ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ラース・フォン・トリアーコミュのラース フォン トリアーさんの経歴 

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
★分からないことが多いのでネットで調べたのを貼り付けてみました…。

1956年4月30日、コペンハーゲン生まれ。

両親は共産党の要職に就いていた。母は第二次大戦中、スウェーデンでレジスタンス運動をし、戦後はデンマークのフェミニズム運動の中心的役割を果たしていた人物で、彼を産んだ時すでに41歳だった。

幼少期のラースは、学校という社会になじめず、12歳で精神科のサナトリウムに入れられるが、数週間後に脱走してしまう。10歳頃から8ミリで短い劇映画やアニメーションなどを製作し始める。12歳の時にテレビ・ドラマのミニ・シリーズ「Hemmelig Sommer(秘密の夏)」に出演し、プロフェッショナルな映画製作と初めて関係を持った。

15歳の時に母からカメラをもらい、10代の後半は16ミリカメラでアマチュア映画を撮り続け、コペンハーゲンの映画博物館における上映会の常連にもなった。母親の弟がドキュメンタリー映画作家のベリエ・ヘスツであり、ラースは幼い頃、この伯父から映画フィルムの断片をもらったという。

1976年から79年までコペンハーゲン大学の映画学専攻科に在籍し、映画史や映画理論ほ学ぶかたわら、大学の教授や友人を出演させた実験映画「Orchidegartneren(蘭栽培者)」を16ミリで製作、一般公開した。

1979年秋から1982年にかけて、デンマーク映画学校で映画演出を専門に学び、この間にビデオ作品を4本、16ミリ・フィルムを1本、35ミリ・フィルムを2本製作している。1981年、そのうちの「Nocturne(ノクターン)」が、ミュンヘンで行われた欧州映画大学コンテストで特別賞を受賞している。

1984年。長篇劇場映画第一作である『エレメント・オブ・クライム』を、カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品。高等技術院賞を受賞。国際的に注目を集めるようになった。

1987年。長編第二作『エピデミック』をカンヌ国際映画祭ある視点部門に出品。

1988年には、カール・テオドア・ドライヤー生誕100年記念として、テレビ用「Media 」を撮る。

1990年、母が死去。戸籍上の父は、ユダヤ系のデンマーク人だが、母から死の間際に、二十年前に亡くなった父は、実の父親ではないと聞かされる。芸術的な血を持たせたくて、血縁に芸術家が多くいた男の子供を故意に身ごもったというのだ。

その「本当の父親」は、デンマークの高級官僚だった。15分ほどの話し合いの間に、彼の顔に唾を吐いてこう言ったという。「私は一度だってこの子を望んだことはない」「もしラースがまた連絡してくるようであれば弁護士を立てる」と。

1991年、長編第三作『ヨーロッパ』をカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品。高等技術院賞と審査員特別賞を受賞。

1994年。13話からなるTVシリーズ『キングダム』の4話分を完成。ヨーロッパ版『ツイン・ピークス』と言われ、デンマークで驚異的なヒットしたこの作品を、ラースは「純粋な商業映画」と語る。
1995年。長女の教師だったベンテという女性と恋に落ち、妻とふたりの子供を捨てて彼女のもとに走る。高所恐怖症で飛行機が駄目。派手なことが嫌いで、記者会見や授賞式などにほとんど姿を見せないことや、型破りな振舞いと合わせて、マスコミから激しく攻撃される。

1996年。カンヌ国際映画祭で『奇跡の海』が審査員特別大賞(グランプリ)を受賞。主演のエミリー・ワトソンによると、もともと神経過敏で感受性の強い人だが、撮影中は泣き出したり自己批判をしたり、血の出るような思いで撮りあげたという。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ラース・フォン・トリアー 更新情報

ラース・フォン・トリアーのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング