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台湾紙 ☆自由時報☆コミュの蒋介石の実像

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http://archive.mag2.com/0000036568/index.html

■蒋介石の実像――『日・台交流秘話』ツアーで知ったこと 浅田 均

 昨年11月の『日・台交流秘話3泊4日』のツアーで知りえた蒋介石実像、
中国国民党の本質、日・独・伊3国同盟の欺瞞性、本来の三光作戦、現在の金
門島の役割等、巷では余り語られない台湾レポートを2回にわたりお送りしよ
う。

【蒋介石について】
<蒋介石の本名: 姓は鄭 名は三發子>
      鄭家の三男で長兄は7歳年長で鄭紹發、次兄は4歳年長で二發子
      出 生 地 :河南省 許州
      生   家 :小規模自作農
  <蒋家への入子に至る経緯>
 ァ.1894年黄河と淮河の氾濫による飢餓で父親は洛陽へ移転、長兄と次兄は
父に従い三發子は母親(王采玉)と残るが食べて行けないので集落に最後まで残
る農家・数家族と共に難民となり河南の古都開封を目指すが3日後に集団から
落伍。
 イ.付近にあった相国寺(難民救済寺院)で粥と大豆の絞り糟の給付を受け1
週間過ごすと寺の和尚が母親(王采玉)に「玉泰塩鋪」第2夫人が産後の肥立ちが
悪く死亡し1男2女と新生児の面倒を見る乳母の就労を斡旋
 ウ.母親(王采玉)は蒋肇聡の面接を受け乳母に採用され、自分の子三發子と
蒋家の2男2女の育児から家事を仕切る。
 エ.河南の蒋肇聡は望郷の思いが募り商売を止め故郷浙江省泰化県禽孝郷に
帰り隠居する際、連れ子の三發子を蒋家の子供に入れ商売は長男の周康に譲渡
し禽孝郷で采玉と共に余生を過ごした。
 三發子は蒋介石となる。
 オ.「三發子を蒋家の子供にするなら」と母親・王采玉は禽孝への転居を決
心。

<蒋家の公式族譜>
  蒋斯千(玉表公)――蒋肇海(世昭)――――――蒋周良
                    ―蒋周請
     ―蒋肇聡(粛菴公 明火)―蒋周康(錫侯 介卿)
               ―蒋周泰(介石 中山)―蒋経國―蒋孝文
                             ―蒋孝武
                             ―蒋孝勇
            ―蒋孝璋
                         ―蒋緯國―蒋孝剛

*蒋介石の名前の使われ方
1.介石は外国人が使用 2.中正は大陸時代、台湾時代の正式文書で
使用3.周泰は本(幼)名 4.「蒋瑞元」は祖父、玉表公が命名5.「蒋
志清」は日本留学時(振武学校・野砲19聯隊時代)に自己命名

*蒋家の出自と家業は元奉化の三嶺から修峰嶺に移り渓口に定住、家業は
食糧・塩・酒・煙草類を扱う「玉泰塩鋪」店であり蒋斯千が創業者、太平
天国の乱で家業は灰塵に帰すが斯千が役所に取り入り地域の塩の専売権を
得て裕福な資産家となる。

*蒋介石の生母の建て前は……
 玉泰塩鋪の古参番頭の王賢東が主人蒋肇聡に寡婦で出家中の従妹の王采
玉を紹介、還俗させ主人に嫁がせた事になっている。
*蒋介石の兄弟について
再婚後の王采玉は2男1女を産み長男を周泰(幼名 瑞元)またの名を介石と
名付た。次男の瑞青は6歳で夭逝、娘の瑞蓮は玉泰塩鋪の手代笠芝硼に嫁い
だ。笠芝硼は1971年8月20日台湾交通銀行役員在任中に死去。

*蒋介石の父と異母兄弟について
 1.父肇聡は3度結婚54歳で死亡。 
 最初の妻・徐氏と1男1女を儲け長男を周康、娘を瑞春と命名。2番目
の妻・孫氏は病死、後添えとして王采玉を迎えた事になっている
 2.長男周康は肇聡の死後直ぐに分家、継母や異母兄弟の面倒を顧みな
かった事になっているが、これは長男周康を悪く言募り蒋介石を蒋家の総
領にする為の欺瞞である。

