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【一緒に読書しましょうよ。】コミュの始めの1冊 その4

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『パイロット フィッシュ』  大崎 善生





「うわーっ」という叫び声が僕の前から聞えた。僕も早苗も少しも驚かない。それは、いつもの五十嵐の目の覚め方で、借金取りかどこかの女に刺されたような夢を見て彼の長い昼寝は終わるのだ。

時計は午後四時半を指していた。

「五十嵐さん」と早苗は早速、五十嵐を呼んだ。いかにもサラリーマン然とした濃紺のスーツを着込んだ五十嵐は面倒くさそうに早苗のデスクに近寄ってきた。

「これどうですか?」

「早苗ちゃんに頼まれたら仕方ないやな」と五十嵐はさも恩着せがましく言うと、早苗の差し伸べたルーペを手に取りポジフィルムを覗きこんだ。

「あ、ーっ、だめだめ。これびらびらちゃんが丸見えじゃん。しかも明らかに肌の色と違っちゃってる。要するに性器とみなされますな。これは下手すりゃ、書類送検」

「じゃあ、これは?」と早苗は次の候補のポジフィルムを見せた。

「全然、、反応なし」

「そうかあ」と早苗は溜息をつく。

「どれどれ、僕が見てやろう」と言って

五十嵐はルーペでフィルムを覗き始めた。そして二分もたたないうちに「これこれ、これで決まり」と言って一枚のフィルムにダーマトで印をつけた。それは、もう何時間もフィルムをにらみ続けていた早苗の、

まったくノーマークの一枚だった。

「これかあ」と早苗は感慨深げに言うと、椅子にちょこんという感じで座って煙草に火を点けた。

編集者のくせに本はろくに読まない、漢字を知らないので校正はしない、昼過ぎに編集部にきて大いびきをかいて寝てばかりでほとんど仕事らしい仕事もしない五十嵐だったがひとつだけ誰にも真似のできない特技があった。

勃起羅針盤。一言で言ってしまえばそういうことでなる。

つまり、五十嵐が煽情される写真が即ち読者が求めるエロ写真なのである。それは、過去何百枚も何千枚も選んできた彼の読者からの圧倒的な支持によって証明されていた。

だから、沢井さんも五十嵐には一目置いていて、ほとんどうるさいことは言わない。ただ、五十嵐が勃起する写真を選んでくれれば彼に払う給料は十分に元がとれてしまうのである。

「じゃあ、俺コーヒー飲んでくるから」と言って校了間際で切迫している編集部から、五十嵐は颯爽と出ていってしまった。

あの次の日、つまり初めて沢井さんと会い、「勃起させて売ってみれば」と由紀子が耳元で囁いた日の次の日から僕はここに座り、"これが究極のオナニーベスト10だ"とか"美人団地妻がイクその瞬間の瞬間"といった記事の校正をすることになった。

「月刊エレクト」の編集者は僕を入れて三人だった。

沢井編集長と五十嵐副編集長と僕。その三人で雑誌を作るためのありとあらゆる作業をやった。企画、取材、校正、原稿書きはもちろんのこと、割付、写真あたり、レイアウトに写真の貼りこみから、カメラマンの都合がつかないときは写真撮影にいたるまでどんなことでも三人でこなしてきた。

沢井さんが言ったように、そこには本作りのすべてがあった。

大学では得られない確かな手応えがあった。それは実践的で即物的なものなのかもしれないが、しかしずっしりと掌に食い込むような心地よい重さがあった。

歓楽街を駆けずり回り、モデルの太股に霧吹きで水を吹きかけ、印刷所に無理難題を吹っかけ、ときには泣きを入れ、風俗嬢たちの相談相手になり、忙しく振り回されながら、僕はいつの間にか大学を辞め、エロ本作りに没頭していった。

より煽情的に、より世の中の役に立つために。

それから十九年の月日が流れていた。沢井さんは何度も病に倒れ、今は半ば死を待つような状態で入院している。

五十嵐は長年連れ添った女房と子供に逃げられて、そのショックで最近二冊本を読んだ。

僕は今、あの日沢井さんがガラスのテーブルの上にポンと放り投げた「月刊エレクト」の編集長をやっている。

あの日、沢井さんが行ったように今の僕はある意味では編集者の中の編集者になったのかもしれない。

文人出版を出て僕が西荻窪の部屋に戻ってきたとき、時計は午前二時を大きく回っていた。

クーとモモからこれ以上ないくらいの熱烈な歓迎を受け、部屋に入り熱帯魚の水槽の電気を点けた。

冷蔵庫からビールを取りだしCDプレーヤーのスイッチを押し、小さな音で「シンクロニシティー」のイントロが流れ始めた瞬間に電話が鳴った。

今の電話にだけは出ないわけにはいかない。今日は水曜日で、出張校正は明日あさってに迫っている。

切羽詰った早苗やあるいは印刷所からどんな緊急の連絡が入るかわからないからだ。

電話を取ると「昨日はごめんなさい。綾子が突然起き出しちゃって」という由紀子の声が聞こえた。

「ああ」と僕は言った。

「別に謝ることなんかないよ何もないよ」

それは僕の本心だった。十九年ぶりに電話をかけてきた昔の恋人が、どんな理由であれ突然に電話を切ったとしても、それを怒る精神力を僕は持ち合わせていない。

すべてを忘れ去って、電話が鳴る前の自分に戻る努力をするだけだ。

「山崎君、変わってないなあ。不機嫌なときには必ず最初は“別に”から始まるのよね」と由紀子は嬉しそうに言った。

僕は何も言わないでマイルドセブンに火を点け、水槽に目を遣った。肺に流れてくる煙も水槽の光も、現実から何かを切り取ったような一瞬の安心感を僕に与えてくれた。

煙を吐き出せばそれは消えていくし、蛍光灯のスイッチを切れば水の輝きや水草の緑やテトラたちの原色の群泳は闇の中に消え去ってしまう。

しかし、今僕は煙を胸に一杯に吸い込み、そしてアクアリウムは光の中にある。

「週末の土曜か日曜に久しぶりに会わない?」と由紀子は言った。

そして「二人で一枚だけプリクラを撮りたいの」と続けた。耳元では昨日と同じように、グラスの中を氷が駆け回る音が響いた。

どぎまぎして返事をしそこねていると「だって今週末会わないと、今度私が電話するのはまた十九年後になるかもしれないわよ」と言って由紀子は楽しそうに笑った。

膝の上にモモが飛び乗ってきてキューンと鳴いた。床に這いつくばったクーが恨めし気に上目使いで僕とモモを見上げていた。

部屋は暗く、水槽の灯りがすべてだった。闇の中に浮かび上がった淡いブルーの空間。

澄み切った水の中を通ったたよりない清純な光だけが部屋全体をゆらゆらと照らし出していた。

「日曜も仕事なの?」と由紀子は訊いた。

「いや、今週末は校了明けだから。休みだよ」

「だったら、いいじゃない」

「オーケー」と僕は言った。

「山崎君、彼女いるでしょう」

「ああ」

「それも若い子でしょう」

「うん」

「だって、若い女の子じゃなきゃ、クーとかモモなんて名前つけないもの」

上目遣いでじっと見ているクーが可哀想になって、僕は片手で抱き上げて膝の上に載せてやった。

クーは喜んで僕の口の回りを舐めまわした。二匹が載ってもまだもう一匹は十分に載るくらいのスペースは残っている。

クーもモモもそのくらいに小さかった。

「彼女、幾つ?」

「二十二」

「あなたと私が会って傷つかない?」

「だって、日曜に会ってセックスするわけじゃないだろう」

「当たり前よ」

「するの?」

「しないわよ」

「僕と由紀子が会って、綾子ちゃんは傷つく?」

「別に」

「じゃあ、大丈夫。まあいちいち報告はしないと思うけれど、でも僕と由紀子のことをちゃんと話しても理解してくれると思うよ」

「いい子なのね」

「ああ、いい子だよ」

「名前は?差し支えなかったら教えて」

「七つの海で七海(ななみ)」

「素敵な名前」

クーとモモは折り重なるようにして僕の膝の上で眠りこけていた。

「山崎君、それで彼女の幾つの海を泳いだの?」

「まだふたつくらいかな。はは」

「大切にしてあげるのよ」

「うん、僕は結構大切にしてるつもりなんだけど、ところが彼女はなかなかそう思ってくれないときがあってね」

「山崎君らしいわね」

「力の限界かな」

「ううん、そんなんじゃない。きっといつかは山崎君のことを理解してくれる日がくるわ。私にはわかるの」

「そうだといいんだけどね」

「彼女、あなたの仕事のこと、つまりエロ雑誌の編集者だって知っているの?」

「ああ、知っているよ」

「何て言ったの?」

「だから、編集者というものは何であれまず読者を煽情して、虜にして釘付けにしてそして本を買ってもらうこと。エロ雑誌には、そんな本作りの精神が集約している。

だからある意味ではエロ雑誌の編集者こそが編集者の中の編集者なんだ。それに、何と言ってもわけのわからない本を作っているよりは楽しいし役にも立つ」

「あはは、それで彼女納得した?」

「ああ、大納得さ」

それから由紀子と僕は日曜の待ち合わせや場所と大体のスケジュールを決めた。

食事をするのは七海さんに悪いのでやめましょうと由紀子が言った。

ビアホールで少しだけビールを飲んで昔話をして、それからゲームセンターでプリクラを撮って別れましょう。

もちろん、僕に異存はなかった。

「それとね」と由紀子が言った。その後の言葉を由紀子にしてはめずらしく言い淀んだ。

二、三回、氷がグラスの中を駆け回り、小さな沈黙が訪れ、それから由紀子は意を決したように言った。

「あなたの会社に五十嵐さんっているでしょう」と。

僕は思わず飲んでいた黒ビールを噴出しそうになった。

            つづく…


コメント(2)

そうだ 今度一緒に ジンを飲みましょうと かずまは 言った
かずまさん^^
(⌒▽⌒)アハハ!
なんか怪しいです(笑)

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