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田村隆一コミュの田村隆一さんのこと

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 若い頃から昼食時にビールやワインを飲むことが習慣になっている。別に昼から飲んでも誰からも叱られない生活を送っている。ぼくが昼から酒を飲むようになったのは、20代の頃から詩人の田村隆一さんの酒の飲み方を目の当たりにしてきたからだ。田村さんは昼どころか、朝から飲んでいた。ぼくが初めて田村さんにお目にかかったのは、32年前のこと。当時、田村さんは鎌倉の稲村ヶ崎に住んでいた。ぼくは勤めていた出版社の仕事でたびたび田村邸に出入りしていた。田村さんの詩は高校時代から心酔し、また大学の先輩でもあったので、憧れの人だった。
 2階に田村さんの部屋があって、いつも田村さんはパジャマ姿だったような気がする。田村さんは大体、朝からビールやウイスキーを飲んでいた。もちろん、昼も夜も飲むので、最後は泥酔、乱酔になる。田村さんは一日中、酔っ払っていた。
 田村隆一さんの生き方は危険である。端から見ると遊んでいるようにしか見えない。田村邸は2階の一部を貸していたが、店子だった友達のカメラマン夫婦が田村さんのように生きられると勘違いして遊んでいたら、経済的に破綻してしまったことがあった。
 非常に酒が強く、ウイスキーのボトル1本は軽く飲んだ。ただアルコール依存症ではあったが、アル中ではなかった。健康には気を遣っていて、ときどき「肝臓を休める」といって、半年ぐらいアルコールを抜くこともあった。肝臓のあたりを始終触っていた。たしかに酒は好きなのだろうが、本当の酒好きだったのか、いまも疑問である。ぼくはいまだに稲村ヶ崎の田村邸の電話番号が頭にこびりついている。「31-5731、再婚なさい、と覚えるんだよ」と先輩編集者から聞いた。田村さんにピッタリでウソのような話だが、本当である。田村さんは女性関係が派手で、結婚5回、同棲を含めると9回も女性と暮らしていた。
 田村さんは鼻も高く、日本人離れした顔つきだった。アメリカに留学していたときに向こうの人から「鼻が高いね」といわれたそうである。6尺豊かな大男で、手足も長かった。ぼくのことを人に紹介するときには「鎌倉で一番貧乏な秋山君です」と笑いながら、紹介してくれた。当時、ぼくは出版社の安月給で、親子三人で月に11万円の収入で暮らしていた。その頃だった、田村さんが骨折をして鎌倉の佐藤病院に入院したことがあった。田村さんはよく佐藤病院に入院をしていて、口さがない連中からは保険金詐欺じゃないかという声もあったぐらいだ。ぼくが大福か何か持って見舞いに行くと、「貧乏な秋山君が見舞いをくれた」とご満悦だった。 
 生活はかつかつだったが、その割によく飲み歩いていた。おごりが多かったと思うが、手銭でも飲んでいたので、一体、どこから飲み代を捻出していたのか、いまとなっては不思議である。鎌倉の東急ストアの地下に田村さんの行きつけの「扶実(ふみ)」というバーがあって、ぼくもたびたび出かけていた。田村さんのエッセイに「キツネ博士」として頻出する高橋洸さんという明治大学の教授も常連だった。鎌倉の文化人のたまり場のような飲み屋で、澁澤龍彦の妹夫婦もよく来ていた。あれはいつだったか、ぼくが生意気にも「扶実」で田村さんの詩を批判したことがあった。当時、田村さんは身辺雑記のような詩ばかりを書いていて (身辺雑記が悪いというわけではないが)、往年の田村さんの光り輝くような一行が見当たらなくて、それが若いぼくには不満だった。その翌日に田村さんと会う機会があって、「君はぼくの悪口をいったそうじゃないか」といわれて、恐縮したことを覚えている。といっても何か詰問する感じではなく、いつもの田村さんらしく冗談めかしていったのだけど、それにしても若いというのは怖いもの知らずである。
 田村さんとは冗談ばかりいい合っていたが、たまにはまじめな話もした。といっても田村さんがおどけて話をするので、あまりきまじめな雰囲気にはならないのだけど。ぼくは20代の頃、シルクロードを放浪したことがあった。中国のシルクロードのどん詰まりにタシュクルガンという街があって、そこに長逗留した。パミール高原に位置し、古くから交通の要衝で、三蔵法師も通ったところである。パキスタンとの国境にも近く、通常は通り過ぎるだけの街だが、ぼくはすっかりここが気に入ってしまい、二週間ほど滞在した。タジク族という少数民族がいて、ぼくは少年と仲良くなり、毎日、その子の家に夕飯に呼ばれていた。会話はタジク語である。皆目わからないし、英語も中国語も通じない。しかし、何とかコミュニケーションができて、笑い合ったりもしていたのだ。ぼくはそんな話を田村さんにしながら、「結局、言葉なんて通じなくてもいいんですよ」と暴論を吐いた。田村さんはこの話をひどくおもしろがり、「そうだ、そうだ、言葉なんてなくたっていいんだ」といった。

