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松山千春の会+心を癒す歌と音楽コミュのWHO is 松山千春?

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略歴[編集]

北海道足寄郡足寄町出身。北海道足寄高等学校卒業後、1975年に「全国フォーク音楽祭」の北海道大会に出場するも落選。 しかしSTVラジオの竹田健二[1]ディレクターに見出され、1976年に同局の「サンデージャンボスペシャル」内の15分コーナー『千春のひとりうた』でメディアデビュー。 続いて翌1977年1月25日、「旅立ち」でレコードデビューを果たすが、同年8月27日、二人三脚で歩んできた竹田が急性心不全のため36歳で急逝し、一時失意に陥る。 しかしこれが契機となり、同年10月には個人事務所として「オフィス・パンタ」(現在のオフィス・ゲンキ)が設立され(正式な法人設立は1978年1月17日)、 千春をバックアップすることになる[1]。





足寄町にある「千春の家」に掲げられた似顔絵
1977年10月には『オールナイトニッポン』水曜2部のパーソナリティに起用され全国区の人気に。(これに伴い『サンデージャンボスペシャル』からは降板した)。 1978年4月には月曜1部に昇格し全国区の知名度を更に得るようになる。同年に発売したシングル『季節の中で』が大ヒットしたことで一気にスターダムを駆け上り、 以後も多数のヒット曲を出し、ニューミュージック界で確固たる地位を築くに至った。

主なヒット曲に「季節の中で」「大空と大地の中で」「恋」「人生の空から」「長い夜」「君を忘れない」などがある。 1982年7月24日には札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催。

1984年には『オレたちひょうきん族』内の『タケチャンマン』に使用された「ビックリ箱のうた」の作詞作曲を手がけた。

1985年12月に結婚し、一児(長女)をもうける。 デビュー以来精力的にコンサート活動を続け、2007年には、コンサート公演回数が2000回に達した。 コンサート動員数は相変わらず好調で、映画、ラジオ、ドラマ出演、雑誌「月刊松山SAGA」「月刊松山捨石」の発行、論評など、歌手以外の方面へ活動範囲を広げている。

長らく自由民主党北海道連青年部名誉会長を務め、鈴木宗男や明石康らの支援を行なってきたが、鈴木の離党に伴い自らも離党し名誉会長職を辞任。 鈴木と共に地域政党新党大地を結党した。新党大地の名付け親は松山であり、『大空と大地の中で』(着うたフル・ゴールド認定、日本レコード協会)は新党大地のテーマ曲である。

生い立ち・人物など[編集]

北海道夕張郡栗山町出身の父・松山明と地元出身の母・美代子の次男(第三子)として足寄に生まれる。姉・弟の三人兄弟。長兄は乳児期に肺炎で早世している。生後間もなく股関節脱臼と診断され、札幌の北海道大学附属病院に半年間入院。この時に父・明は入院費捻出のため多額の借金を背負うことになり、その後の返済が家計を圧迫。このことが幼少期の人格形成に大きく影響を及ぼしている。その後、足寄西小学校を経て足寄中学校に入学。

フォークソングとの出会いは小学校5年生。幼なじみの紹介で知った岡林信康が、足寄で弾き語りのコンサートを開き、聴きに行った松山に強烈なメッセージを残したことに始まる[2]。

父・明は、1954年に足寄町でたった一人で旬刊紙『とかち新聞』を創刊し主筆を務めた人物(なお同紙は1984年に休刊した)。しかし経営(=家計)は苦しく、特に1965年には当時の足寄町長の不正を紙面で取り上げたことで裁判沙汰となり、町長からの圧力で購読者数が大きく減少し、松山も納豆売りをして生活費を稼がねばならないところまで追い込まれた(なおこの裁判は1969年にとかち新聞側の勝訴で終わっている)[3]。松山は足寄高校では卒業時に首席となるなど成績は優秀で、担任からは大学進学を勧められていたが、このような苦しい家計を踏まえ「早く働いて父を助けたい」との考えから大学進学を断念している[4]。

