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鵺コミュの平家正節「鵺」

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平家正節「鵺」  
平家物語巻之四 平家正節二之上

口説 そもそも、此源三位入道頼政は、攝津守頼光に五代、三河守頼綱の孫、兵庫頭仲政が子也けり。去る保元の合戦の時も、味方にて先をかけたりしか共、させる賞にも預らず。又平治の逆乱にも既に親類を捨て参じたりけれ共、勧賞是疎か也き。大内守護にて年久しう有りしか共、昇殿をば未だ許されず、年長け齢傾ひて後、述懐の 

下ケ 和歌一首詠てこそ、昇殿をばしたりけれ。

上歌 人知ぬ大内山の 

下 山守は、木隠れてのみ月を見る哉
指声 此歌に寄て昇殿許され、正下の四位にて暫く候らはれけるが、猶三位を心に掛けつつ

下歌 登る可便り無身は木の下に、しひを拾ひて世を渡る哉

素声 偖こそ三位に成、やがて出家して源三位入道頼政迚、今年は七十五にぞ成れける。この人の一期の功名と覚しき事は、去ぬる仁平の比をひ、近衛の院御在位の御時、主上夜な夜な怯へさせ給ふ事有りけり。有験の高僧貴僧に仰せて大法秘法を修せられけれ共、其の験無し。御悩は丑の刻斗の事成りけるが、東三条の森の方より 黒雲一群立ち来って 御殿の上に覆へば、主上必ず怯へさせ 

ハツミ 給ひけり。

口説 是に依て 公卿詮議有りけり。去ぬる寛治の比をひ、堀川の院御在位の御時、しかの如く 主上夜な夜な怯へ魂きれさせ給ふ事有りけり。其時の将軍には義家の朝臣南殿の大床に候らはれけるが、御悩の

強リ下ケ 刻限に及んで、鳴弦する事三度の後、

甲声 高声に前の陸奥国守源の義家ぞやと罵ったりければ

素声(撥ナシ) 聞人皆身の毛よだって御悩必ず怠らせ給ひけり。然れば先例に任せて、武士に仰せて警固有るべしとて、源平両家の兵者を撰ぜられけるに、この頼政をぞ撰み 

ハツミ 出されける。

口説 頼政 其時は未だ兵庫頭にて候らはれけるが申されけるは、昔より朝家に武士を召置かれぬる事は逆叛の者を退け、違勅の輩を亡ぼさんが為也。斯る眼にも見へぬ変化の物仕つれと仰せ下さるる事、未だ承り

強リ下ケ 及ばずと云いながら 勅宣なれば召しに応じて参内す。

拾 頼政 頼み切たる郎等、遠江国の住人猪早太に、母衣の風切矧いだりける矢負わせて、唯一人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に山鳥の尾を以て矧いだりける鋒矢二ツ重籐の弓に取り添えて、南殿の大床に伺候す。頼政 矢を二ツ手挟みける事は、源中納言雅頼、其時は未だ左少弁にて御坐けるが、変化の物仕つらふずる仁は頼政ぞ候ふらんと撰み申されたる間、一の矢にて変化の物射損ずる程ならば、ニの矢にて 

下 雅頼の弁のしや首の骨を射んと也。

口説 御悩の刻限に及んで、東三条の森の方より黒雲一群立ち来って、御殿の上に五丈斗ぞ靉靆たる。頼政きっと見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿有。

強リ下ケ 射損ずる程ならば無に在べし共覚へず。

拾 頼政、矢取て番ひ、南無八幡大菩薩と心の内に祈念して、能引て兵と放つ。手応えして はたと中る。頼政、射得たりや応と矢叫びをこそしてんげれ。猪早太 突と寄落る所を取て押へ、柄も拳も

下 通れ通れと続け様に九の刀ぞ

呂 指たりける。其時上下手手に

下音 火を燈ひて 是を御覧じ見給へば

上音 頭は猿、骸は狸、尾は蛇は、手足は虎の如くにて、鳴く声

下 鵺に似たりけり。恐ろしなん共 おろか也。

口説 禁中さざめき合り。主上御感の余りに頼政に獅子王と云う御劔を下さる。宇治の左大臣殿賜り次で、頼政に賜ぶとて、御前の階しを半らばかり過ぎさせ給ふ折節、比は卯月十日余の事なれば、雲井の郭公