 ぼくには当然、田村さんのこの一篇の詩が念頭にあった。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつはぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんしのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
                     (「帰途」)
 

あるいは「言葉のない世界」という詩がある。

言葉のない世界は真昼の球体だ
おれは垂直的人間

言葉のない世界は正午の詩の世界だ
おれは水平的人間にとどまることはできない

 これは長編詩なので、全編の引用はしない。田村さんは言葉にこだわり、言葉のない世界を夢想した。ぼくが知り合った頃の田村さんはすでに詩人としても売れっ子で、かなり稼いでおり、メディアにも頻出し、おしゃれなイメージがあった。和子さんの自伝的エッセイ『幸福のかたち』によれば、40代までの田村さんは赤貧洗うがごとしで、身なりは乞食のように粗末で、常に金欠で、凄まじい乱酔だった。田村さんが生前、上梓した単行詩集は、23冊、エッセイ・対談集は42冊。しかし、50歳までに刊行されたのは、詩集4冊とエッセイ集1冊だけなのである。田村さんが売れるようになったのは50歳を過ぎてからで、ファッションの広告などにも出演した。メディアによく登場するようになって、おしゃれでダンディで洒脱な田村さんというイメージが定着されていったような気がする。売れるまでの田村さんは天啓を受けて詩を書いていたのだろうが、売れっ子になって次々と詩の注文が舞い込むにつれ、身辺雑記のような詩になっていったと思う。ある程度量産するためにはそうならざるを得なかったのかも知れない。無論、そうした身辺雑記的な詩でも田村さんならではの含蓄と味わいを醸し出していたのは、プロの詩人としての自負と技量があったからだろう。