高校時代はバスケットボール部に所属しており、当時は十勝地区で「シュートの鬼」の異名を取ったという。練習ではフリースローを75回連続で成功させたこともある。しかし当時の十勝地区では帯広柏葉高校が圧倒的な力を持つ強豪として立ちはだかっていたため、足寄高校はいつも地区2位で全道大会進出が叶わなかった[5]。

高校卒業後は、北見市に出て、叔父が経営する小料理屋の手伝いとクラブ(ストリップショーも兼業)のバーテン兼照明係を行いながら、叔父から下宿提供等の援助を受け普通自動車免許を取得。さらに合間をみて作詞・作曲を行う。その後一時足寄に戻り、父親の仕事を手伝いながら「フォーク音楽祭」に応募。生涯の“師”と仰ぐ竹田健二と出会うことになる。

なお、1995年11月に父・明が他界、1998年4月には姉が癌で他界している。

高音でソウルフルな歌唱法と、コード進行の単純な楽曲は、素人でも真似が容易なため、コロッケやみのや雅彦を始めとして、多くの芸能人がモノマネのレパートリーにしている。芸能人以外にも読売ジャイアンツの阿部慎之助など真似る者も多い。元日本ハムファイターズの広瀬哲朗はスキンヘッドであることなど容姿が似ていることを現役時代からネタにしていた。

好きなテレビ番組はNHK総合テレビ『爆笑オンエアバトル』で、「NHKの深夜にやっている球を転がすお笑い番組が好き」とある番組でコメントしている。

テレビ出演を「出るもんじゃなくって、見るものだから」という理由で拒否していたが、「あなたにはたくさん届いた番組出演のリクエストのハガキに何か答えなければならないはず」というプロデューサー・弟子丸千一郎の言葉に感銘を受け、(TBS系『ザ・ベストテン』の出演を承諾。デビュー以来、テレビに初めて出演。その後、同番組には3回の出演を果たした。かつては滅多にテレビに出ない事を売りにしている側面もあったが、30歳になった1985年頃を境に、一転してバラエティや音楽番組、ニュース、ドラマ等にも頻繁に出演する様になった。また、関西テレビ・フジテレビ系列の『SMAP×SMAP』に出演した際、「松山が生きている限りは自分以上に歌が上手い歌手は出てこない」と、自分の歌唱力に相当な自信をみせるコメントをしたこともある。

メディア出演を解禁した後もNHK『NHK紅白歌合戦』には「トリなら出る」として出場を辞退し続けている。

毒舌キャラで知られる。自身より年上の小田和正、井上陽水、さだまさし、中島みゆき、和田アキ子らを呼び捨てにしタメ口をきいたりすることも多いが、時には相手を評価することもある。小室哲哉に対しても『TK MUSIC CLAMP』(フジテレビ)に出演した際に、「(小室の曲が)好きか嫌いかと言われれば嫌いだが、音楽性としては認める」として一定の評価をしている[6]。サザンオールスターズの桑田佳祐についても、楽曲については「療養生活に合わない」と言っているが(この発言は松山が2008年に療養生活から復帰した際に発したものである)、2010年7月に食道癌の治療のため休養することを発表した際には、桑田を気遣う発言をしている。逆に嫌いなのは武田鉄矢で、彼が敬愛する坂本龍馬も嫌いであると言う。[7]

地元愛が強く、「北海道を愛するフォーク・シンガーである」というポリシーを持つ。牛肉偽装問題が発覚、大きな騒動を巻き起こした際には北海道「北の食大使・牛肉大使」に任命され、牛肉のPRで全国を飛び回っていた。

