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科学哲学コミュの懐疑論の解消

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「その現象を説明する過程があるはずだ、という幻想から生まれる謎は、実はそのような間に入る過程は存在しないという事実によって霧散する」




大学院中退後、長いこと懐疑論はわたしの思考をとらえて離さない時期があった。

必ず反駁できるはずだというのが、初期のわたしの態度であった。

そして、「生活の中で懐疑論は成立しえないということが知られる」カントの実践理性との対比を考えつつ、当初このように考えていた。



次に、懐疑論を徹底した場合、懐疑論そのものを構築する、話すことすらできないのでは?というアイデアがひらめいた。というのは、たとえば、次の瞬間もキーボードがそこにあるという確信なしに懐疑論を仕上げることは
できないから。


ただ、この回答は、懐疑論の構成を工夫し、キーボードだけ保存され、太陽は西から登るという種類の仮説を懐疑的に提出することによって破られると思った。





長い試作の果てに、斉一性の原理は証明できない仮定である、という物理学のウィキにも書いてある事実を受け入れざるを得ないのではないか、とおもうようになった。



なぜ仮定であって証明を与えられない斉一性の原理が成立するのか、また、証明を与えられないのに、なぜか成立しつづける事実があるということはわたしには非常に不可解におもえたが、世界はそうなっているのだなあという
ように受け取った。



同時に別の哲学的試作も様々に行っていた。(その詳細についてここで書くことはしない)

一つ考えていたのは、宇宙の法則や初期条件というのはなにが決定するのだろう?という問いだった。




いろいろ考えたが、これについて、現在の物理学および哲学その他の理論が回答を与えることはほとんど不可能であるようにおもえた。(仮想的仮説ならば、考えうる。たとえば超知性が法則をつくったとか、宇宙がランダムにあるいは規則的に
法則の異なる宇宙をたくさん生み出すというような。)しかしそのような仮説を証明する根拠はほとんど不在であろう。


すくなくとも、現在のところ、この問いにはほとんどなにもできないようにおもわれた。



そうして、わたしは宇宙には、最低一つは、どうしても答えられずに残る問題、謎が絶対あるのではないかとおもった。


というのは、たとえば、全宇宙の全存在について、なぜそれがそうあるかの説明・理論が与えられたとしよう。その場合に、その存在と理論の全体がなぜそうあるか、という問題が再び持ち上がる。そして仮に答える理論があるとすると


ふたたび、その理論がなぜなりたつかという問いがもちあがるはずである。これが無限遡行し、宇宙の謎がすべて解けるということはありえないのでは?とおもわれた。



ある日わたしは、自我について考えていた。そして、自我とはなんだろう?ということを考えていた。おもに、物的に存在することと、クオリアとして心に現れること、および人間がこころで対象を知覚することとAIが対象を情報処理すること
の差異はなんであるか、という観点から。


そして、自我について、わたしはそれがなんであるか知っているが、それがどのように存在するかについてはなにも言明できない。自我に付随する思考や感情がどのようであるかということについてはいろいろいえるが、自我そのものがなにであるか
についてはなにもいえないが知っているというふうに直観した。


この直観はわたしに次のような洞察をもたらした。

「それがどのようであり、なぜ成り立つかについて説明することが不可能なところで、わたしはそれを知ることがある」

で、この洞察を懐疑論に適用できるのではないかとおもった。

つまり、斉一性の原理は、「明日太陽が東から登ることについて、わたしは証明を与えることはできないが知っている」

斉一性の原理が成り立つことについて、証明を与えることはできないが知っている。



クワスのパラドクスについては、

1+1=2であることについて、わたしはそれがなりたつ過程を述べて、だから正しいということはできないが、1+1=2であることを知っている。


クワス論者はそれにたいして、1+1=3である、というように主張する。しかし、わたしにはクワス論者は1+1=3という言語的変形が可能なことと、1+1=2という数学的事実があり、変えることができないことを混同しているとおもわれた。


同様に懐疑論は一般的に、端的な知が成立しているしているところで、言語的変形可能性から、現実の懐疑的仮説の可能性があるかのように泥仕合をふっかけ、端的に成立する知識を混乱させるものだ、というように説明できるとおもった。



外界問題は、ペットボトルから触覚および視覚が脳に情報を伝達し、そこから心にペットボトルのクオリアが生じるので、直接ペットボトルを持っているといえるか実はわからないというタイプの懐疑論である。

これにたいして、たしかに触覚と視覚から脳を通じて情報処理が行われ、心にクオリアが生じるのはたしかだが、同時にそのときに、「わたしはペットボトルを握り、見ている」という知識が端的に成立する、これが外界問題への答えだとおもう。


なぜ、この単純な回答にいままでいたらなかったかというと、なんらかの知識や事実の成立について、それが謎におもわれるとき、それを説明する間に入る過程があるはずだ、という予断、これが事態を混乱させていたようにおもわれる。

そして、この世界には、途中に入る過程なしに、端的に成立する事実や知識というものがある、という観点に変更することによって懐疑論は収束するとおもわれる。


たとえば廣松渉のいった、「投射の問題」=「なぜ、脳と離れた視野のとおくに、ものがみえるのか」は、通常の物体と物体の通信においてケーブル等が存在することから、そのような答えを期待するし、自分もそのラインで考えていたことがあったのだが、

実は、端的に「脳で生じた過程がクオリアとして心に現れる」という事実が成立するというふうに考えてもよいのではないか?そうするとこの謎は解決する。

コメント(2)

>外界問題は、ペットボトルから触覚および視覚が脳に情報を伝達し、そこから心にペットボトルのクオリアが生じるので、直接ペットボトルを持っているといえるか実はわからないというタイプの懐疑論である。

つまり、センスデータがクォリアの原因であると言っていますが、これって本当かという気がします。現象学的還元を思い出してください。実存的視点に立てば、クォリアの方が先にあって科学的なスキームというのは推論によって成立していることになりませんか?

私は自分の両手をじっと見てみる。こんなにありありとはっきり見える自分の手が実はまぼろしかもしれないと懐疑論者は言う。
しかし、これはおかしな話ではないでしょうか、この自分の手が自分にだけ見えて他人からは見えないのならそれはまぼろしと言うしかないが、試しに妻に「私のこの手が見えるかね?」と訊ねたら、「見えるに決まっているじゃない、あなた頭は大丈夫?」と返ってくる。つまり、私の手は実在する。日常言語の「ある」という言葉の意味はこのようであったはずだ。しかし、デカルトは執拗だ。「『君の手がある』と言ってくれる君の妻も、実は君が作り出した幻影かもしれないし、もしかしたら君が夢を見ているのかもしれないではないか」というのである。そこまで言われれば、この私の両手を保障してくれるものは何もないことに気づく。
私の両手はこんなにもありありとしていて、しっかりとした感触もある。開こうと思えば開けるし、握ろうと思えば握れる。こういう状態を、通常「私の両手は『ある』」と言っていたはずだ。しかし哲学者に言わせると、もしかしたらこの両手はないかもしれないという。なんかおかしい。哲学者の言うところの「ある」と「ない」はどう違うのでしょう?

これに対して「ムーアの外界の証明」が一つの示唆を与えているように思う。
****************<<<<<ムーアの外界の証明>>>>>************************
最初に片手を前に示しながら、「ここに手が一つある。」と言う。そして次にもう一方の手を差し出して、「ここにもう一つ手がある。つまり、私は少なくとも外界に二つ以上のものが存在することを知っている。」
****************<<<<ムーアの外界の証明終わり>>>>************************

やけに簡単な証明です。この証明がイギリスを代表する哲学者であるムーアによるものでなければ、だれも見向きもしなかったかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば、ムーアの言葉の使用法はなにも間違っていない、少なくとも公共言語の「ある」という言葉はそういう意味だったはずです。

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