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清澄さんコミュの楽士廻りのヴィエル 後編(五つの橋より)

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ttp://www.youtube.com/watch?v=A-0qXAbCXAw




 
 薄っすらと白む朝陽が、暗い森の地表に射し込む。
 枝葉の輪郭に蒼を滲ませた、神秘的な夜明けだ。
 真新しい鳶《とび》色のマントを翻《ひるがえ》しながら、レティはこれまた真新しい上着の裾を指で摘んでみた。
 高級なサテン生地でつくられた漆黒のベストである。特に被害を被っていないズボンでさえ、革を縫い合わせた新品に代わっていた。
 今の稼ぎでこれら一式を買い揃えるには、恐らく数ヶ月以上の我慢と困難を要する必要があるだろう。算用を働かせるだけで、レティは安堵とも恐怖ともつかない溜め息を洩らした。
 もちろん、全て男達から齎《もたら》された贖いの品であり、レティ自身が苦心して手に入れたものではない。
 全ては――
 取り戻したリュートを肩に掛けながら、レティは老木に背を預けた、もう一人の自分へと目を向けた。
 波打つ金髪を耳元で艶やかに結い上げ、梔子《くちなし》色のローブを身に纏った美女。
 ゆったりとしたその袖口から伸びた手は、星巡りとは無縁に白く、細い。その両手で編み上げられる色鮮やかな花輪が怖いくらいに似合っている。
 命の恩人という装飾では易々と片付けられない存在。
 ヴィエルだ。
「あ……ありがとう、ございました」
 そう言って、レティは深々と頭を下げる。畏まりすぎて、恐る恐ると表現した方が相応しいぎこちなさだった。
 精一杯の敬意ではあったものの、水鏡で映したような分身に対して、実際どんな言辞《げんじ》を用いれば良いのかよく分からなかったのだ。
「礼など不要だ。おれとしても助かったんだからな。こいつの墓を、作ってやりたかった」
 言ってヴィエルは、くっくっ、と喉を鳴らした。
 レティは軽く顔を上げると、ヴィエルの足元に目を移して、
「彼が……アルヴァンデス?」
「あぁ、おれの友。旅の仲間だ」
 花々を見つめたまま、ヴィエルは鷹揚《おうよう》に頷く。
 張り裂けた瘤を抱えた老木、その袂には木造りの墓標が打ち据えられてあった。
 それは騙し取った荷物の返還と共に、ヴィエルが要求したもう一つの贖い。
 夜を費やして、いかさま師達が一心不乱に掘った、あの老人の墓である。
 立派とは決して呼べないものの、一晩で拵えたにしては上等な代物である事実は否めず、何より当のヴィエルが満足しているようなので、レティは口を挟まなかった。
 そもそも野垂れ死んだ者が墓に入れる機会は全くないのだ。
「……幾つもの国を巡り、幾つもの橋を渡り、幾つもの物語を共に奏でて来た友だ……こいつの目は疾《と》うに光を失っていたからな、おれがその代わりをしていたんだ」
 ヴィエルは懐かしむように目を細め、出来上がったばかりの花輪に、そっと唇を重ねた。瓜二つの相貌とはまるで思えないその愛くるしさに、レティは思わず魅せられてしまう。
 だが、それは一瞬のことで、
「……眠ってしまったか、アルヴァンデス」
 ヴィエルは花輪を墓標にそっと掛けると、徐に腰を降ろした。その微笑みは崩れなかったが、枯れ木の柱をなぞる手付きだけは、深い悲しみを堪えているような気がしたのだ。
 言葉を返せなかった代わりに、レティはヴィエルの傍で膝をついた。
 それを見たヴィエルは盛り上がった土を愛おしむように撫でながら、
「アルヴァンデスは盲人だったが、博識《はくしき》だったな。おれが見た物の正体を何でも教えてくれたぞ? お前等なんぞとは比べられん程に世慣れていたな。ファシハット達の歴史も、あいつから教えて貰った。レテル山の諍《いさか》いなど、あいつが見届けたいとせがむからな、わざわざ俺は兵士に化けて軍の中まで忍んでやったんだ……面白かったな」
 レティは耳を疑った。
 ファシハット人によるアルバナへの領土侵攻、つまりレテル山の戦役は、確かにレティも知悉《ちしつ》する歴史の一つである。
