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LUNA SEA 完全復活コミュのLUNASEA略歴

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結成〜初ライブ
1989年1月INORANとJが所属していたLUNACYへPINOCCHIOに所属していたSUGIZOと真矢が加入する。この時期に在籍していたボーカルが脱退した後、SLAUGHTERにいたRYUICHIが加わり、5月6日にこの5人でインディーズ活動を開始。5月29日には町田プレイハウスにて初ライブを成功させる。この時、「ここで5人で音を出した時、これだ!と思った。」と、後に各メンバーが異口同音で語っている。以後、町田を拠点としてライブを精力的に続け徐々に人気を獲得していく。この頃、彼等が今でも偉大な先輩と尊敬するAIONのローディーをJが務めていたこともあり、AIONからイベント参加の誘いを受けLUNACY初の大阪ライブを行う。1990年11月、目黒ライブステーションでのワンマンライブを機に、バンドの表記をLUNA SEAに改める。


〜インディーズでアルバムリリース
精力的にライブ活動をこなしていったLUNA SEAは、この過程でX JAPAN(当時 X)のYOSHIKIやHIDEに誘われ、YOSHIKIが主宰するエクスタシーレコードから1991年4月に1stインディーズアルバム「LUNA SEA」をリリースする。この年は、ライブハウスツアーを3本こなす。9月19日には日本青年館、年末の12月29日・30日には日本青年館2DAYSを成功させた。


メジャーデビュー〜初の日本武道館
1992年5月には2ndアルバム「IMAGE」でMCAビクター(現:ユニバーサルミュージックK.K.)よりメジャーデビューをはたす。ツアーは前半、「TOUR 1992 IMAGE OR REAL」・アンコールツアーを行い、東京ではアンコールツアーの最終日、日比谷野外音楽堂に進出をはたす。10月1日には渋谷公会堂にて公演。そして翌年の2月24日、1stシングル「BELIEVE」をリリース。その後ツアーを行い、ツアー中に3rdアルバム「EDEN」をリリースする。8月にはアンコールツアーを東京・名古屋・大阪で行ったが、最終日の初武道館2DAYSの8月26日・27日の内、27日が台風に見舞われ、延期して30日に振り替えられるというアクシデントが発生(「嵐を呼ぶバンド」と呼ばれるきっかけとなった)。


1994年
年頭に行われた、前年から続くツアーの最終日の横浜アリーナ公演では豪雪に見舞われ、一時開催が危ぶまれる事態になり、「やっぱり嵐を呼ぶバンド」と言われたが、ライブは成功を収めた。そして7月21日発売の3rdシングル「ROSIER」がオリコン初登場3位にランクインし、ロングヒットを記録、一躍シーンのトップに躍り出る。その後、夏はLSB(w/SOFT BALLET、BUCK-TICK)イベントで各地をまわる。9月発売の4thシングルの「TRUE BLUE」ではオリコン初登場1位を記録し、4thアルバム「MOTHER」は1位こそ逃すものの、ロングセールスとなり約70万枚の売り上げを記録した。年末は日本武道館で締めくくった。


1995年
シングル「MOTHER」(アルバムMOTHERからのシングルカット)・「DESIRE」リリースのヒットと同時に、3月から「TOUR 1995 MOTHER OF LOVE.MOTHER OF HATE 」で全国を周る。そして12月23日、初の東京ドームライブ「LUNATIC TOKYO」を行い、チケットは瞬時にソールドアウト、6万人を動員し、バンドとして人気を不動の物にした。


1996年〜活動休止へ
7thシングル「END OF SORROW」がオリコン1位を記録し、約1ヶ月後には5thアルバム「STYLE」をリリース。アルバムでは初めてのオリコン1位を記録した。7月、横浜アリーナ2DAYSを皮切りに全国ツアーがスタート。10月からはアンコールツアーと題して約2ヶ月間のロングツアーを決行し、普段はあまり行かない地区を中心にライブを行う。そして12月に横浜スタジアムでの真冬の野外ライブを開催。ここで97年の1年間、バンド活動を休止する事を発表する。Jによれば、7月からの全国ツアーが始まる頃に、メンバーでの話し合いが持たれ、「次のビジョンへ行くためには、一人ひとりのメンバーが力を付けて、新しいルナシーを作らなければダメ」であり、1997年を「みんなの自主トレーニングの期間にあてよう」という結論に至ったという[5]。


1997年〜活動再開へ
この年、メンバーの5人はソロ活動をしていった。まずボーカルのRYUICHIは本名の河村隆一でソロ活動を開始。アルバム「Love」は約300万枚という男性ソロシンガーとしては最高位の売り上げを記録し、年末には紅白歌合戦にも出場するなど、わずか1年の間にソロシンガーとしての地位を不動のものにした。また俳優・タレントしてもテレビ・ドラマなどにも出演しお茶の間にも進出した。SUGIZO・INORAN・J・真矢もそれぞれに精力的な音源製作・ライブ活動で5人が5人独特の活動を展開して見せた。個々にシンガーデビューを果たし、ランクインさせた。その後12月17日、赤坂BLITZにて活動再開会見&復活ライブを行う。


1998年〜復活・再び東京ドームへ
この年はシングルの連続リリース「STORM」「SHINE」「I for You」で始まり、いずれも大ヒットを記録。夏には横浜スタジアムでのライブ2DAYSを行った。6thアルバム「SHINE」はミリオンヒットを記録し、そのアルバムを引っさげての全国ツアー「Tour'98 SHINING BRIGHTLY」を行い、年末には3年ぶりとなる東京ドームライブ2DAYSをツアーファイナルとして「SHINING BRIGHTLY FINAL END OF PERIOD in TOKYO DOME」を成功に収める。年末には紅白歌合戦への出場を果たした。


