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戦史研究室コミュの沖縄戦

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沖縄戦(おきなわせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。

第二次世界大戦における日本国内での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。国内唯一の地上戦と言われる事もあるが、硫黄島の戦いや占守島の戦い、南樺太での戦闘があるため、厳密に言えば誤りである。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了したとされる。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる[2]。主要な戦闘は沖縄本島で行われた。日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊や戦艦「大和」などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続いた。

使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では鉄の雨や鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)などと呼ぶ。[4]

沖縄戦での全戦没者は20〜24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。ただし、沖縄県出身者の死者15万人以上という一部研究者による推計値もある。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。
<以上、ウィキペディアより転記>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6

コメント(13)

住民保護:ニューヨーク・タイムズ記事より?
※上原正稔訳編『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』33〜34頁より一部引用


【ニューヨーク・タイムズ1945年4月2日付記事より一部引用】
<略>
我々の上陸作戦は、今後日本で体験することになる新しい問題にぶつかった。というのは、琉球にはたくさんの人々が住んでいる。沖縄だけでも数十万の住民がいる。彼らは皆「鬼畜米英に殺される」という日本の宣伝工作によってアメリカ人を恐れ、おののいている。慶良間列島の渡嘉敷島において、我々は希望を失った哀れな二百人の住民が集団自決を図ったことを知っている。この全く無意味な惨劇は、我々が早めに行動して再発を防がない限り続けられるであろう。日本にとって今、沖縄で鳴り続けている大砲の音は、日本の終焉を告げるものである。
<以下、省略>


<注:写真は上記記事とは無関係>
住民保護:ニューヨーク・タイムズ記事より?
※上原正稔訳編『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』41頁より一部引用


【ニューヨーク・タイムズ1945年4月3日付記事より一部引用】
<略>
沖縄戦が始まって三日目も過ぎようとするところになって、アメリカ人が初めて直面する問題が持ち上がった。その問題とは、軍事的なものではなく、洞窟や山地から抜け出て投降する数千人の住民をどう扱うかという事である。占領地域を巡ってみて改めてこの足で確かめた。日本軍は占領地域を撤退する時、丈夫な男性は全て連行し、残った者には山の洞窟に行くように指示した。数千人の住民は何の疑問も抱かずに指示に従った。

未確認情報では、十五万人が山腹や丘陵地帯にいるということである。しかし、その多くは洞窟に隠れているわけではない。住民収容所に来た一人の男は、丈夫そうに見えたけれど、近づいてみると左手が不自由だった。彼は他の沖縄人と同様にアメリカ軍に協力した。女性は小さいけれどもたくましい。古井戸から水を運び、子供の食事を作り、母親を失くした子供達の面倒を見ている。
<以下、省略>


<注:写真は上記記事とは無関係>
「沖縄戦関係資料閲覧室」(内閣府沖縄振興局)
沖縄戦に関して国が保有している公文書等の資料・一般図書を公開

http://www.okinawa-sen.go.jp/
住民保護:ニューヨーク・タイムズ記事より?
※上原正稔訳編『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』45〜46頁より一部引用


【ニューヨーク・タイムズ1945年4月4日付記事より一部引用】

続々投降する住民

4月4日、海兵隊は東海岸へ辿り着いた。これは島が分断されてから2度目のことである。勝連半島は孤立した。第7海兵師団は、アッツ・レイテの古参兵であり、今日、沖縄の東海岸にある桃原を攻めて前進。桃原を抜けると素早く泡瀬に出て、久場の部落を占領した。これで4マイル前進となる。歩兵隊は、西原近くに建設中の大きな飛行場を目指している。空中偵察によると、この飛行場は沖縄でも最大級のものである。昨日、第5艦隊は先島諸島に向かった。数日前、英国艦隊は先島を攻撃した。これまでのアメリカ軍の損害は、太平洋戦争の中でも記録的な低さである。

那覇からわずか6マイルの地点に達した。日本軍は未だに抵抗を見せていない。しかしまもなく那覇の北側高地に6万の兵士を集結させて戦闘につくだろう。アメリカ軍は、その高地を全力を挙げて1日も早く獲得するよう命令を受けている。ホッジ少将は「隠れている日本兵と戦って殺す事はできっこない」と言う。北部の前線では、海兵隊は東海岸に抜け出て3マイル半進んだ。引き続き1千4百隻の艦隊の艦砲射撃と空母艦載機の地上掃射で地上軍を支援し、琉球列島の島々に爆弾の雨を降らせている。

私は千人以上の沖縄人たちが収容されている収容所を訪れた。彼らは小さな集団をいくつかつくっている。しかし普通、人が集まれば聞こえてくるざわめきは全くない。そのほとんどは、中年から老年にかけての住民であり、みんな着物を着ていた。着物の色は殆どが紺色である。女性の方が男性よりも遥かに多い。女性の内数人は子供をあやしていた。

