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名勝コミュの仙巌園(センガンエン) 

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 鹿児島県鹿児島市吉野町

 1958年05月15日指定

 霧島錦江湾国立公園内。
 万治元(1658)年に薩摩藩第2代藩主(島津家19代当主)光久が家老鎌田政近の旧宅だった大磯下津浜門屋敷を御用地に定め、御仮屋を築いて仙巌園と名付けました。寛文12(1672)年に屋敷の南に一亭を築き、その翌年正月に同亭内で落成の宴を催したところ、二羽の鶴が庭先に舞い降りたのを嘉瑞として喜鶴亭とも呼ばれました。以後、仙巌園は代々の藩主別邸として用いられる事になります。
 欝蒼たる暖地性樹林に覆われた磯山を北に背負い、その急崖の下の扇状地を整理して築造されており、南正面に錦江湾を隔てて、桜島の全容を借景とする雄大な構造となっています。建物の前面を広く取り、海浜に向って二段の地割として、要所に石組・石灯篭等を置きます。琉球国王から寄贈された望嶽楼も設置されました。
 第4代藩主(第21代当主)島津吉貴は享保6(1721)年に隠居してから、27年後に死去するまで磯御殿で暮らし、磯奉行を置いて園内整備に努めました。園内用水を安定確保するために、吉野関吉から全長8kmにも及ぶ疎水が開削され、元文元(1736)年には清帝国から孟宗竹を取り寄せて江南竹林を造成させていますが、孟宗竹はここから一挙に日本中へ広がりました。
 第8代藩主(第25代当主)島津重豪(シゲヒデ)は、天明7(1787)年に仙巌園内外の勝景を選びんで「仙巌十六景」として絵師に描かせ、清国人に託して詩と序文を求めたと言われています。また、仙巌園の裏山に当たる後苑を拓き、さらに寛政11(1799)年には、裏山に落ちる時雨の滝を眺めるために観水舎を建てました。文化11(1814)年には、裏山の頂上付近に、展望と夏場の涼をとるために集仙台を築いています。
 第10代藩主(第27代当主)島津斉興(ナリオキ)は、文化11(1814)年に磯山岩壁に巨文字を刻んだ千尋巌を造り、嘉永元(1848)年に従来の正門だった錫門の外側の海浜を埋め立てて拡張工事を行い、庭園面積は50000?に及ぶ事になりました。
 嘉永4(1851)年に第11代藩主(第28代当主)となった島津斉彬(ナリアキラ)は、直ちに仙巌園西隣の地に近代工場群を建設する集成館事業を起こしますが、園内でも安政4(1857)年に鶴灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いた事から、日本のガス灯発祥におけるルーツの一つとして挙げられる場所にもなっています。
 文久3(1863)年の薩英戦争で隣の集成館は大英帝国艦隊の艦砲射撃を受けて壊滅しますが、こちらは無事でした。
 慶応2(1866)年には英国公使サー=ハリー=パークスが鹿児島を訪問した際には、第12代藩主(第29代当主)島津忠義は国父島津久光と共にパークス一行を仙巌園に招き、初日は日本料理、翌日は洋食料理で歓待しています。
 明治4(1871)年の廃藩置県によって忠義は東京在住を命じられましたが、鹿児島県令大山綱良の黙認で妻子は暫らく鹿児島城に住み続けていました。しかし、翌年になって鹿児島城には熊本鎮台分隊が置かれる事となったため、斉彬の娘である寧子(ヤスコ)夫人達は城を退去し、仙巌園内の磯御茶屋に移り住みます。それ以降、仙巌園は島津本家の生活の場となり、磯御殿と呼ばれるようになりました。
 明治17(1884)年に旧大名の東京在住令が緩和されたため、島津忠義公爵は鹿児島帰郷をの準備のため、磯御殿の大規模な改築・修繕を行い、御庭方小田喜三次に命じて獅子乗大石灯籠を造りました。
 明治20(1887)年に実父島津久光が没したのを機に、翌年忠義公爵は鹿児島に移住、仙巌園は島津本家の本邸となりました。明治28(1895)年には大重伊三次に命じて海岸通に総門を造り、これを正門に定めました。
 明治24(1891)年、ロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)が鹿児島を訪問した際、忠義公爵は皇太子を仙巌園に招待して、嫡男忠重(4歳)が先導する武者行列で歓迎、忠義自身も犬追物を披露しています。
 明治25(1892)年には園内に小規模な水力発電ダムが設けられ、邸内の電灯や電話の電源として利用されましたが、鹿児島市内で電灯・電話が設置されたのはここが最初でした。
 忠義公爵が明治30(1897)年に没し、第30代当主となった僅か11歳の忠重公爵は、内務大臣西郷従道侯爵元帥・枢密院議長黒田清隆伯爵中将・大蔵大臣松方正義伯爵等の薩摩藩出身の政府高官等によって翌年東京市に移住させられ、仙巌園は住人不在となりましたが、島津家別邸として維持される事になりました。
 明治40(1907)年には、地下約2.4mの位置に布設された水道石管から取水する濾過(ロカ)地が園内に設けられました。
 大正11(1922)年、大英帝国のエドワード皇太子(後のエドワード8世)が鹿児島を訪問していますが、当時、英国留学中であった忠重公爵少佐はエドワードの出発時にロンドンにて挨拶を行い、弟の康久が東郷平八郎侯爵元帥と共に皇太子を仙巌園で接待しています。
 昭和22(1947)年の華族制度廃止によって、昭和24(1949)年に鹿児島市に接収され「磯公園」の名で一般開放されましたが、昭和32(1957)年に島津忠重元公爵少将に返還され、財産管理会社の島津興業が運営する事になりました。
 春の曲水の宴や江戸時代の作法に則って行われる端午の節句・七夕の展示・初冬に行われる草鹿式などが有名で、鹿児島市内随一の観光名所になっています。

◆城下町鹿児島
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12504694&comm_id=194642
*旧集成館
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67865871&comm_id=398257

コメント(16)

 16日木曜日に行って来ました。参議島津義弘の甲冑レプリカが出迎えてくれます。
左;鉄製150£(740mm)砲
中;反射炉跡
右;島津家水天渕発電所記念碑
 レストラン松風軒で「磯のくろすけ膳」1050円也を食べました。桜島を見渡せる絶好のロケーションですが、この日は曇天で眺望は悪かったです。
 仙巌園入園料は尚古集成館とセットで1000円ですが、折角ですからもう500円払って御殿内部も見学する事にしました。島津忠義公爵が来客を接待した謁見の間や島津忠重公爵が幼少期に用いた部屋等が公開されていますが、御殿内部は写真撮影不可です。
 御殿内部から庭を写すのはOKです。
 御殿内部見学をすると、茶室竹頸亭でお抹茶とお菓子の飛竜頭(ヒロウス)を頂けます。
左;猫神様 島津義弘が正確な時刻を知るために朝鮮出兵の際、連れて行った猫を祭ります。
中;濾過地[登録文化財]
右;江南竹林
左;発電用ダム跡
中;曲水の庭
右;茶室秀成荘徒然庵
 千尋巌は遠方から見ても、かなりの迫力でした。
左;亀石
中;鶴灯篭
右;獅子乗り大灯篭
鹿児島は温暖な地なので、既に梅が満開でした。
園内には桜島大根も植えられています。花は結構可憐で綺麗です。
 皮を剥いて食べる蜜柑としては世界最小の桜島小蜜柑です。
世界最大の蜜柑である晩白柚(バンペイユ)です。

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