<蒋介石の婚姻歴>
1番目は1901年(14歳)に毛福梅、
2番目は姚怡誠、
3番目は1921年(34歳)に陳潔如、
4番目は1927年(40歳)に宋美齢と婚姻
蒋介石の第3夫人「陳潔如」の母が蒋介石につての調査
陳潔如と蒋介石の結婚期間は1921年〜1927年の7年間。
陳潔如は上海の紙問屋の娘で幼名は阿鳳、父は陳雪峯、母は陳英。
蔡元培(中国国民党の前身の中華革命党員、清朝打倒団体「光復会」構成員、
辛亥革命後南京臨時政府の教育総長、54運動開始時基幹要員)創立の愛國女
学校卒。 

*「陳潔如の母親の身元調査は容易であった」
 理由:蒋の出身地「禽孝」が父・陳雪峯の郷里・寧波と隣接していた。
 中正記念堂の蒋介石の出身地は「浙江省渓口鎮」と記述されているが、当
地は清代より「禽孝郷」と称されていたのを、1928年(昭和3年)国民革命軍
司令官として北伐開始時(1月)に権力をもって「渓口郷」と改称した。

*「陳潔如の母親の身元調査により蒋介石の経歴・詐称が暴露された。」
 陳潔如と結婚する際提出した蒋介石の経歴書には1907年東京の士官予備学校
入校、1908年日本陸軍士官学校進学、1909年陸士卒後高田砲兵聯隊・隊付見習
士官、1917年(30歳)〜1920年の間上海に住み無職と記述・申告されていたが、
その実態は下記の通りである。
 1908年(明治41年)東京新宿で清朝政府経営の「振武学校」に入学するが、成
績不振で日本陸軍士官学校への進学が出来なかった。
 1910年(明治43年)振武学校を卒業、日本陸軍第13師団野砲第19聯隊(高田)に
配属、見習士官ではなく陸軍2等兵(馬卒)として勤務、1911年(明治44年)野砲第
19聯隊を脱営し帰国、11月辛亥革命に参加。
 又、中正記念堂の展示説明によると1918年(大正7年)より広東軍総司令部作戦
科主任とあるが具体的に何を担当していた主任なのか説明や記述が不明で内容を
濁している。陳潔如に提示した蒋介石自身の記述した調書には1917年上海と禽孝
に住み無職る方が信頼性が高い。

<陳潔如の回顧記述によれば……>
 1921年12月(26日)上海から香港まで「プレジデント・タフト号」で移動、香港
から汽車で広州駅に到着、廖仲(広東軍需品及び財務連絡官・ソ連共産党規約を
支那語への翻訳し国民党規約とした筆者)の出迎えを受け広東軍総司令の陳炯明
を訪問し挨拶するがぞんざいに接遇された事と1922年1月4日悟州で孫文に面会
し孫文から「広東軍の軍参謀長に任命」され、悟州から桂林へ向う孫文に同行す
るが孫文の陳炯明に対する評価に不満を募らせ事で桂林に到着と同時に上海へ帰
還した。(当時孫文の掌握する兵力は2個連隊程度) 
 第3夫人陳潔如の回顧記録によれば上海へ帰るや失意を紛らわせる為、夫人の
勧めで「蒋緯」の名義で海証券取引所の株式仲介業務を主たる業務とし、資本金
50,000元、株主17名、支配人(大株主)張秉三、顧問張静江(妻 朱逸民が潔如の
友人)の「盛泰社」に入社。 
 1922年9月〜23年2月までの月〜金の毎日、10:00〜16:00まで取引所で勤務。
他に黄金榮(上海のヤクザの親分)が用心棒の黄誌(成人向け猥褻本)の編集発行人
も勤めたと記されているが、中正記念堂の展示には上記証券所勤務や編集発行人
の説明が削除されている。

                           (次号につづく)

コメント(1)

コチラのコミュは廃コミュですか?国民党勝利に伴って??

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