1999年
1月から初のアジアツアーを決行し台湾・香港・上海を周り、各地でライブ活動を展開。5月29日には初のライブアルバム「NEVER SOLD OUT」をリリース。翌日の5月30日にはバンド結成10周年を記念した野外ライブ「NEVER SOLD OUT CAPACITY∞」が開催されることになっていたが、開催3日前に暴風により数十億円をかけたセットが倒壊。真矢のドラムが巻き込まれる等の被害が出て開催が危ぶまれ「嵐を呼ぶバンド」の名が一時的に復活した。しかし、廃墟をセットにしてしまおう、というメンバーのアイデアで予定通り開催。東京ビッグサイトスペシャルオープンステージに10万人を集める[6]。この時メンバーでただ1人倒壊前日にステージを見ていたINORANは当時出演したTV番組でセット倒壊の報を聞いてメンバー全員で駆け付けた際のことを「倒壊する前の様子が点線になって見えるんですよ」と言っていた。12月23日、GLAYとの対バン、「The Millennium Eve」を東京ドームで決行し5万6千人を動員する。


2000年〜終幕
2000年1月1日0時0分、カウント・アップ・ライブをZepp Tokyoでスタートさせる。この年は「gravity」「TONIGHT」「LOVE SONG」の3枚シングルをリリース。ライブ活動も精力的にこなした。夏には7thアルバム「LUNACY」をリリース。しかし、2度目の海外ツアーを香港・台湾で行う直前の11月8日、「終幕」(事実上の解散)を発表。RYUICHIは「終幕」の理由について、「このメンバーでバンドをやっていたいちばんの理由は、5人でいれば誰よりも輝けると思ったからです。でも、同じ光を見てると目も慣れて、より強い光を求められなくなった」と語った[7]。そして12月23日にはベストアルバム「PERIOD」をリリースし、20世紀最後のオリコンチャート1位を獲得。12月26日・12月27日には、東京ドームで「LUNA SEA THE FINAL ACT TOKYO DOME」を決行。このライブのセットリストは、終幕発表以前に公式WEBサイト上で行われた曲投票が反映されている。このライブをもってLUNA SEAは12年にわたる活動を終幕させた。


終幕後の活動
1997年の活動休止中からソロアーティストとしてもキャリアをスタートさせていた5人は、終幕後も5人5様の活動を続けている。また、多くのアーティストは解散後ファンクラブも終了する場合が多いが、解散後もファンクラブSLAVEは存続している。

それぞれの活動(J・真矢・FAKE?・SUGIZO/SHAG)としてある雑誌のインタビューを受けた際に、LUNA SEA開幕について聞かれ、SUGIZO以外のメンバーはそれに肯定的なことを言っていたが、SUGIZOは「開幕してほしいっていう人はあのときの感覚を再体験したいだけなんだよ。」と発言し、断固として反対していた。しかし、市川哲史の著作『私が「ヴィジュアル系」だった頃』でのインタビューでは、LUNA SEAを「偉大なる失敗バンド」と位置づけながらも「失敗の要因を全部クリアできて、もう一度5人が人間的に繋がり合えるのであればリ・スタートとしてありかも。」と、再結成を完全否定しているわけではないことが伺える発言もしている。


一夜限りの開幕
2003年10月に渋谷ラ・ママで行われた先輩バンドAIONの20周年記念3Daysライブに真矢以外のメンバーが参加。RYUICHI・INORANが終幕後に初めて同じステージに立つ。(後にTourbillonとして本格活動を開始)

2007年7月末にオフィシャルサイトの特設ページに月と海のFLASHが出現し、その意味について告知無いまま1ヶ月後の皆既月食の日を目指してカウントダウンが始まった。8月28日午前3時、カウントダウンが終わると12月24日(月・祝)に東京ドームで一夜限りの復活ライブが開催される事が明らかになった。タイトルは「GOD BLESS YOU 〜One Night Dejavu〜」。2007年はメジャーデビュー15周年、各ソロ活動10周年という節目にあたり、これが一夜限りの復活の大きな要因となった。

2007年12月19日にはLUNA SEAの再結成を記念して企画メモリアル・カバー・アルバム『LUNA SEA MEMORIAL COVER ALBUM -Re:birth-』がAvexから発売された。多くの人にトリビュート・アルバムだと勘違いされているが、トリビュートではない。これにはLUNA SEAに影響を受けたムックやメリー、メンバーと交流のある西川貴教が率いるabingdon boys schoolやTRFのDJ KOOなどの主にAvexのアーティストが参加している。

10月28日に発売されたチケット5万枚は僅か5分足らずで完売した。ライブの模様とドキュメント映像を収録したDVD「LUNA SEA GOD BLESS YOU〜One Night Dejavu〜 2007.12.24 TOKYO DOME」が2008年3月26日にリリースされた。

なお、ドームライブの後、本格的に「再結成」があるのかないのかについては、Jは「そもそもそのことを口に出しただけで全てが壊れそうなバランスにある」ため、メンバー誰もが口にせず、ただドームのライブに集中している状況だと、雑誌のインタビューで語っていた。 今後については各ソロ活動以外全く発表されていないが、復活ライブの最後にRYUICHIが発した『いつかどこかの空の下でまた会おう』といった意味深な発言[8]やNHK総合のドキュメンタリーでSUGIZOが『強引に葬るのは罪だと思います』と発言しており本格的な再結成を否定していない。

2008年5月4日に東京・味の素スタジアムで行われたX JAPANのHIDE追悼ライブ(hide memorial summit)の二日目に出演し、「Precious」や「Up To You」を演奏した。またX JAPANメンバーと「BELIEVE」を演奏した(真矢がギターでYOSHIKIがドラム)。

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