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ムサシノクラブコミュの一周年!

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一人も書き込みがないままコミュ設立一年が経過してしまいました・・・
皆さん、せっかくなので何か書いてください(爆)

コメント(1)

こんな記事もありました。
皆さんもムサシノクラブOB、OGとして誇りを持ちましょう。


坂本則夫の"一徹"な人生と子供たちへの愛情


 日本で初めて自前の施設を持って指導を始めたのは昭和42年4月22日創業の多摩川スイミングスクール(既に閉鎖)だが、それから9日後の5月1日に、大学を卒業したばかりの若者が東京都武蔵野市で体操教室を立ち上げた。坂本則夫が主宰する「婦人・子供体操教室」である。その後、部屋を借りての指導から、自宅の庭に体育館を建てて指導をするが、やがてスイミングブームが到来し、昭和51年にプールを増設。「ムサシノクラブ」と改称し、スポーツを通じて地域の子供たちへの教育を担ってきた。体育館を持って37周年、13m×6mの小さなプールで25周年を迎えた。"ミニサイズ"のスポーツクラブを営んだ経営者の歩みと経営哲学とは?(敬称略)





子供に自信と挑戦する心を与えたい

 最近、スポーツクラブでは子供を対象にした体操教室が大流行である。そのルーツは昭和38年に東京都練馬区で始まった大泉スワロー体育クラブ(三宅馨代表)である。三宅馨・絹江子夫妻が「元気な子供を作りたい」と畑を整地して、跳び箱2台から始めた。民間第2号は東京オリンピックが終わった翌年、昭和40年にスタートした東京都大田区の池上スポーツ普及クラブである。日本体操界を牽引した小野喬選手が引退してつくったクラブである。
 この二つの体操教室の存在を知らずに、昭和42年5月にスタートしたのが坂本則夫の「婦人・子供体操教室」だった。坂本はこの年3月、早稲田大学を卒業したばかりだったが、事業として成り立つのかさえ考えず、武蔵野市御殿山にあるキリスト教会の中にあったスカウトホームの一室を借りて始めた。
 なぜ大学を出て就職もしないで体操教室を開いたのか。「学生時代に器械体操をやっていたため、大学を出て人に使われるよりも自分で何かやりたいと思い、体操教室を始めました」。
小さい頃、器械体操と出会うまでは"落ちこぼれ"だったという坂本。運動をコツコツやることによって、その成果は必ず出てくることを体験した。「体操をやり始めて、自分にもできるんだという自信が生まれ、何にでも挑戦するようになった。それを当時の子供に与えてあげたいというのが体操教室を作った理由です」と語っている。「何でもできる子にではなくて、苦手な子供に教えることを主眼としてやりたいと思っていました」という。
昭和40年代前半、まだ子供たちの通う習い事の教室はわずかな種類しかなかった。しかし、坂本は「子供たちに必ず体操教室が必要な時代になると思っていました。東京オリンピックがあり、高度経済成長で生活が変わっていく。道路が自動車専用になってしまい、子供の遊び場だった道路がなくなっていく。そういう時代ですから、このままで行くとどうしても子供の体育・体力に必要な場が必要になってくるはずだ」と真剣に考えていた。
昭和42年4月、多摩川スイミングスクールが民間第1号で登場して以来、子供たちが水泳を習う習慣が全国的に広がった。その多摩川スイミングスクールのオープンから9日後にスタートしたのが坂本の「婦人・子供体操教室」だった。
 坂本の住まいは吉祥寺本町。御殿山とは目と鼻の先である。ボーイスカウトに所属していた縁で「体操教室」を始めたが、1年半ほどしてその教会がマンションに建て替えられることになった。「これは喰っていける!」と確信を持った坂本は、自宅の庭に体育館を建て、「ムサシノ体操教室」と名称を変えて再スタートを切った。
「体操教室なんて世間的には認知されていませんでしたから、"坂本はバカか"とまで言われました」
 昭和44年、専用の施設ができあがった。専任スタッフは3人。アルバイトを入れると5人のスタッフが指導をしていた。当時は第二次ベビーブームで高度経済成長期の真っ只中。会員は700人にも達していた。子供たちへの体操教室、ご婦人たちには「美容体操」を教えていた時代にである。商売としては順風満帆であった。
 ところが2年後の昭和46年4月、すぐ近くの井の頭学園藤村女子中学・高校に水泳教室ができた。世の中では"スイミングブーム"が到来しようとしていた。坂本の自宅庭につくった「ムサシノ体操教室」は子供たちに人気の教室だったが、坂本の耳には「スイミングも教えて欲しい」という要望も届くようになっていた。 
 実は「婦人・子供体操教室」を始めた翌年の昭和43年夏から、短期水泳教室も開催していたのだ。当時はもちろんプールを持っていないから、近くのプールを借りてである。しかし、近隣にスイミングスクールができ始めると、体操に通っていた子供たちが移っていく。夏しか水泳指導はしていなかったが、スイミングクラブに移って行った子供たちが「ムサシノの方が上手になる」と、短期教室には参加してくれる子供たちも多かった。
 本格的な水泳指導をするきっかけがやってきた。自宅を建て替え、マンションを建てることになったのだ。昭和56年のことだった。最初に建てた体育館はそのままにして、マンション1階部分にプールをつくることになった。敷地の関係で13m×6mの変則プールである。同時に有限会社ムサシノ倶楽部を興し、「ムサシノクラブ」と名称を変更して、スイミングと体操教室を指導の柱に25年の年月を刻んできた。