ジョン・ダウニー少佐は次のような話を披露した。「昨夜一人の娘が子供を生んだ。全部一人でやりとげた。へその緒をジャックナイフで切ると、彼女は立ち上がり去っていった」。

数百人の沖縄の住民は、アメリカ軍の艦砲射撃を避けるために、山の洞窟に逃げていたが、今、我々の前線に続々投降し、アメリカ軍の食糧、衣料供給を受けている。今日の午後には一師団だけで1,200人の沖縄住民を収容した。これまでに判ったことで特筆すべきことは、アメリカ人に対する住民の態度が驚くほど友好であることだ。スティーブンソン大尉は次のように語っている。「我々はもっと深刻な事態を予想していたが、ここの住民はとても協力的である。通訳は日本語で行なわれた。日本語というのは、教育を受けた沖縄の人が使っている。通訳官は『住民はアメリカ人と会えた事を喜んでいる。日本兵は彼らを見捨てて逃げてしまったからだ』と言った」。

軍政府は今、インドの奥地にいる種族と同じようにアメリカ人が今まで見たことの無い人種、沖縄人を扱っている。沖縄人には7世紀までさかのぼる長い歴史がある。日本人と同じような人種に属し、政治的には17世紀初めから日本に従属してはいるが、沖縄人は彼らを劣等民族として扱っていた日本人とはほとんど異質である。

<注:写真は上記記事とは無関係>
沖縄慰霊の日・大阪市大正区で集い
※朝日新聞2010年6月24日付記事より引用


「大阪で考える沖縄戦」と題した集いが23日、「慰霊の日」にあわせて大阪市大正区の大阪沖縄会館で開かれた。約100人が参加し、沖縄戦の生存者の聞き取りを20年近く続けてきた沖縄タイムス記者の謝花(じゃ・はな)直美さん(47)が講演した。

 謝花さんは、沖縄戦での住民らの「集団自決」について日本軍の強制を否定する主張が本土側で相次いだ時、娘を手投げ弾で失った慶良間諸島の女性が、取材に対して初めて体験を明かした経験を紹介。女性が封印を解いたのは「自分が語らなければ、沖縄の歴史が変えられてしまう」という焦燥感からだったとし、「沖縄には、生き残った自責の念から記憶を語れない人が今も多くいる。その沈黙の重さを本土の人々にも共有してほしい」と語った。

 大学4年の鈴木耕生さん(24)=大阪府箕面市=は「いったん住民が戦争に巻き込まれれば、その傷は戦闘が終わっても続くことを実感した」と話した。(武田肇)

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沖縄集団自決訴訟問題に対して、私は一貫して梅沢戦隊長側を擁護する立場です。私の論拠は、軍事常識上並びに法的観点からです。然しながら、犠牲となった沖縄県民の感情は、また別であるとも感じております。
住民保護の推移:米軍資料
※上原正稔訳編『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』407頁より一部引用

●昭和20年4月7日:12,661人
●4月14日:60,384人
●4月21日:97,027人
●4月28日:113,404人
●5月5日:130,130人
●5月12日:141,343人
●5月19日:141,113人(若干減少)
●5月26日:147,966人
●6月2日:149,856人
●6月9日:159,506人
●6月16日:182,046人
●6月23日:222,309人
●6月30日:284,625人
●7月6日:306,892人
●7月16日:319,341人
●7月23日:317,069人(若干減少)
●7月30日:320,762人
軍政府と沖縄住民?:米軍G2報告
※上原正稔訳編『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』386頁より一部引用


<1945年4月8日報告?>

【第24軍団】
4月8日現在、軍団管理下の住民の総数は、約18,675人である。軍政府G6第2病院に収容されている住民は124人である。島の食糧供給は、これまでのところ充分である。アメリカ軍の船舶によって運ばれてきた食糧は、今のところ不要となっている。4月8日現在で、15日分の食糧の貯えがある。

【第7師団】
現在までに、師団の軍政府は総数7千人の住民を保護。そのうち3千人を第24軍団に引き渡す。住民の健康状態は良好。現在のところ、30人の病人が入院中。この1週間の間に、師団管理下の住民の内17人が死亡。現在、住民に支給できる日本軍の衣服はない。だが、5千人の人々が、2週間存続できるだけの日本軍貯蔵の米と豆がある。山羊、牛、鶏の他、野菜については、野菜が1ヶ月のうちに収穫できるとすれば、3か月分の量がある。現在のところ、労働に適する住民が2百人いる。彼らは、食糧、木材、水の配給、キャンプ内建物の修理、農作業に使われている。現在までに、5つの新たな収容所が造られ、そのうち、3つの収容所は、第24軍団の管理下に置かれている。住民保護は全て、仕事が割り当てられない時は、住民の安全と軍事活動を阻害させないために、すぐ近くの集合場所に集められている。事情の許す限り、前線地区には布告が掲示されている。現在の軍政府本部は、中城村久場に置かれている。