スキージャンプの大ファンであり、かつて全日本ジャンプチームに大量の牛肉を差し入れているほか、ジャンプチームの応援歌として「空−翼をひろげて」を製作している。

ボーカリストの素質を見抜くのが得意である。DREAMS COME TRUEの吉田美和は同じ十勝地方出身ということもあって「歌唱力がある」と何かとひいきにしているが、一方で「『LOVE LOVE LOVE』までは自信だが『7月7日、晴れ』は過信」「自分で自分に酔ってしまっている。ソロアルバムも聴いたが過信以外の何物でもない」として苦言を呈したこともある[8]。他にもB'zの稲葉浩志を「自分とタイプは違うが素晴らしいボーカリスト」と手放しで認めている。

歌手として売れるようになってからも暫く足寄の実家で生活していたが、現在は普段の生活拠点を札幌に移しており、コンサートで全国を回る際はいつも新千歳空港から出発している。このため、北海道民は空港のロビーで度々目撃している。特に変装することもなく、取り巻きが恐い人ということもなく(大抵はマネージャーと思われる人物が1名いる)、話しかけると、マスメディアで映っている様子と何ら変わらない気さくな人柄(例の独特のなれなれしさと北海道弁丸出し)で応えてくれる。札幌市内でも、よく買い物をする姿は見られているが、店員に対してもいつもの調子で話しかけ、誰かれとなく人を引きつける魅力があるため、北海道民には概ね評判がよい。札幌に生活拠点を移した後も、足寄の実家は大事であると考えており、実家のガレージには本人の似顔絵が飾られている。本人は函館や稚内といった外れと言った場所でも構わないので、北海道に住み続けたいと語っている。

なお、お笑い芸人のタカアンドトシ(吉本興業東京本社所属)のトシの父親が、元マネージャーだということが、タカアンドトシが出演したバラエティ番組で明かされた。また、トシの姉がオフィス・ゲンキで働いていることも、関西テレビ・フジテレビ系列の『さんまのまんま』で明かした。