 4番目の奥さんだった和子さんは一方では詩人の北村太郎さんと恋愛関係にあった。ぼくは田村さん、和子さん、北村さんとそれぞれに親しくしていて、そういう人間は当時でもめずらしかった。田村さんと北村さんは府立第三商業で同窓だった。二人とも10代の頃から中桐雅夫編集の詩誌「ル・バル」に参加、戦後は文学史上に名高い『荒地』の同人となった。北村さんの最初の奥さんも和子さんといった。北村さんは19歳で結婚をし、男の子が生まれた。その子が8歳のときに川崎の海に潮干狩りに行き、深間にはまって母子共々亡くなった。北村さんは当時、朝日新聞の校閲部にいて、そのニュースを上司から聞かされた。横浜子安の火葬場で妻子が荼毘に付される様子を詠んだ「終わりのない始まり」という哀切極まりない詩がある。北村さんはその後再婚し、二人の子供が生まれた。40歳を過ぎて処女詩集を出し、朝日新聞では校閲部長まで昇進。定年まであと残り少しというときに、田村和子さんと恋愛関係に陥り、25年間勤め上げた朝日新聞を辞めた。巨額の退職金も放棄した。
 北村さんは朝日時代はほとんど詩を書かなかったが、辞めてから豊潤な詩集を産み出した。北村さんと奥さん、田村さん、和子さんの4人で稲村ヶ崎の田村邸で壮絶な修羅場を繰り広げたこともあった。田村さんはその後も和子さんに北村さんとの関係をねちねちと責め立てた。和子さんはそれに耐えきれず、稲村ヶ崎の家を出て、北村さんと駆け落ち同然で一緒に暮らすようになった。和子さん48歳、北村さん56歳の年だった。田村さんは若い女性編集者と暮らしはじめた。北村さんは英語のミステリーなどを翻訳していたが、生活は貧窮を極めた。二人の暮らしは1年も続かなかったであろう。田村さんから哀願されて、和子さんは出戻った。しかし、和子さんと北村さんとの関係は続いていて、やがて北村さんは逗子や鎌倉に越してきて、田村邸で3人で奇妙な会食をするようになる。田村さんの北村さんに対する嫉妬は凄まじく、会食の席で北村さんをいたぶり続けた。北村さんは憤然と席を立ったが、また、しばらくすると田村邸で食事をするのだから、この3人の関係は本当に不思議である。生前、北村さんに和子さんの一体どこに惹かれたのか訊こうとしたことがあったが、なぜかその質問がためらわれて結局訊けなかった。いまでももう少し勇気を出して訊いておけばよかったと後悔している。田村さんは和子さんを責め続け、次第に彼女は精神を病んでいくようになる。ぼくが初めて田村邸に伺ったのはそんなときだった。
 田村さんはやがて5番目の夫人となる女性と付き合うようになって、鎌倉の二階堂にあるその女性のお宅と稲村ヶ崎と半々で過ごすようになっていった。和子さんはそのことで悩み疲れ果てていた。あれは昭和の終わり頃だったと思うが、和子さんがいよいよ行き詰まって横須賀線で飛び込み自殺を試みようとしたことがあった。飛び込む直前に助けてほしかったのであろう、北村さんに電話をかけた。北村さんは驚いて国鉄を止めさせた。北村さんはその晩は稲村ヶ崎の田村邸に泊まって和子さんを介護した。ぼくは和子さんを再び精神病院に連れて行ったりしていた。
 ちょうどその頃のこと、神保町の書泉グランデの真裏に「ラドリオ」という学生時代から出入りしていた喫茶店があった。夜は酒場になるので、ぼくは編集者と飲みに出かけたりしていた。カウンターで田村隆一さんが飲んでいた。女性相手にケッ、ケッと(生島治郎さん曰く「怪鳥のような笑い」)笑いながら、田村さんは愉快そうに冗談を飛ばしていた。田村さんはいつも酔うと、まじめな話は一切せずに冗談ばかりいっていた。しばらく飲むと、ぼくには気付かずに田村さんは店をあとにした。ぼくは追いかけていって「田村さん」と呼び止めた。田村さんはひどく驚き「秋山君」といった。急に真顔になって「この度は妻がご迷惑をおかけして申し訳なかった」といった。これほどまじめな田村さんは初めて見た。「それでは」といいながら、田村さんは歩き出した。そのうしろ姿がたまらなく寂しげだったことを思い出す。田村さんの姿はやがて神保町の夜の闇に消えていった。
 
 この続きは本になってから。

コメント(4)

>アッキ―さんへ
横浜山手大芝台にあった南京墓地うらの北村さんが暮らしておられたところに北村さんを偲びに行っていました。本になるのをお待ちしています。
ラカイユ伊作さん、そうでしたか。北村さんを思い出してくださってありがとうございます。本になったら、ご報告します。
あ、これは、読みます。いつごろ、出版ですか?
来年です。出版が決まったら、お知らせしますね。

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