 しかし百年以上も昔の文献として、だ。
 いかさま師達をも含めて、レティ達を世慣れていないと一蹴出来る訳である。アルヴァンデスとて、凡《およ》そ人外の域に達した長寿かも知れない。
 動揺を鎮めるように何度を息を呑んで、レティはヴィエルを見つめた。
「あの…………貴方は、一体」
 ちらり、ヴィエルは眉根を寄せる。
「貴方? いきなり小僧の如しだな。畏まるなよ」
「で、でも」
「さっきの威勢はどうしたんだ? それに、アルヴァンデスの墓をつくれたのは、お前のおかげでもあるんだぞ」
「……俺は、何も……」
「おいおい。ならば、お前はどうして今もそれを抱いているんだ? おれがこうして居られるのも、お前の温もりがあっての事だぞ?」
 ヴィエルは呆れた声でレティの胸元を見やり、その視線を追ったレティは、すぐさま顔を跳ね上げる。
 あとは、理の枷を外してもう一度。ヴィエルの言葉を訝らず呑み込むだけである。
 未だにレティは従順に、古びた楽器を両手を抱えていたのだ。
「楽器の……精霊?」
「精霊、か。くすぐったい呼び名だな。おれはそのヴィエルの胴となった糸杉、それ以外の何者でもないぞ。随分と長く生き過ぎたから、こんな姿にもなれるだけだ」
 そう言って、ヴィエルは結わえた髪の房を指で弾いた。鳶色の布地と共に風と遊ぶ金髪は、鏡合わせとはまるで思えないほどに綺麗で困る。
「その殻がないとおれは自由に出歩くことも出来ない。この身体とて、数日も経たずに罅割れて枯木となってしまうだろう。借りただけだから、仕方がないのだがな」
 その横顔を見つめたまま、レティは抱き締める手にぎゅっ、と力を込めた。
「このヴィエルが壊れたら、死んでしまうのか?」
「別に殻が壊れてもおれは死なない。糸杉の元へ帰り、眠るだけだ」
「それは……死じゃないのか?」
「お前達の理でおれを縛るなよ。つまらん論は詩人共しか喜ばんぞ」
 ヴィエルは嘆息《たんそく》すると、突然レティに鼻先を寄せる。細めた瞳は、見たまま少女のように。
「ところで、お前はどうして男の真似などしているんだ? そっちの話の方が面白そうだぞ」
 ふいに投げかけられた問いに、レティはびくりと身じろいでしまった。憮然そうに顔を背けると、ターバンを目許いっぱいまで被せて言った。
 どうもこうも、理由は結局一つしかないのだ。
「きっ……決まっているだろ。女のままでは、楽士にはなれないんだ」
「ほう? 惜しいな。この姿なら、多くの男達が求愛の詩を口ずさむだろうに」
 ヴィエルは胸元を引っ張って、その双丘を見つめているのだろう。素直に褒め称えているのかも知れないが、レティとしては悔しさが増すばかりだ。
「……べつに、嬉しくなんかないぞ」
「娶られたくないのか?」
「俺の幸せは、夫と添い遂げることなんかじゃない。この国の歴史に……楽士として俺の名を残すことだけだ」
「なるほど。だが、旅楽士なぞでは飯も食えんぞ? アルヴァンデスが味わった辛苦《しんく》は、おれもよく知っているしな」
 旅楽士の多くは、往々にして宮廷との関わりを持たない食い詰め者ばかりである。そもそも庇護《ひご》者が居ないからこそ旅に彷徨うのであって、留まれる場所と伝手《つて》さえあれば誰もがその地に根を下ろすだろう。吟遊詩人に謳われるような旅楽士など一人とて存在しないのだ。
 レティとて、そこまで世慣れていないつもりではなく、噛みつく相手ではないと分かってはいても、性分が顔に露になってしまう。
「……覚悟の上だ」
「ははっ、面白い奴だな」
 眉間に皺をつくったレティを見て、ヴィエルは満足そうに笑い、立ち上がった。尻に付いた土を払いもせず、墓標に頬をくっつけると、「さらばだ」と、一言だけの呟き。
 顔を離したヴィエルは、今度はレティの抱えていた楽器に手を伸ばした。
「さて……と」
 見つめる蒼い瞳は真っ直ぐにレティを射抜いている。
「アルヴァンデスは存分におれを楽しませてくれた。小僧……いや、レティ。お前はおれを楽しませてくれるか?」
「どういう、意味だ?」
「その殻を抱えていくのか手放すのか、という問いさ。おれを連れて行ってくれるのか?」
「……連れて行くって、どこまで」
「どこまでも」
 すかさず重ねたヴィエルの言葉に、レティは身震いを抑えられなかった。
 怖いのではなかった。
 単純に、首肯《しゅこう》する勇気を奮えなかっただけだ。
 動揺に気付いてか、ヴィエルはにんまり口の端を吊り上げると、
「そうだな……お前が楽士として世慣れていく物語を奏でてみたいぞ?」
 それは強制でもなければ、命令でもなく。皮肉ですらないのだろう。まるで子が親にするような純真無垢な問い掛けに聞こえた。
 重々しく聞こうとすればそう聞こえるし、軽々しく受け止めればそう受け止めてしまえそうな、軽やかな声音。
 もしも恩着せがましく重ねたのなら、レティも頷く他なかったかも知れない。
 選択を委ねられただけに、レティはその真意を探ってしまう。
 もしかしたら、ヴィエルは――
「……嫌だと言ったら?」
 恐る恐るの呟きに、しかしヴィエルは喉を鳴らした。
「安心しろよ、縊りはしないさ。その代わり。助けた礼として、その殻を壊してもらう」
 レティは驚かなかった。
 目の前の笑顔が、その意思を悟らせていたのだから。
「どうして」
 唇だけが、独りでに声を零す。
「アルヴァンデスは眠ってしまったからな。もう此処に居ても、まどろみしか残っていない」
「人間の姿になれるなら、自分で抱えて……旅をすれば良いじゃないか」
「つまらん考えだな。おれはおれを奏でられんのだ。それに、誰の耳にも届かぬ調べなど……面白いと思うか?」
 そう言ってヴィエルは肩を竦《すく》め、瞑目《めいもく》すると同時にレティは確信した。
 ヴィエルは――眠りを拒んではいないのだ。
 長い月日を共に旅した友、その喪失を悠久の眠りで埋めようと心しているのだ。
 どこが精霊だ、とレティは胸の裡《うち》で呻き、古びた楽器の感触をもう一度確かめた。
 (こいつはまるで――)
 声にならない継句《つぎく》は、風の流れに溶かされ、消える。
 吹き抜けた後は、もう何も聞こえなかった。
 木々の合間を滑り込むように、朝陽が頬を照らす。
 昨夜の喧騒をまるで嘘にしてしまうかのような静謐《せいひつ》を、ようやく爪弾いたのは鳥の囀り。
 それと。
「俺は……宮廷楽士になりたい」
 レティは顔を上げ、ヴィエルの眼差しを受け止めた。
「女でもか?」
「だからこそだ」
「権威に媚《こ》び諂《へつら》う音知らず共だ。アルヴァンデスは忌み嫌ってたぞ」
「……それでも、だ」
 怯みながらも、レティは力強く頷く。
「そうか。で? おれをどうするんだ?」
 などと言うが、すでにヴィエルの声音は弛んでいるのだ。
 レティは大きく息を吸い込んで――
 やはり、意地を張った。
「ヴィエル弾きでも……なれるかどうか、考えている」
 導いた答えには、しばしの余韻が付き纏った。
 堪え切れなくなったのか、ヴィエルは蕩《とろ》けたように目を細めると、顔を背けて含み笑い。しかしほんの数瞬で、煌びやかな歯を堂々と覗かせ、ついには腹さえ抱えてしまった。
 浅い眠りを、優しく揺り起こすような笑い声だった。
 鼻先に朱を滲ませたレティを見やって、ヴィエルは眦の涙をそっと拭うと、
「ならば、レティ。おれを使ってアルヴァンデスへの餞《はなむけ》を奏でてやってくれないか? 答えを出すのはそれからでも遅くないだろう?」
 にやり、手を差し伸べるのだった。


 
 ――血煙渦巻くヴォグールの賭博通り。
 権威の堕落と道徳の腐敗によって形成されたこの町も、かつては広大な糸杉に囲まれた、人足を拒むほどの肥沃《ひよく》なる森山だった。
 国境の諍いを発端として、ある赤土の王は抉り取られ、ある老樹の王は伐り倒されたものの、かつてよりこの地を傅かせていた王達は決して、未だ滅びを迎えた訳ではなく、人の理からは悠久とも言い換えられる、しかし浅き眠りの縁で、揺り起こされるその刹那を幼子のように待ち焦がれているのだ。



 煌びやかな陽が草原を染める頃。
 森から出でた楽士の番《つがい》は、進路を東へと定めたらしい。




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