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【一緒に読書しましょうよ。】コミュの始めの1冊 その3

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『パイロット フィッシュ』  大崎 善生

とにかく自分が差し出した綿菓子が思わぬ方向へ進んだことを、後悔しているのが半分、楽しんでいるのが半分といった様子だった。

「『月刊エレクト』」って直訳すると?」と由紀子は訊いた。

「そうかあ。『月刊○起』」かあ。そりゃそうよねえ」と言うと由紀子はふうっと怒った猫のような溜息をついた。

しばらく僕は言葉を失って、店内に流れるアメリカのアコーステック・フォーク・バンドの曲を聴いていた。「僕にとって多くは、君にとっての多くとは限らない」

確かそんな内容の歌詞だった。

「まあ、しかし」とその曲が終わるのを待っていたように、由紀子は僕の目を真っ直ぐに見ると気を取り直したように言った。

「いいんじゃない。何でも」

これが由紀子の結論だった。そしてそれは僕の結論と同じだった。

「だって山崎君、編集者になりたいんでしょう」と由紀子は訊いた。

「うん」と僕は肯き、そしてフワフワとしていたはずの自分の進路が今日一日で随分とはっきりしたものになっていることに少し驚いた。

「だったらいいじゃない。中身なんか何でも一緒よ。要するに大切なことは本を作る技術が身につくかどうかじゃない?

真面目くさったわけのわからない本よりよっぽど楽しいわよ。きっと役にも立つんだろうし」と言うと由紀子は何だかとても楽しそうに笑った。

「本当にいいのかなあ、『月刊○起』でも」

「あら、私は全然平気よ。それに沢井さんって何か興味湧かない?だいたいあなたが人見知りしない人なんてめずらしいわ」

それもそうだなと僕は思った。

「僕にとってのすべてが、君にとってのすべてとは限らないし」と僕は口の中で呟いた。

「まあ、頑張りなさいよ」

僕の言葉が聞こえたのかどうかはわからないが、由紀子はそう言ってきゅっと唇を結んだ。

由紀子が明るいので、何だか僕も文人出版での自分の未来が拓けているような気持ちになっていた。

それに、いやならいつでもやめてしまえばいいのである。

由紀子は僕に顔を近づけて、小さな声でこう言った。

「○起させて、売ってみれば?」

暖かい春の日差しが机の片隅を照らしている。

僕はぼんやりとした思考回路で昨日の夜中に突然かかってきた十九年ぶりの由紀子からの電話のことを考えていた。

ここはお墓の海辺みたいなもので、窓際の沢井さんのデスクには午後の光が降り注いでいる。

沢井さんの大きなデスクと垂直に僕の机がふたつとライターや校正マンが使う机ひとつがコの字に並んでいる。

その七つの机が「月刊エレクト」編集部のほとんどすべてであった。

僕が使っているふたつの机は、ゲラや雑誌や古新聞や整理しきれない書類やらで埋め尽くされ混乱を極めていた。

向かいの五十嵐の机はもっとひどかった。

エロ雑誌や競馬雑誌や少年漫画でトーチカを作り上げ、その中に辛うじて作業用のわずかなスペースを確保しているという状態だった。

真向かいに座る僕と、お互いに座っているときでも顔を見ることはできなかった。

それはそれでこちらも都合がいいのだが、ときどきベルリンの壁が崩壊するように積み切れなくなった雑誌が雪崩れのようにこちらに崩れてくるのには閉口した。

僕も五十嵐も沢井さんもヘビースモーカーなので、わずか二十畳ほどの編集部の壁は煙草の脂で真黄色になっていた。

隣には事務と営業と経理の部屋があるのだが、事務員たちが編集部に顔を出すことはほとんどといっていいほどない。

僕は机に足を投げ出して、煙草を吸いながら左側の机の片隅にできた日溜りをぼんやりと眺めていた。

光の線のなかを煙草の煙が横切るときの紫が美しかった。

グーグーと熟睡している五十嵐のいびきが響き渡っていた。

最初の頃はイライラしたが、それにももうすっかり慣れた。

毎日二時頃出社する五十嵐は、三十分後には眠り始める。

そしてそれはだいたい二時間は続くのだ。

「ああ、もう時間がやばいよお」と僕の右側の席で時々悲鳴に似た声が上がる。

「月刊エレクト」のデザインを一手に引き受けている野口早苗は、印刷所から指定されたタイムリミットとぎりぎりの攻防戦を繰り広げている。

毎月のことだが、校了間際になると三、四日は一睡もしないような状態が続く。

「山崎さん」と早苗が言った。

「何だ?」と僕は我に返って言った。

「この写真みてください。やばくないですか」

それはあまり美人とはいえないモデルが大きく足を開いている写真だった。

「見えちゃってますよねえ。性器が」と早苗は言った。

「どれどれ」

僕はルーペを手にライトボックスの中のポジフィルムを見た。

紐のような下着が性器に挟まるようにして、それを隠しているのだが、確かに早苗の言うように片方の大陰唇がはみ出している。

「まずいなあ」と僕は言った。

「でもこの写真、色合いもピントも、それにモデルの表情もいいんですよね」

「うん。確かに」

「勝負しますか?」

「いや、ちょっとなあ。微妙だなあ」

「でも削ると私がカメラマンに怒られちゃうし」

「他は?」

「高井さん、最近齢のせいかピントが全然駄目なんですよ。口では偉そうなことばかり言っているけれど」

ポジフィルムに一通り目を通したけれど、確かに早苗の言うように他の写真はどれも出来が今ひとつだった。

僕は窓際の沢井さんのデスクを見た。そこはこの雑然とした編集部の中で唯一、几帳面に整理整頓されている場所だった。

沢井さんはいない。しかし、僕が判断を下してすべての責任を負うのは沢井さんなのだ。

「まずいなあ」と僕は言った。

「そうですね。沢井さんに迷惑かけられないものね」と早苗は言った。

ガー、ゴー、ピーッと五十嵐の高いびきは絶好調である。

「じゃあしょうがない、何か探すかあ」と諦めたように言うと、早苗は背を丸めて五百枚はあるポジフィルムの写真をルーペで一枚一枚念入りに覗き始めた。

自分の仕事に集中しだした早苗を横目に、僕は新しい煙草のに火を点け窓の方へと体を向けた。

昨日の夜、由紀子は僕にいったい何を話したかったのだろうか。

「綾ちゃんが起き出しちゃった。ごめんね、電話切るわ」と言って、あまりにも唐突に電話は切れたのだった。


          つづく…

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