主な交友関係・関連人物 (50音順)[編集]
明石康…元国連事務次長 自民党推薦、連立政権を組む小沢自由党都連、半年後に連立入りする公明党都本部推薦で1999年東京都知事選挙に出馬の際、応援。鈴木宗男離党前は自民党の積極的な支持者だった。 荒井正吾…奈良県知事 共通の知人を介して約10年前からの知り合い。奈良県庁を表敬訪問した際、「関西広域連合について、橋下徹知事のペースではいいことはない!」と発言した[9]。 猪谷千春…1956年のコルティナダンペッツォオリンピックの銀メダリスト。元IOC副会長 父親が、松山に千春と名づけるきっかけとなった人物。千春が誕生した頃に、猪谷がオリンピックを目指して活躍していたことから、千春と名づけられたらしいと松山が語っている。 上木政章…福岡市・ウエキフーズ代表取締役社長 アサヒ緑健の古賀社長とともにゴルフのメンツであり、福岡へ来訪した際に時折世話をしているためか自身が出演するラジオ番組でハナシのタネにされている。 おすぎ…タレント・映画評論家 デビューし上京時、同じマンションに住んでいたことなどをきっかけに親交が深まる。札幌のSTVラジオで、松山のデビュー当時からレギュラーを持っており、デビュー前後の経緯にも詳しい。また、アルバム「時代をこえて」のジャケットの写真をプロデュース。その時の絵が、足寄の実家の車庫の上に掲げてある。松山の実家でコロッケを揚げて待っていたなど、現在もラジオなどでエピソードを語ることが多く、若い頃の松山に恋心を抱いていたことを告白している。 小野伸二…清水エスパルス 小野が松山のコンサートに行って感銘したためにスキンヘッドにしたのは有名。松山は「俺も、伸二がやっちゃったときにはびっくりしたよ。」と語った。 柏原芳恵…歌手・女優 1983年9月に「タイニー・メモリー」(後にセルフカバー)を書き下ろしで提供した。なお松山が女性歌手へ曲を書き下ろしたのは、1977年8月のピコ「あなたと私のレッセッセ」、1980年2月の伊東ゆかり「もう1度」以来である。1983年11月23日に発売されたアルバム『TINY MEMORY』で、柏原は全10曲松山の唄をカバーしている。 桂竹丸…落語家・ラジオパーソナリティー STVラジオで同じ時期にパーソナリティーとして活動し始めた時に出会う。北海道でのデビュー当時をよく知っており、立場や世界は違えど本音で明け透け語り合える間柄。ちなみに、竹丸の地元局であるMBCラジオで現在放送されている松山の冠番組「松山千春のON THE RADIO」をMBCで放送する手助けを桂がしたらしい(松山が当番組内で発言)。 喜瀬ひろし…フリーアナウンサー 同時代にSTVラジオの人気深夜番組『アタックヤング』などのパーソナリティーで活躍した元札幌テレビ(STV)アナウンサー(2007年定年退職)。1975年当時のSTVで、松山が出場した「全国フォーク音楽祭北海道大会」の司会を担当しており、松山のデビューに至る経緯を目の当たりにしている。ゆえに、この業界で厳しい上下関係を抜きにして、公の場で『千春君!』と呼べる数少ないアナウンサー。 GLAY…ロックバンド 同じ北海道出身ということもあり、深い親交がある。メンバーには「チー様」と呼ばれている。GLAYがゲスト出演した音楽番組にスペシャルゲストとして松山も出演し、メンバーとの交流歴やGLAYの音楽について語ったこともある。また2007年7月1日に行われた「CUE MUSIC JAM-BOREE IN YUBARI」にGLAYが出演した際に、松山のヒット曲「長い夜」をカバーし披露した。 古賀良太…株式会社アサヒ緑健代表取締役社長 松山の楽曲を何曲かCMソングに採用している。ゴルフのメンツで、たびたび自身が出演するラジオ番組でハナシのタネとして登場している。 権藤博…野球評論家・元横浜ベイスターズ監督・元中日ドラゴンズの投手及び三塁手。前・中日ドラゴンズの一軍投手コーチ。 1998年、横浜が日本選手権シリーズを制覇した際の監督で、北海道遠征時に真っ先に松山へ連絡を入れる。 佐伯三貴…女子プロゴルファー プロ転向後も所属先が決まらなかったが、佐伯の父親が松山と20年来の親友の縁で、松山の個人事務所「オフィス・ゲンキ」にマネジメント所属している。正式所属は日立アプライアンス。 佐々木主浩…野球評論家・元プロ野球選手 松山がかつて『加藤晴彦のオールナイトニッポンコム』にゲスト出演した際、当時シアトル・マリナーズ所属の佐々木に現地時間午前5時に電話をかけたことがあることを話している。過去、松山はお忍びで打席に立ったことがあり、その時に佐々木が投げたボールのスピードと球威に打席に立った時の怖さを後日語っている。 さだまさし…シンガーソングライター 同時期にニューミュージックの一時代を築いている。書籍やコンサートでは「作詞はさだの方が上である」と、さだを褒めるコメントを出している。かつて松山は脚本家の倉本聰に傾倒し、テレビドラマ『北の国から』の主題歌作成を依頼されていたが、北海道をめぐる価値観の相違から仲たがいし、「北海道のことなど何も知らないくせに」と罵り嫌悪を始めた。そのため松山は主題歌作成の適任として倉本にさだを推薦する。事情を知らず倉本に呼び出されたさだは、「僕は九州人。北海道出身の人物がふさわしいのでは?」と倉本に進言するが、結局さだが主題歌を書くこととなった。 松山とさだの2人で札幌で飲んでいたら、そこへたまたま北野武が入ってきて、結局3人で飲んだ、という事もあった。松山は酒が飲めないので「ずっとコーラを飲んでいる」とさだは語っている。長年に渡る活動により、さだとは音楽観・人生観の相違が出てきたため現在は疎遠となっているが、さだ自身司会のNHK『松山から生放送! 大型連休もさだまさし』では松山の歌を歌うなどしている。2009年にリリースされたさだのライブ・アルバム『さだまさし35周年記念コンサート FESTIVAL HALL200』のステージ・トークでさだは「スタッフ同士は仲が良いので、(2008年6月に松山が)倒れたときはすぐに情報が来た」という表現をした。 ジャイアント馬場…プロレスラー 1980年頃に知人と通じて知り合い、公私ともに親しい付き合いを続けていた[10]。1998年5月1日の全日本プロレス・東京ドーム大会ではアカペラで『君が代』を披露するとともに、テレビ中継のゲスト解説を務めている。 アルバム『ガリレオ』に収録されている「Champ Never Die」は、元々ジャイアント馬場が 1998年暮れに入院したときに、歌でメッセージを伝えようとして作った応援歌であった(制作時のタイトルは「勇気をもう一度」)。またシングル「男達の唄」もジャイアント馬場をイメージして作った曲であり、1999年2月7日に日本テレビで14時から放映された追悼番組『ジャイアント馬場よ永遠に!』でも流されている。なお同番組には松山も出演している。 角盈男…元プロ野球選手・コーチ・野球評論家・タレント 現役当時より親交があり、今でも毎年コンサートに行き楽屋で挨拶する。 鈴木宗男…前衆議院議員・新党大地代表 地元足寄町出身で高校の先輩後輩の仲。鈴木宗男が初当選する1983年第37回衆議院議員総選挙から選挙応援をしている。鈴木宗男が代表である地域政党「新党大地」の名付け親は松山。新党大地・鈴木宗男の政治資金パーティーや勉強会にも顔を出す。松山は鈴木宗男後援会青年部の名誉会長も務めている。2002年からの鈴木宗男疑惑に対するムネオバッシングの際にも一貫して鈴木を援護し続け、自身のラジオ番組などには擁護に対する批判の声があがった。 2011年3月、在職25年以上の永年在職表彰のため、作製された鈴木宗男の肖像画の中に異例となる「新党大地 命名松山千春」が記された額縁が国会内の衆院第17委員室に掲示された。また新党大地の控え室の党看板(命名・松山千春)とともに松山の名前が国会内に掲示されることになった[11]。  図越利次…指定暴力団会津小鉄会5代目会長 京都で行われた図越会長の就任10周年を祝う催しの際には無償で歌を披露するなど、十数年来の付き合いである。個人的な友人である。 竹田健二^…元札幌テレビ放送ラジオ局(現・STVラジオ)ディレクター 1975年の全国フォーク音楽祭北海道大会に落選した松山に光るものを感じ、周囲の反対を押し切り自身の番組に起用、全国デビューさせた、松山の人生における最大の恩人。厳しく、移動中に車内で漫画を読んでいた松山に対し「そんなの見る暇あったら車窓を見て感じたことを詞に書け」と一喝した。しかし「東京に行くことはない。お前の好きな北海道で歌い続けろ。あとは俺が全部やる」といい、松山のプロ生活を全面的にバックアップしたが、台本を書いたファーストコンサート「旅立ち」の函館公演のあった1977年8月27日朝、急性心不全のため36歳の若さで急逝。 松山は、自身のコンサートのステージにはいつもバラの花を一輪置くが、これは竹田への追慕の表し。 中井貴一…俳優 1991年公開の映画『極道戦争 武闘派』にて、ともに主役として共演して以来親交がある。 中島みゆき…シンガーソングライター 同時期にニューミュージックの一時代を築いている。ともに北海道出身ということで、かつては両者の比較を、雑誌、ラジオ等がよく企画していた。さだと松山(二人とも髪が薄い)がワカメスープを飲んでいるのを中島が発見し、『オールナイトニッポン』でネタにしたこともある。関西ローカルのやしきたかじんの番組内において、松山はかつて男女の関係にあったことを匂わせる発言をしたことがあるが、真偽のほどは不明である。松山が、みゆきがパーソナリティを務める『オールナイトニッポン』に遊びに来たとき、2人の昔話をしたなかで、みゆきが風邪で寝込んでいたとき、松山が彼女の自宅を見舞って、みゆきの母親と会って話をしてと語っていた。これについてみゆきは特に否定せず、「そんなこともあったね」と語っている。 浜地紀生…前東海クリエイト社長 名古屋を中心にイベント・会場設営を行う企業の前社長。松山が主宰していた草野球チーム「スーパースターズ」がナゴヤ球場での試合の際に、会場設営をした時からの付き合いである[12]。松山が出演するラジオ番組の東海ラジオ限定スポンサーをつとめるほか、東海地方の松山のコンサート設営を手がける。また松山も自身が出演するラジオ番組で浜地のことを語ることがあった。なお、松山が死去した場合の葬儀委員長を務める予定だと松山自身がパーソナリティを務めるラジオ番組で語っている[13]。しかしながら肺炎の為、2010年11月5日に逝去[14]。 マイケル・ジョーダン…バスケットボールの伝説的スター ジョーダンに憧れてスキンヘッドにしたのは有名。 松山明人…ユニバーサルミュージック合同会社クラシックス&ジャズ制作編成部第1グループ主査 実弟。2006年、日本音楽業界史上最多の180枚組モーツァルト生誕250年記念企画CDをプロデュース。25万円を超える価格にもかかわらず驚異的なセールスを記録する。オペラなどクラシック音楽の多くのジャンルに精通していることから、クラシック啓蒙の為の講演会などに講師として招かれることもある。 三井浩二…プロ野球元埼玉西武ライオンズ投手 地元足寄町出身で学校の後輩。自身の変化球に「チハルボール」なる名称を付けており、交流も深い。 宮地佑紀生…名古屋のタレント・パーソナリティ・シンガーソングライター 宮地が全国フォーク音楽祭で作詞賞を取った(同北海道大会で松山は落選)頃から長年に渡り親交があるアーティスト。宮地がアクセサリーショップ経営の不振による借金で苦しんでいた頃に自身のSTVラジオ番組のパートナーに迎え入れ、不遇を救ったことから宮地は松山を年下の兄貴として公言、慕っている。今でも聞いてみや〜ちのリスナープレゼントに私物を提供するほか、コンサート等で東海地方を訪れた際に、同番組にゲスト出演したり、名古屋で開催される松山のコンサートに宮地が飛び入りでステージに登壇する事があるなど親交が深い。 やしきたかじん…シンガーソングライター・タレント・司会者 長年の親友であり、たかじんの番組にゲストとして出演したこともある。また大阪での松山のコンサートにもアンコールで飛び入り出演している。2006年4月2日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)では鈴木宗男が翌週の出演に先立って、たかじんにメッセージを送っており、そのなかで「たかじんさんの親友の松山千春さんの…」という趣旨を述べている。『ムハハnoたかじん』(関西テレビ)でも共演をした際、一度コンサートに飛び入り参加するとたかじんが明言し、同年6月2日のコンサートツアー「我家」大阪厚生年金会館で実現した(たかじんと松山のふたりで「恋」をデュエットし、たかじんが持ち歌の「やっぱ好きやねん」を歌った)。2008年不安定狭心症で入院した時も、病院に見舞いに行った。 山本詔治…所属事務所オフィス・パンタ(現在はオフィス・ゲンキと改称)の元社長。 元キャニオンレコードのディレクター。元NEWSレコード社長。元ロンドンレコード副社長。 所属事務所オフィス・パンタの名は、同社長の「がに股」の風貌がパンタグラフを連想させることから命名された。1982年6月に松山との出会いなどを記した『遙かなり』を出版。

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