ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

野田正彰コミュの ◆高知新聞◆野田正彰の高知が若かったころ 2

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
平成18年7月6日(木)分 (毎月1回掲載)

★見出し★
高知の民衆運動の第二のうねり

勤評と石川先生


 升形、中島町、鷹匠町の通りの風情は変わったけれど、第六小学校だけは変わっていない。
日本の小学校のなかで、稀有なことであろう。
東正門から玄関まで続くカイヅカイブキ(柏槙)の並木、その爽やかな芳香も含めて、変わっていない。
築70年を経た校舎、板張りの廊下、当時から水洗だったトイレ、幅広い階段、先生に禁止されても滑り降りた階段の手すり、腰板の美しい教室、ガリ版刷りを手伝いにいった教員室・・・、すべて昔のままだ。

 この鉄筋3階建ての校舎は、1945年7月4日未明の高知空襲に耐え、焼失した高知市役所の代用としてしばらく使われた。
47年5月、第四小学校に移されていた生徒、教職員が戻り、元の小学校に復帰した時、廊下の板はささくれ立っていたという。
だが私たちが入学したころは、生徒と教員の努力によって板の床は磨かれ艶やかだった。
子どもたちは廊下に座ってオハジキをし、馬乗り遊びをし、そして床磨きの掃除をした。

 私たちが入学した第六小学校も、戦争で多くの男たちが死んだため、女の先生の比率が高くなっていたのか、担任の先生は皆、女性だった。
福留峯香、石川愛子、片岡三千子の三先生とも女性だった。
二人の先生はすでに亡くなったが、3年生、4年生のとき担当だった石川愛子先生は矍鑠としておられる。

 私は1学年、2学年ともに微熱のために長期欠席した。
そのためか、授業に集中する良い生徒になれなかった。
教科書は先に読んでおり、書いてあることを教える先生に我慢ならなかった。
学年があがり雑誌「子供の科学」や中学生用の歴史や物語を読むようになって、この傾向はひどくなった。
だが、愛子先生は授業を聴かない少年を容認してくれた。
幼友達に尋ねると、先生はよく教科書の全文写しをされたそうだが、全く記憶にない。
きっと無視して、別のことをしていたのであろう。

 当時、愛子先生は20代の初め。
声に張りのある、気性のさっぱりした先生だった。
子どもたちとの対応に教師と個人の使い分けがなく、先生の人格全体をもって付きあってくれていることが、よく伝わってきた。
精神科医になっての回想であるが、私は先生から感情を伝えることの大切さ、感情交流の喜びを教えられたのではないかと思う。
先生は感情豊かであり、しかも安定していた。

 石川先生は高知県教職員組合の結成(1947年)に加わり、婦人部の仕事をしておられた。
先生が書かれた「手をとりあって」と題する冊子を読むと、私たちの担任だった時、高知で開催された日教組の第二回教育研究集会の準備をされ、講師として来高された丸岡秀子、羽仁説子、屋良朝苗の話に感動され、丸木夫妻の「原爆の図」の展覧会を開いている。
しかし小学生にはまだ理解できないと思われていたのか、先生の仕事に触れる話はなかった。

 5年生になり担任が変わり、石川先生と話す機会は少なくなった。
我が家の前を通りかかった時、「いつも本を読んでいるのね」と言われたことぐらいしか,憶えていない。
翌年、新堀小に移られ、私が中学に入った年には高知県教祖の専従となり、法制厚生部長として働いている。

 56年、地域社会に大きな影響をもつ教職員組合の解体を狙い、政府保守派は教職員管理のため勤務評定を導入した。
高知県教祖と学生、市民は、教師を国家の思想注入者に戻す反動政策に対し激しい反対運動を起こした。
それは自由民権運動に続く、高知県の民衆運動の第二のうねりだった。

 58年12月15日夜、来高した小林武教祖委員長らを旧仁淀村森の住民約80人が電源を切って闇討ちにし、9人に重軽傷を負わせた。
この事件を相殺するかのように、翌16日、県警は中内力教育長監禁の容疑で教祖幹部14人の逮捕・指名手配の挙に出た。
石川先生もこの時、逮捕されている。
高知人の気性が燃えていた季節であった。

 多くの人の抗議によってすぐ釈放されたものの、石川先生は起訴され免職となった。
その後、共産党公認の高知市会議員を二期8年務め、婦人の権利擁護に貢献された。

 貧しいけれど心あたたかく実直な両親の三女として育ち、先生を志して高知女子師範学校を卒業。
ひたむきな彼女は戦争国家日本の小学校教師として働き、敗戦後、教祖の活動を通じて視野を広げていった。
一貫して変わらなかったのは、感情の豊かさと他者を信頼する力である。
それは今日の教育行政がほとんど評価しない、初等教育の教師に求められる本来の能力である。
私は石川愛子先生から多くの知識を学習したとはいえないが、その後の先生の生き方そのものが、遠くから先生を思う私たちの人生の教師であり続けた。

 石川先生は今春、高知市長浜の高齢者ケアハウスに妹さんと移られた。
「こんな大変な時代、もう一度先生はできませんね」と苦笑しながら、浦戸の内海を眺めておられることだろう。


(精神科医、評論家=高知市出身)


★挿入写真レビュー★

高知市議選でトップで初当選し、笑顔を見せる元教員の石川愛子さん(1971年4月)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

野田正彰 更新情報

野田正彰のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング