には、3人の公爵、フランスの宮内長官、海軍大将が含まれていました。

 イングランド側では、記録により100人あまりの死者が確認されています。

 5年後、トロワ条約によりヘンリー5世はフランス王国の後継者となりました。
https://x.com/cejourhistoire/status/2114311519693574516?s=61&t=_uvwdkGYTMiIcu49KlE0kw

 シャルル6世の存命中にヘンリー5世が病没した為、英国は百年戦争の勝者の座を失うばかりか、薔薇戦争という内戦に突入してゆくのでした。

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