<注:写真は上記内容とは無関係>
今、手がけているドキュメンタリー映画の関係で、義烈空挺隊のことを調べています。同隊に参加して戦死した関三郎軍曹(戦死後、少尉)を映画で扱っているためです。
関三郎は昭和16年、現役兵として千葉の高射砲部隊に入隊。幹部候補性に志願し、昭和19年か昭和20年初頭に軍曹に昇進しました。沖縄出撃直前の昭和20年3月、東京大空襲直後に東京浅草に勤めていた姪っ子を訪れています。

義烈空挺隊は有名ですが、いざ資料を探すとめぼしいものがありませんね。
米軍記録と照らし合わせると、関軍曹は強行着陸の前に撃ち落とされているようです。関軍曹の実弟が健在ですが取材を断られました。戦争の記憶は人それぞれ、遺族にとっても話したくない事情がいろいろあるのでしょう。
沖縄戦に関しては、色々と日本軍の「予定が狂った」部分が大きかったと思うのですよ。…まあ、他の戦場でもそうですが。
捷二号作戦の舞台として設定し、準備を進めていたのに台湾沖航空戦の「戦果」に踊ってしまい、捷一号のために戦力を台湾からフィリピンへ抽出。その穴埋めで沖縄の戦力の一部を台湾に移動。
これらの流れが、沖縄戦を考察する上で結構重要になってくると思います。
戦力を抽出される様を見ていた沖縄県民が、「沖縄が見捨てられた」と思わせる土台になったとも取れるし、戦術面でも大きな変更を強いられ準備不足になってしまった。
これらのスタートと言える、1944年10月10日のいわゆる十・十空襲を、沖縄戦の始まりとして、それらと前後して行われた他の戦いにも触れて考察するのが、より深みが出てくると思うのですがいかがでしょうか。
>9
>これらの流れが、沖縄戦を考察する上で結構重要になってくると思います。

具体的には、第84師団派遣中止問題が重要な研究課題として残っていると思います。沖縄への増派が見送られた背景には、来るべき本土決戦に向けた兵力温存主義が背景にありますが、その直接的要因として、竹田宮参謀等皇族の意向が働いた可能性は排除できません。
日本の戦争指導の方向性に関わる話なんですが、捷号作戦の意味合いが、「米艦隊に大打撃を与えて、講和を有利に導く」というものなのか否かってのが気になります。
自分の理解だと、サイパン失陥までの「絶対国防圏」って考え方は「このライン守っておけば負けないで済む」という感覚。
これの破綻後の捷号作戦は、「ちょっとでも有利な講和をするための決戦」。
そして、捷号作戦破綻後は、どうやって戦争を終わらせるかというビジョンが無くなってるのでは、と感じます。その方向性を決める上で時間が欲しい、その時間稼ぎの場が必要。

もし捷号作戦が講和のための決戦なら、沖縄から部隊を抽出したこと自体は悪くないと思うのです。なんせ米機動部隊は台湾沖で壊滅してるわけで、じゃああとはフィリピンに来寇する敵を討てば、戦争は終わる。最後の決戦をフィリピンでやってしまえば、沖縄は十・十空襲以外の戦火を免れるわけですよね。決戦のため戦力を集中するってことなら、何も問題ないわけで。
しかし捷一号は失敗。沖縄や台湾で捷二号を発動しようにも、艦隊も航空隊も壊滅した以上、決戦戦力が無くなってしまった。

捷二号の舞台として沖縄が戦場になるのなら、決戦のために戦力を集中しようという話にもなるでしょう。
ところが、決戦をするにも艦隊が無い状態では、もう本土に引き込んでの持久戦しか無い。それも後背地の無い無意味な持久戦ですが、戦力はちょっとでも欲しいのは間違いないでしょう。
となると、本土決戦の時間稼ぎとしての沖縄に、第84師団を送る意義が薄れてしまうのではないかと。あと米潜水艦がウロウロしてるから、移動は最小限にしたい、というのもわかるし。
沖縄が決戦の地なら、第84師団以外にも戦力を増強したかもしらないし、その意義も大きかったと考えます。沖縄から台湾に戦力を抽出した段階と、本土から沖縄に増派するか否かって段階では、沖縄戦というものの性質、意義が違ってしまったのではないか、と考える次第です。

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