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メキシコ永住組コミュの日本人の不在証明と不在の日系人   石田智恵著

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以下は石田智恵氏の学術論文のコピーである。個人的にはさらに付け加えたい点もあるが非常に示唆的である。また日本で二重国籍要求の裁判も進んでおり、今後の指針となる論点を持っている。


石田 智恵 (立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)
はじめに
 「日本人」のような集団を指す名称は、いったん確立し当たり前のものになってしまえば、それが存在しない状況を想像し難く、どのようにしてその名が生まれたのかという問いを忘れさせる。逆に言えば、いかにその名が生み出されたのかは、その当時その地にあった社会状況や集団間関係を捉える視点なくしては理解できないだろう。「日系人」という名も現在では自然に用いられるが、これが戦後に広まった呼称であることはこれまでに指摘されている。ではなぜ戦後に「日系人」が必要であったのか。この答えも同時代史のなかに見出されねばならない。この観点から本稿が試みることは、「日系人」と呼ばれる集団ではなく、日本語の「日系人」というこの集団名そのものの誕生を追跡することである。先に見通しを述べると、おそらく戦後日本政府こそ、この「日系人」という名を最初に必要とした。集団名としてそれまでは存在せず、「日本人」という名に似ており、かつ「日本人」とは違う。このような特徴をもつ「日系人」が有益であると気付いた政府がしたことは、「日系人」の名づけを可能にする舞台を用意することだった。名づけられた人々は、日本に置かれたこの舞台に現れ「日系人」になることを引き受けた。法的に定められたわけでもなく他の形で明確に定義されたわけでもないが、戦後の早い段階で、日本政府の周囲で突如としてこの名は使われ始めた。それ以降、そのときまで日本語に存在していた呼称は使用されなくなり、「日系人」が標準化する。
 「日系人」という名がなかったときに同じ状況で使われていたのは、「日本移民」、「(在留)邦人」、「(在留・海外)同胞」といった語である。これらは、日本から南北アメリカ(ハワイを含む)や東アジアに移民・植民として出て行った人々以外をも対象としていた。とりわけ「同胞」は、戦前の日本帝国臣民、すなわち外地民を指すものでもあった。加えて、その対象が内地には住んでいなくても、内地人と同じ民族であり臣民である、という論理を展開するときの範疇でもあった。そして戦後は、これらの対象の一部である南北アメリカへの移民のみが「日系人」と呼ばれるようになった。このことを念頭に置いて、本稿では戦後日本における移民政策の展開と、「日系人」誕生の過程を振り返る(1)。
 本稿は、民族的範疇の生成の論理に関する人類学的議論のなかで内堀基光が提示した、民族は名であるという唯名論的な捉え方を議論の土台に置いている。すなわち、日本語でいう「○○人」のように民族、人種、国民といったカテゴリーにまたがる集団は、その名前を使うことそのものを通じて現実化、問題化する、という基本的理解である。そしてとくに、国家がおこなう名づけは、集団間で相互に行なわれる他者分類とは別次元の固定化作用をもつ(内堀 1989)(2)。この視点に立ち「日系人」を現実化してきた現代史の最初期にあたる一連の場面を捕捉したい。以下、第1節では終戦直後、占領期から独立初期までの日本において、移民送出再開が推進され、具体化していく動きを追う。第2節では、具体化していった移民事業がどのような文脈に置かれ、誰がそれに関与していたのかを確認し、そのなかで今日まで事業を担当してきた外務省の動向に焦点を当ててその関心の所在と背景を検討する。第3節では、1、2節と同じ時期に、後に「日系人」と呼ばれるようになる人々と日本国内機関の間での連絡が戦後の「日系人」誕生に結びつく過程を、そして第4節では、その過程で作用した名づけの論理を考察する。なお、本来なら戦前・戦中の移植民政策の展開を振り返った上で、戦後との関係を併せて論じるべきだが、紙幅の都合により本稿に含めることはできなかった。稿を改めて試みたい。
1.占領期─独立初期──移民送出事業再開までの動静