下ケ 二声三声音伝て通りければ、左大臣殿

上歌 ほととぎす名をも雲井に  下 上るかなと 

指声 仰せられ掛けたりければ、頼政 右の膝を突き、左んの袖を播げて、月を少し傍目に掛けつつ 

下歌 弓張月のいるに任せてと 初重 仕て御劔を賜て罷り出づ。

素声 弓矢を取て天下に名を上るのみならず、歌道にさへ達者かなとぞ、時の人々感じ合れける。さて彼の変化の物をば空舟に造り篭めて流されけるとぞ  ハツミ 聞こへし。

口説 又、応保の比をひ、二条の院御在位の御時、鵺と云う化鳥、屡ば禁中に鳴いて 宸襟を悩まし奉る。今度も

強リ下ケ 先例に任せて、此の頼政をぞ、召されける。

三重甲 比は五月廿日余り、まだ宵の事なれば、鵺只一声音伝て 

上 ニ声共鳴かざりけり

甲 目指す共知らぬ闇なれば 上 姿形も見へずして、矢つぼを何くと定め難し。

拾 頼政、まづ謀事に、一の矢に大鏑取て番ひ、鵺の声したる内裏の上へぞ射上たる。鵺、鏑の音に驚いて、虚空に暫ぞひひめいたる。ニの矢に小鏑取て番ひ、ひいふっと射切て

下 鵺と鏑と並べて、前へぞ落ひたる。 

口説 禁中さざめき合、主上御感の余りに頼政に御衣を被させ御坐す。此度は大炊の御門の右大臣公能公の

下ケ 賜り次で、頼政に御衣を被させ給ふとて

折声 昔の養由は雲の外なる雁を射、今の頼政は雨の中の鵺を射たりとぞ感ぜられける。

上歌 五月闇 名を顕せる 下 今宵かなと 

指声 仰せられ掛けたりければ 頼政

下歌 黄昏時も過ぎぬと思ふにと

初重 仕て、御衣を肩に掛けて、罷り出づ 

中音 重ねての勧賞には、伊豆国賜り、子息仲綱受領になる。我身三位して、丹波の五かの庄 若狭の東宮川を知行して ※さて御坐ぬべき人の由無き謀叛起こして、宮をも失ひ奉り、我身も子孫も亡びぬるこそうたてけれ。

※祝儀 御坐しけるとぞ承る(終)。
宴席で語る場合は、※から後を「祝儀節」に語り換える。

平家詞研究室 鵺(ぬえ)」の詞章 より
ttp://www4.plala.or.jp/heikebiwa/note/nue.htm

コメント(1)

そもそも源三位(げんさんみ)入道と申すのは、摂津守(つのかみ)頼光から五代目にあたり、三河守(みかわのかみ)頼綱の孫で、兵庫頭(ひょうごのかみ)仲政の子である。保元(ほげん)の合戦のとき、後白河天皇の御味方として、先駆けをして戦ったが、さほどの恩賞も受けなかった。また、平治の乱に際しても、源氏の一門を捨てて御味方にはせ参じたが、褒賞(ほうしょう)は薄かった。大内裏(だいだいり)の守護を長年勤めたが、昇殿も許されなかった。年をとり、老齢となった後、述懐の歌一首を詠むことによって、ようやく昇殿を許されたのである。
 
人知れず 大内山のやまもりは 木がくれてのみ 月をみるかな
 
この歌によって、昇殿を許され、正四位下の位でしばらくいたが、三位を望んで
 
のぼるべき たよりなき身は 木のもとに しゐを拾ひて 世をわたるかな

と詠んだ。こうして、三位に叙されたのであった。まもなく出家して、源三位入道と称し、今年は七十五になられた。

 この人の生涯においての功名と思われることは、近衛院(このえいん)が天皇の御位におられた仁平(にんぺい)のころ、天皇が毎夜、何者かにうなされ、おおいに驚かれることがあった。効験(こうげん)あらたかな高僧貴僧に命じられて、大法秘法の加持祈祷(かじきとう)を行われたけれども、その効果もなかった。御苦しみになるのは、午前二時ごろであったが、東三条(とうさんじょう)の森の方からひとむらの黒雲が現れて来て、御殿の上を覆うと、必ず天皇はうなされ、怯えなさるのであった。そこで、この対策を協議する公卿(くぎょう)の会議が開かれた。去る寛治(かんじ)のころ、堀川天皇が御在位のとき、やはりこのように天皇が毎夜うなされることがあった。その時の将軍源義家朝臣が、紫宸殿(ししんでん)の広縁に伺候(しこう)しておられたが、御苦しみなる時刻になって、魔よけのために弓弦を三度鳴らした後に、声高く「前(さき)の陸奥守(むつのかみ)源義家」と名乗られると、人々はみな身の毛がよだつ思いがし、天皇の御苦しみもお治りになった。そこでこのような先例に従って、この度も武士に命じて警固(けいご)すべきであるというので源平両家の武士どもの中から選考されたところ、頼政が選び出されたということであった。当時、頼政は、まだ兵庫頭(ひょうごのかみ)であった。
頼政は
 
「昔から朝廷に武士を置かれるのは、反逆の者を追討し、勅命に背く者を滅ぼすためであります。目に見えない変化(へんげ)のものを退治せよと命じられることは、まだ承ったことがありません」
と申し上げたが、勅命であるので、召しに応じて参内した。
 頼政は、深く信頼している郎等(ろうとう)の、遠江国(とおとうみのくに)の住人、井早太(いのはやた)にほろの風切(かぜきり)ではいだ矢を負わせて、ただ一人だけ召し連れていた。我が身は二重(ふたえ)の狩衣(かりぎぬ)を着、山鳥の尾ではいだとがり矢を二本、滋藤(しげどう)の弓に添えて持ち、紫宸殿の広縁に伺候した。頼政が矢を二本持ったのは、雅頼卿(まさよりきょう)が、その時はまだ左少弁(さしょうべん)でおられたが
 
「変化のものを退治することのできる人としては、頼政がおります」

と推薦したからであり、もし一の矢で怪異のものを射損じたならば、二の矢では左少弁雅頼の首の骨を射ようというためである。

 日頃人が申しているとおり、天皇の御苦しみになる時刻になると、東三条の森の方から、黒雲が一群立ち現れて来て、御殿の上に棚引いた。頼政がきっと見上げると、雲の中に怪しいものの姿がある。万一これを射損じたなら、この世に生きていようとは思わなかった。このような決意のもとに、矢をとって弓に番え、「南無八幡大菩薩」と心の中で祈念して、引き絞ってひょうと射た。手応えあって、はたと命中し
 
「仕留めたぞ、おう」
 
矢叫びを上げたのであった。井早太(いのはやた)がつっつと走り寄り、落ちてくる怪物を取り押さえ、続けざまに九刀刺しとおした。その時、宮廷の上下の人々が手に手にかがり火を灯してこれを御覧になったが、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしており、鳴く声は鵺に似ていた。恐ろしいという言葉では表しようもない怪物であった。
 天皇は大層関心なさって、御賞賛のあまり、獅子王(ししおう)という御剣を下された。宇治の左大臣がこれを頂き取り次いで、頼政にお渡しになろうと、御前の階段を半ばほどお下りになったところ、頃は四月十日余りのことであったので、時鳥(ほととぎす)が二声三声鳴きながら空を過ぎって行った。そこで左大臣殿は
 
「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」
 
と仰せられると、頼政は右の膝をつき、左の袖を広げ、月を少し斜めの方に横目に見ながら
 
「弓はり月の射るにまかせて」
 
と即座に詠んでお答えし、御剣を頂いて退出した。
 
「弓矢ををとって並ぶ者のない武勇の士であるばかりか、歌道にも秀でていることだ」
 
と、君も臣もみな感心され、賞賛なさった。こうしてこの変化の物は、丸木をくり抜いた船に入れて、流されたということであった。


神々の宴 鵺のこと より
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index37.html

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