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木下長宏≪土曜日の午後のABC≫コミュのO:岡倉覚三

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更新遅くなりましてすみません。
2/11は岡倉覚三です。辞書には号である「天心」で出ています。
以下、事前学習です。

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引用先 『小学館 スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書+国語大辞典』
(C) 1998-2003 SHOGAKUKAN All rights

岡倉天心
おかくらてんしん
(1862―1913)明治・大正の美術運動の指導者。文久(ぶんきゅう)2年12月横浜の生まれ。幼名角蔵、のち覚三と称した。天心は号。幼時より漢籍を学ぶかたわらヘボン塾で英語を学び、父勘右衛門(かんえもん)が東京へ移るに従って東京開成学校に入学、ついで1877年(明治10)新設の東京大学に進み、政治学、理財学ならびにお雇(やと)いアメリカ人教師フェノロサについて哲学を学び、80年大学を卒業、文部省出仕となる。この間フェノロサの日本美術研究に協力し、京阪地方に出張して古美術調査を行う。84年にはフェノロサ、河瀬秀治(しゅうじ)らと鑑画会をおこし、古美術の研究と新しい日本画の樹立を目ざした。86年文部省の美術取調委員としてフェノロサとアメリカ経由でヨーロッパを巡り翌年帰国、東京美術学校幹事を命じられ同校の創設に努め、開校後の90年校長に就任した。
 この間に第3回内国勧業博覧会審査官、臨時全国宝物取調掛、帝室博物館理事兼美術部長となり、また同時に美術専門誌『国華』を創刊、多くの論評を発表した。1881年に日本青年絵画協会を設立して会頭となり、同会が日本絵画協会へ発展後も主宰した。帝室技芸員選択委員や古社寺保存会委員にも任ぜられたが、98年校長排斥運動による美術学校騒動で校長を辞職、博物館からも身を引いて野に下り、橋本雅邦(がほう)、横山大観、菱田(ひしだ)春草、下村観山らと日本美術院を創設、新しい日本画を目ざして美術運動をおこし、その指導にあたったが、それらの作品は朦朧(もうろう)派という悪評を受けて一時展覧会を閉じた。1904年(明治37)大観、春草を伴い渡米し、ボストン美術館の仕事にあたり、05年同館の東洋部長となり、06年ニューヨークで『茶の本』を出版、その年の末に日本美術院を茨城県五浦(いづら)へ移し、大観、春草、観山らと住む。07年文部省美術審査委員会委員となり、08年国画玉成会を結成、10年東京帝国大学で「泰東巧芸史」を講義した。翌年欧米旅行を行い、ハーバード大学からマスター・オブ・アーツの学位を受けた。続いて12年インド、ヨーロッパを経て渡米し、13年(大正2)病を得て帰国、療養に努めたが、同年9月2日新潟県赤倉山荘で没した。英文著書『東洋の理想』(1903)、『日本の覚醒(かくせい)』(1904)、『茶の本』(1906)などは外国人はもちろん、翻訳されて広く日本人にも影響を与え、『天心全集』も各種刊行された。→茶の本〈永井信一〉
【本】『岡倉天心全集』8巻・別巻1(1979〜81・平凡社) ▽梅原猛編『近代日本思想大系7 岡倉天心集』(1976・筑摩書房) ▽斉藤隆三著『岡倉天心』(1960・吉川弘文館) ▽大岡信著『岡倉天心』(1975・朝日新聞社) ▽岡倉一雄著『父・岡倉天心』(1971・中央公論社)


引用先『世界大百科事典』
 (C)1998 Hitachi Digital Heibonsha,All rights

岡倉天心
(おかくらてんしん)
1862‐1913(文久2‐大正2)
⇒関連項目
明治期の美術指導者。越前福井藩を背景に横浜で貿易を営む石川屋勘右衛門の次男に生まれた。幼名角蔵のち覚三。幼時から英語を学び,漢籍にも親しんだ。東京外国語学校,東京開成学校をへて1877年東京大学文学部に入学,政治学,理財学などを学ぶが,そこでアメリカ人教師フェノロサに接し,その日本美術研究を手伝ったことが生涯を方向づけた。80年に文部省に出仕して音楽取調掛を命じられたが,まもなく図画教育調査会委員に挙げられ,古社寺宝物調査にもたずさわって,美術行政面に頭角をあらわしはじめた。またフェノロサが主宰する鑑画会に加わって新しい日本絵画の創造を唱導し,美術運動の指導者としての地歩も築いた。86年,東京美術学校設立を準備する図画取調掛の主幹を命じられ,フェノロサらと欧米を視察した。翌年帰国して東京美術学校幹事に就任。同校は89年,上野に開校し,天心は翌年校長になった。横山大観,下村観山,菱田春草,木村武山らが膝下で育っている。そのほか88年に臨時全国宝物取調局委員,89年には帝国博物館理事兼美術部長,そして高橋健三と諮って雑誌《国華》を創刊するなど,華々しい前半生の活動期を迎えた。新しい日本画の創造にあたって,極端な保守主義や欧化主義を排し,東洋の伝統をふまえて進取発展する道をとるというのが,天心の立場であった。こうしてその運動は順調に展開するかにみえたが,98年にいたって美術学校に校長天心を排斥する騒動が起こり,頓挫をきたすことになった。天才的で豪傑肌の天心の独断専行が一部の者の反感を買ったのである。職を退いた天心はその年秋,橋本雅邦をはじめ自分に従って学校を辞した教員らと谷中に日本美術院を創設,従来の運動をさらに活発に進めることにした。実際,開院と時を同じくし,日本絵画協会と連合で開いた共進会はすこぶる盛況であった。しかし好調は続かず,1901年ころには沈滞に陥り,天心も熱意を失った。以後の彼は美術運動の指導者というよりは思索の人と呼ぶのがふさわしく,また国外に出ることが多くなる。すでに1893年に中国に出張しているが,1901年暮にインドに渡り翌年秋まで滞在した。この間にビベーカーナンダと親交を結び,英文で《東洋の目覚め》を執筆した。これは生前出版されずに終わったが,《東洋の理想》が03年ロンドンで刊行されている。04年,大観,春草,六角紫水を伴って渡米,ボストン美術館東洋部の顧問になった。この年ニューヨークで出版した《日本の目覚め》は好評を博し,05年3月に帰国した。同年10月再び渡米,ボストン美術館東洋部長として毎年半年を同館で執務する契約を結び,以後ボストンと茨城県五浦(いづら)の別邸とを行き来することになった。なお06年には衰微していた日本美術院を五浦に移している。五浦の天心は読書と釣りに日を送ることが多かった。活動舞台こそ海外にひろがったが,彼はむしろ失意の人であった。06年に出版された《茶の本》に,そうした内面を読むことができる。12年ヨーロッパ経由で渡米したが健康がすぐれず翌年4月に帰国。同年9月2日,赤倉の別邸で没した。天心の活動は多方面にわたり,しかも言動に矛盾が多いため,その全体像をとらえるのは容易でない。天心の全体像の解明は美術の面のみでなく,近代精神史・思想史にとっても依然課題であるといえる。《岡倉天心全集》全9巻がある。           原田 実

コメント(1)

僕はアメリカ行きのためにお休みです。

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