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貞心尼、不求庵の集い。コミュの貞心尼、禅の心。

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ここに、一冊の本があります。

題して、貞心尼考、柏崎市立図書館、ソフィアセンターから借りてきました。

越後タイムスという、週刊の、地方新聞に、昭和3年に連載された、「貞心雑考」「続貞心雑考」をメインに、編集された本です。(筆者、柿崎の、天輪寺住職、上杉涓潤禅師で、号は艸庵。)貞心尼及び良寛禅師のことを、実に的確に考証された、名著です。

編集、発行  中村昭三氏  非売品である。


この本によると、

孝室貞心禅尼。

俗名、奥村ます。

長岡市荒(新)屋敷

長岡藩士、禄高二十五石、奥村五兵衛の娘。

寛政十年生まれ。

幼くして、祖父より和歌の指導を受け、天賦の才を現す。この祖父の弟は、萬能寺の十三世住職で、その父は、同寺の再建に当たり、金主となったことが、後の艸庵師の調査でわかる。

和歌の指導した、祖父が、嘆息して、男の子なら良かったのに、女の子では、尼さんにでもならなければ、才能を発揮出来ないと言ったとか。

貞心尼の、和歌の才能と、禅の心は、祖父兄弟の感化(禅では、これを因縁という)

文化十一年、十七才で、小出島の医師、関長温に嫁ぐ。

五年後、夫の病死にあい、生家の奥村家に帰るが(異説あり)、夫の菩提を弔うため、二十三才で、剃髪して、尼僧となる。(父は、出家に大反対)

柏崎の釈迦堂で、心龍、眠龍の、姉妹の禅尼に仕える。

一年後に、長岡は福島の閻魔堂の、草庵に移り住み、庵主となる。

この頃に、有名な良寛禅師とめぐり会い、和歌を通じて禅の心を、深く知るようになる。

眠龍示寂後、再び釈迦堂に戻る。天保九年四月十五日のこと。

二年後、受業師の心龍尼、円寂。天保十一年六月二十八日のこと。

翌十二年三月、洞雲寺泰然方丈剃度師となって、正式に尼僧となり、釈迦堂の庵主となる。

洞雲泰然方丈は、心龍尼、眠龍尼姉妹の弟である。

嘉永四年四月、十年間住んだ釈迦堂が類焼したので、外護者の、山田静里等が、中心となって、清浄山真光寺の側に、八畳、四畳、三畳の、庵室を建ててくれた。貞心尼は、この庵を「不求庵」と名づけて、弟子の孝順尼(十九歳)とともに、九月中旬頃に移り住んだ。
明治五年二月十一日、午前二時過ぎ、静かにこの世を去っていった。(二十二年間在住)七十五歳であった。(この項は、不求庵跡地にある案内文による)


辞世の歌として、

玉きはる 今はとなれば みだ仏と
    いふよりほかに 言の葉もなし
あとは人 先は仏に 任せおく
    おのが心の うちは極楽
※跡地の案内板では、「あとは人先は仏に任せおく のが心のうちは極楽。」となっているが、これは字足らず。 

そして、もう一首、

くるに似て かへるに似たり 沖津波
    立居は風の ふくにまかせて

前の二首は、自分を支えてくれた人々への、別れの言葉。

後の一首は、恩師良寛禅師に学んだ、禅の心、お釈迦様の教えを詠んだものでしょう。つまり、この一首は、貞心尼の学びの、集大成をされた、不朽の名歌であることは、後世の研究者の、一致した評価です。私も、そう思います。

おこがましいことですが、縁あって、不求庵の近くに寓居している、人間として、次の賛歌を、捧げたいと思います。

おのずから 然ることわり(理) 身に在るを
    智慧の泉と 見て聞くは良し                 視聞


徒然に。肩の凝らない貞心尼こぼれ話を。

ます女は、小さい頃、使用人に連れられて、柏崎に遊びに来た時、海辺の庵室が気に入って、こんなところで尼になって、歌を詠んで暮らしたいと言ったとか。

また、十七歳で嫁いだが、子供が出来なかったので、離縁となり、実家に戻ったとも言われていたが、これはどうも、武家である実家が、体面を繕うために、(事実子供はなかったらいいが)言ったことらしい。

夫である小出嶋の関長温は、作り酒屋のおっさ(弟のこと)で、体力がなくて、酒屋の仕事に耐えられず、医者の弟子になり、家を借りて開業したらしい。
この頃のますは、美人ではあるが、愛想が悪く、ツッケンドンで、気位が高く、評判が悪かった。(年取ってから、イヤな性格だったと、貞心尼自身が、言っていたらしい。)
夫婦仲も悪く、夫は、大家の妹と懇ろになり、栃尾の方に駆け落ちしたが、間もなく、その女にも逃げられ、数年で不遇のうちに死んだという。

嫁いでから、五年ぐらいで、剃髪している。

亡き夫の菩提を弔う、と言うのが、その理由である。夫を駆け落ちに追い込み、不遇のうちに死なせた原因が、自分の性格にもあると、深く反省していたのでしょう。それは、武家に生まれて、教育を受けた事による、性格が、庶民の生活にとけ込めなかった、ショックでもあろうか。


大騒ぎ、良寛禅師と貞心尼は、ラブラブだった?

火種は、貞心尼の遺品の中から見つかった、懐紙に書かれた、二首の歌。

題して、恋は学問を妨げる。

貞心

いかにせむ まなびの道も 恋くさの
    しげりていまは ふみ見るもうし

良寛

いかにせん うしにあせすと おもひしも
    恋のおもにを 今はつみけり

やまとうた(和歌)は、三十一文字の、短い歌です。

だから、掛けことば(同音異字)が、沢山使われています。例えば、文見るという言葉には、文章を見る(読む)という意味の他に、踏(践)んで行うと言う意味を持たすことがあります。

これを読んだ人が、

貞心

一生懸命に、歌や、仏の道を、学んでいたはずなのに、恋の草が生い茂って、今は、師の文や、仏の経典を、読んで実行することも、いとわしくて、どうしようもありません。

良寛

牛が汗をかくほどに(中国の故事に、沢山学問をしたことを、牛が汗をかくほど、書籍を積む、と言うこと)学問をしたと思っていたのに、今は、恋の重荷を積んでいたとは、どうしようもない。

と、解釈して、

ウワー、大変。貞心尼と良寛様は、熱愛だった!。と、大騒ぎしたとしても、不思議ではない。「如何にせん」である。

ところで、ホントはどうだったの?と聞かれれば、私は、次のように、常識をひっくり返す答えしか出来ません。

「恋」は、請い、乞いの掛け言葉。こいぐさは、乞い草で、頼まれごとでもある。貞心尼のような、歌の道に勝れた人ならば、

どうしようもなくて、学問の道にも、師の文を頼んでくる人が現れて、今は、庵を訪ねることも、文をお願いすることも、気が重い。

返事もまた、洒落ている。

どうにもならないのはお互い様で、儂(わし)なども、大汗をかいて学問したと思ったのに、今は、書などを乞われる重荷を積んでいる。

と。

二つの歌に共通するのは、はじめの、「如何にせん」です。

どうしましょう。どうにも成りません。と前置きしています。

また、「いまは」も、共通の言葉ですが、貞心尼が、「恋草の、しげりて今は、ふみみるもうし」と、問いかけているのに、良寛さんは、「恋の重荷を、今は積みけり」と、返しています。

本当の貞心尼の恐れは、心の中で、師の、良寛禅師に学び、禅を学ぶことが楽になることで、乞い心(怠け心)に、安住しようと思うことでしょう。

良寛禅師は、若い頃、玉島の円通寺で、大忍国仙禅師に学び、その首座にまで上ったのに、師の許可を得て、遠く九州の地まで、名僧知識と評判の僧を訪ねて、教えを請うている。

そして、お釈迦様の説かれた教えは、大堂伽藍に安住することではなく、知識に執着することでもなく、心(意識の活動)のままに生きることであると結論する。

だから、故郷の越後に帰ってからは、小さな庵に住み、子供達の遊びをともに遊ぶ、変わったお坊さんと、思われていた。

つまり、禅師の学んだ仏法は、庶民に理解されにくい、理屈でも、経文でもなく、まして、実行出来ない修行を強制するものでもない。

人間が、当たり前に行える、ただそれだけのことであった。

貞心尼に対しても、変わることはありませんでした。

歌の裏側には、墨染めの衣に編み笠をかむり、善男善女には、意味のわからない経文を唱えながら、托鉢をすることの、命をつなぐ乞いの行いと、貞心さんが、知り合いの人から、儂の書のように、理解出来ないものを乞われることに、どれほどの違いがありますか?との、含みが読みとれます。

私は、そのように感じました。


禅と言う字は、一つ(単)を示すと、分解出来ます。

世の中の、あらゆる現象は、よく観察すれば、一つの法(ダルマ)が、色々に現れている(方便)。智慧とは、曰く(理法)を知ることが、鮮やか(慧)なことを言う。これが、お釈迦様が教えた、ブッダ(智慧)の法です。それを、他の言葉で、禅というのです。


二十世紀の偉大な物理学者、アインシュタインは、E=mc2の方程式でその入り口にまで、たどり着きました。でも、E=エネルギー、m=質量、c=光速、を、どのように考えれば、一つの方程式が出来るかを、示せませんでした。

お釈迦様は、これを、アー、ミ、ター、と言いました。もちろん、サンスクリットの言葉です。

そろそろ、肩が凝ってきたと思うので、これで終わります。






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