人とのつながりを大切にする商売

 民間のスイミングクラブは昭和40年、代々木オリンピックプールを借りてスタートした代々木スイミングクラブに始まった。"自前の施設"を持った第1号は多摩川スイミングスクールだが、日本にこうした"心と体を鍛える"教室が定着して40年を超える。
 スイミングスクールの派生とは異なるが、ムサシノクラブは体操教室で始まり、スイミング指導が加わって39年の歴史を刻んできた。大型施設でも時代の変遷について行かれず閉鎖に追い込まれたスイミングクラブはたくさんある。 しかし、"ミニサイズ"でありながら生き残ってきた。これまで継続して来られたのには理由がある。「人とのつながりを大切にする商い。人間性を育てるのが仕事」という"進むべき道"を一直線に歩んできたからだろう。
「施設は小さくても受け入れられている。他所とは違うからです。多くのスイミングスクールはマニュアル中心の指導をし、それも画一的です。エクササイズのみです。それでは学校教育と離れてスイミングスクールが存在する理由がない。エクササイズのみでも、個人個人の能力や性格に合わせたプログラムができるとよいのですが、いくらマニュアルが発達していてもそこまではいけない。プログラムをこなす人間がいない。これは企業がやっていますから当然のことで、営利主義に走らざるを得ない。今で言えばファンド会社がスイミングスクールをやっているようなものです。中身なんかどうでもよい。儲かればよいんですから。それではスタッフが育たないですよね。結局、ダンピングする。自分の首を絞めている。"自分のやっていることはこんなに安いものですよ"って。そのしわ寄せは従業員に押し付けられている。だからウチは入会金無料なんてやらない。しかも、どこよりも(会費は)高いんですよ」と坂本は言い切った。
 仕事を"使命"と捉えて、一途に使命を果たすことに全力を注ぐ。そんな坂本の経営術は安易な割引商法をしないことだ。キャンペーンはやらない。「安くすることがサービスだとは思わない。会費に見合ったことを提供することと、(会費で)不信感を抱かせないこと。1年通っても10年通っていても、全て同じ会費。それによってみんな安心するんです」。
「能力のある子に対して教えるところはいくらでもある。ところが、トップクラスと一番下を教えられるところは少ない。トップクラスを教えられる力を持って、一番下を教えなくてはいけない。選手を育成するよりも運動神経の鈍い子、苦手な子供を教えるのは説得力があると思っています。ムサシノクラブは、できるようになろうとする気持ちがとてもすばらしいと考えるクラブです」。坂本則夫、昭和19年2月生まれ。62歳。未だ現役の指導者である 。

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