ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

野田正彰コミュの◆高知新聞◆野田正彰の高知が若かったころ 3

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
平成18年7月29日(土)分 (毎月1回掲載)

★見出し★
槙村浩、母校
誇るものではなく、偲ぶもの

 大学二年(1964年)のとき、北大生協の書店で槙村浩『間島パルチザンの歌』(新日本出版社)という新書判の詩集を手にした。

 「思い出はおれを故郷へ運ぶ  白頭の嶺を越え 落葉松の林を越え 蘆の根の黒く凍る沼のかなた  赭ちゃけた地肌に黝ずんだ小舎の続くところ  高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ・・・」

 長白山の抗日ゲリラの戦いを伝える詩、1932年3月とある。
満州事変の半年後、軍国主義になだれ込む日本で、朝鮮の人びとになりかわって抵抗を謳った詩人がいた。
高知県の人である。
この詩の発表の翌月逮捕され、拷問により衰弱、3年後に出獄したが、健康は回復せず、1938年、土佐脳病院で死亡している。
26歳だった。
高倉テルだけでなく、高知県にはすごい抵抗者がいたんだと思って、この詩集を読んだ。

 それから40年近くたって、「平和資料館・草の家」を創設した西森茂夫さんより、槙村浩が第六小学校に通っていたことを教えられた。
槙村浩、本名は吉田豊道、小学4年生終了で2学年とびこえて土佐中学校に入学している。
西森さんは、私が『間島パルチザンの歌』を読んだ前年に同じ北大生協の書店で、雑誌に載ったこの詩を目にしている。
彼は植木枝盛と槙村浩への関心から、札幌の高校教師を辞め、母校土佐高の教師として高知へ帰ってきた、と後日語っていた。
吉田も、西森さんも、私も同じ小学校、同じ中学校に通っている。

 1981年に出版された『高知市第六小70年の歩み』―卒業生と先生たちが思い出を綴った400ページ近い本―を開くと、同級生たちが天才少年・吉田について繰り返し書いている。
「論語」を通読し、多くの詩や童話を書き、ワシントン会議や中国の将来を論じ、神童として新聞に紹介されたという。
冒頭の『間島パルチザンの歌』は、その吉田が19歳でプロレタリア作家同盟高知支部に加わって発表したものである。

 私は99年初夏、北朝鮮から脱出してくる飢餓民を探して長白山の山奥を潜行した。
汚れた服をつけ、延辺(かつての間島)に住む朝鮮人おばさんに寄り添うその息子を装い、小川の流れに足跡を消しながら、北朝鮮難民がかくまわれる森へ分け入っていった。
図們江の草叢に身を隠し、対岸の北朝鮮・咸鏡の村を眺めたこともあった。そんな時、およそ朝鮮北部や間島地方を知らない槙村浩が想像した、その詩の描写の正確さに驚いたものだった。

 2003年、西森さんは「草の家」より『槙村浩詩集』を出版した。10年ほど前の1984年に高知県解放運動旧友会の人びとが現存する槙村のすべての著作を集め『槙村浩集』を出版している。
土佐中学校で槙村の1年後輩だった井上清教授も編集に加わっている。私は京大人文科学研究所で共同研究をしていたころ、日本近現代史の優れた研究を続けた井上清教授のお宅を訪ね話をうかがったりしているが、土佐中出身であることも知らなかった。
こうしてたどっていくと、私と同じ中島町に育った槙村浩と、井上清、西森茂夫が細い時の糸によってむすばれていたことに気付く。

 借りてきた『第六小70年の歩み』のページを繰っていると、多くの有為の人びとが育っていったことをあらためて知る。
しかし、そんなことはどうでもいい。
いかなる組織の歴史にも、人間性を豊かにした人と貧しく強張らせた人がいる。
故郷も母校も誇るものではなく、偲ぶものである。

 この本には1919年に卒業した地主愛という方が、「私の第六小学校」と題する文章を載せている。
彼女が1年生だった年、宿題を忘れてきた貧しい少女に先生がハクボクを投げつけ、少女は泣きだし、泣きやまぬ少女をさらに先生が打とうとした。
その時、彼女は叫んだという。

 「先生、やめて。梅子ちゃんを打つなら、愛ちゃんを打って頂戴。先生は子供が好きでないの。どうして、そんなら先生になったの。子供がかわいそうよ」

 A先生は、翌日から二度と生徒を泣かすことはなかった、と書いている。
私はこんなに熱い感情が流れていた小学校に通ったことを、自分の体験と重ねてなつかしく想う。

 すでに半世紀たってな、母校の小学校が存在している。
建物が在るだけでなく、心象の母校が現在と重なるのは、不思議なほどだ。
今の大学生に尋ねると、私学と違い公立学校へ通った若者は、母校のイメージが希薄である。
小学校、中学校どころか、3,4年前に通った高等学校にさえ、母校を感じられないと言う若者もいる。
母校とは、卒業後数年たって訪ねたとき、すべての先生は在職していないとしても、何人かの先生に会うことができ、懐かしい人を通じて建物が息づき始めるところである。
だが、近年の教育行政は教師の管理のために短い年数で教師を転勤させ、若者たちから母校を奪っている。
それは市民すべての故郷のイメージを傷つけることであり、精神を貧しくさせることでもある。

(精神科医、評論家=高知市出身)


★挿入写真レビュー★

左下から時計回りに西森茂夫、幼少期の槙村浩、井上清。校舎は下が第六小、上が土佐中(コラージュ)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

野田正彰 更新情報

野田正彰のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。