 1945年9月以降の占領下において、日本人は原則として海外渡航を禁止されていた。出国が許されたのは重要な公務などのわずかな例(3)といくつかの例外のみであり、1948年には貿易など商用旅行は承認されたが、それでも目的の審査や渡航中の行動に厳しい制限が課されていた。ましてや一般人の「海外移住は全くのタブーであって、強いてこれを論ずるものは往時の軍国主義、侵略主義の復活をねらうものと曲解されるおそれ」(外務省領事移住部 1971: 98)があるとして控えられた。そんななか、移民送出を目下喫緊の課題とする向きが日本政府内にあり、そのための運動・議論が占領期の早い段階から水面下で始められていた。1947年10月、戦後の移住政策実現のための組織を目指して有志による「海外移住協会」(会長は当時の衆議院議長、松岡駒吉)が発足し、機関紙を発行するなど移民送出再開の呼びかけに着手したのがそれである。しかしGHQ/SCAPが同協会の発起人代表を引き受けた人物に非公式に辞退勧告を行なうといった圧力をかけており、総会を教会で行なうなど、活動は慎重を期して進められた(若槻・鈴木1975: 97)。実質的に、移民に関する動きはこの協会の活動が唯一であった。同じく47年、国会内でも人口問題と関連づけて移民をいかにするかと提起することが何度かあったが、外交的交渉ができない段階であることを理由にいずれも時期尚早として斥けられている(4)。また49年3月、外務省内で「日本人移民に関する将来の諸問題」について研究が行なわれた際にも、GHQ/SCAPから責任者に対し厳重な戒告が与えられたという(今野・藤崎1994: 183)。
 進展がみられたのはその直後、1949年5月の衆議院における「人口問題に関する決議案」の満場一致での決議である。この文章は戦後の移民問題に関する公式の場における最初の意志表明であり、海外移住は産業振興、産児制限に次ぐ、人口問題解決の第三の手段という位置づけで取り上げられている。ただしここには、移民送出が直接、過剰人口の解決につながるわけではないとの見解も同時に明示されており、むしろ移民の効果は他の面に期待されている(若槻・鈴木 1975: 102)。つまり、移民送出は人口問題の解決策としてのみ認識されていたわけではない。この点については次節で詳しく検討したい。
 占領下という状況から公然とは進められなかった当時の移民送出事業を詳細に明らかにすることに限界はあるが、上述のとおり基本的な方針は表明されており、細々と、しかし着々と進展していた(添付の年表も参照)。なかでも注目したいのは、米国の移民国籍法案に関する動向を調査していたことである。1924年の通称「排日移民法」成立以来、米国という最も望ましい受入国を失ったのみならず、その影響下にある他の諸国との友好関係も制限されていた日本にとって、米移民法改正は常に政府の関心事であった。排日移民法の内容は帰化権のない外国人の入国を認めないというものだった(1924年当時、白人と黒人のみに帰化を認めるとする人種規定があった)のだが、1952年に成立し「マッカラン=ウォルター法」として知られることになる戦後の新法案とは、帰化の要件から人種規定を撤廃するものだった。これは戦前移民の一世の帰化を可能にするとともに、日本人が再び移民として入国できることを意味していたため(Chuman 1976=1978: 478-485)、法案提出時から日本でも話題にされていたのである。この動向を調査していた外務省関係者はとりわけ、米国への国策移民の再開を見越しており、この法案の行方を「国民が首を長くして待っている問題」(国会会議録、1952年2月6日、衆議院外務委員会3号)とも表現していた。1949年の「人口問題に関する決議案」に結実するその前年の国会の答弁のなかでも、「われわれが眞に侵略的な意図を全然棄てまして、平和國民として立つということを決意、これを実行しておる現実におきましては、[中略]われわれは國民の立場から排日移民法というようなものをつくらないで、むしろ自由な立場で入國を認めてもらうような方向に進んでもらいたいということを熱望するものであります」との委員の発言に対し、芦田均首相(当時)は「現に北米合衆國においても、從來対日移民法と稱する日本人の入國禁止に関する法律を、主義上は一應廃止すべきであるというごとき運動も行なわれておるのであります」と応えている(国会会議録、1948年6月15日、衆議院予算委員会33号)。
 

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