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銀のさじ(小説)コミュの差し伸べられた手を 第六章 −空− ?

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「あの頃のわたくしは、ただ自分だけが正しいと思っていました。
 自分という人間の価値観しか見えていなかったのでしょう。
 ひどく、傲慢でした。
 わたくしは、深く考えず、自分の辿ってきた道を当然のものとして咲音さんに押し付けてしまった。
 たくさんの生き方も考え方もあるということ……。
 わたくしの生き方はその一つに過ぎないということを知りませんでした。
 そういった無知や、思慮のなさが、咲音さん追い詰めたのです……」

 由乃は祖母をじっと見つめていた。八重は顔をおおうと
「わたくしは、あなたの目を見ると、何もかも見透かされているようで怖かったのです。咲音さんに見つめられているようで、怖かったのです。
 まだ小さいあなたには、寂しい思いばかりをさしてしまいました。

本当にめんなさいね」


 由乃は言葉が出て来なかった。

 毛糸であやとりをしていたら、その糸がからまってうまくほどけなくなってしまって、 からまった糸とからめてしまった自分に腹を立ててみるものの、からまりはほどけない。
 そしてしまいには途方にくれてしまうという、そういうった哀しみに覆われてしまっていた。

 祖母はただ、裕福な家庭の中で守られて育てられ、社会に出ることなく親の言いつけに従って嫁ぎ、嫁ぎ先のやり方にそって生きてきただけだった。

 しかし、彼女はその中にあって自覚した。無自覚の罪。無思慮の罪。主体性のなさという罪。人の死という余りにも重い現実を目の前にして。
 そう、その環境の中にあって、彼女がたった一つ犯してしまった罪とは、「己の考えを持たなかった」ということ。
 
 人と人と。生身の人間が大勢で寄り集まっている世界で、人を傷つける自覚を持たずに生きることの危険さ。

 彼女は、それに気づいたときすでに取り返しのつかない状態になっていた。
 
 そして、その罪の十字架をその背中に背負ったまま、生き続けた。
 咲音とうり二つの孫の目に怯えながら。

 たとえば自分が、同じ立場だったら、同じ過ちを犯すのではないだろうか。

 だからと言って、母の死を、ぬくもりのない子ども時代をすんなりと受け流せはしない。


 祖母の立場も気持ちもわかりすぎるほどにわかってしまう。
 そして、内なる哀しみや絶望が消えてしまうこともない。
 結ばれることのなかった恋の痛みも、また。


 ここに、一本のつり橋がある。今にも崩れ落ちそうだ。しかし、その橋を渡らなければ、前に進めない。けれど、ひどくひどく勇気のいることだ。
 つり橋のかかる谷は深く、一つ足を踏み外せば奈落の底に突き落とされる。


 由乃はそんな場所に立っていた。途方にくれたまま、つり橋の前にいた。
 つり橋の向こうに、八重がいる。くたびれた目をして、一人ではもうどうすることもできずにただ立ちすくんでいる。

 そちらに渡るには、どうしたら?

 泣き続けてきた人の心。祖母、母、そして自分。
 形は違うけれどそこには、微妙にゆがみ固められた運命の中に投じられながら必死にあがいてきた、心の平和への果て無き憧れがあった。

 いったい人は、なにを知るためにこのように、もがきながら生きているんだろう。
 ここにいるのは一人の人間だった。祖母という役割の前に。
 自分と同じように弱かったり迷ったり、間違ったりする者。

 由乃は詰めていた息をふっとほどいた。

「由乃はずっとおばあ様と一緒にすごしたいと思っていました。
お母様がいないことは、寂しかったのですけれど、うらんでいないとは言えないですけれど……。

いったい、誰かとか何かが悪いということで、何が解決するのか……」
 
 由乃は口をつぐむ。どんなふうに思いを言葉にすればいいか、考える。

「だから、私は今はすぐに自分の気持ちを気りかえることは、できないのですけれど。
ええ、そう、そうですわ。
私はおばあ様への恨みつらみはあってよ?でも……」
「ええ、ええ」
「おばあ様がご自分をご自分で痛めつけているくらいなら、私とおばあ様で罵り合っているほうが、まだずっといいんですわ」
「ええ、ええ」
「だから……」

 悔しかった。腹立たしくもあった。祖母はまるで小さな幼子のように、ただただ自分の心を傷つけ続けていたのだから。
 八重は驚いて由乃を見ていた。そして、あとはもう何も言わずに、由乃の手の平を両手で包み込んだ。

 その手の温もりを感じ、由乃は静かに思いを言葉にするのをやめた。沈黙の中に、この場の空気に、思いが詰まっている。

 言いたいことが、たくさんあった。
 伝えたいことが、たくさんあった。いくつもの思いのつぼみが心の奥深くに現れては光を求めて咲き、そして散っていく。

 八重は今を逃すまいと、その声なき声に耳をすませ続けた。
 
 お互いの心が危ういほどに開かれ、無防備になっていた。 
 一歩間違えれば深く深く、人格の一部を損なってしまうほど。

 
 その人への思いを正しい形で外に出せなかった分、心の底で複雑怪奇なまでにからまりあって、すべてを苦しめてしまっただけで。

 優しい気持ちは最初からお互いにあった。
 


 誰もが優しさを知るために、生まれてきた。

 きっと、きっと。  

 



 創は仕事から帰宅するとまず驚いた。

 いつもは部屋にいる母が今日は由乃と二人、
居間の四人がけののテーブルで食事を並べて、待っていた。
 
 由乃はかばんをぶら下げたまま口を開けて固まっている父に向かって
「お帰りなさい」
 とぎこちなく微笑んだ。
 時計が針を刻む音。

 そして食器のたてるささやかな音。
 
 三人での囲む食卓は最初は気詰まりなものだった。
  
 きっと、すぐにでも何もかもがうまくいくわけではない。
 すぐにすべてを許せるわけでもない。
 今生きている者同士。
 傷ついて、疲れて、互いに辛い思いをしたとしても。
 お互いに、お互いを生かすために、生きられたらいい。

『ごちそうさま』

 食べ終わった挨拶が、予期せず三人とも重なった。示し合わせたみたいに。
 三つの声が重なった瞬間、その場から重く冷たい何かが空にほどけて消えていくのがわかった。
 かすかな微笑と、りんご二つ分くらいの重みを持った親密さが生まれた瞬間だった。

 こんなにたくさん、三人で会話したのは初めてかもしれない。一瞬由乃は気が遠くなる。

 食事の片付けが済み銘々各部屋でくつろいでいた。

 部屋に戻る八重を追いかけてもっと一緒にいたい気もしたけれど、由乃はぐっとこらえる。
 

 そして何より、朝の父との約束がある。

 由乃は、ココアを持って父のいる書斎に行った。
 
 書斎には真ん中にセピア色のソファと猫足の小さな木テーブルがあり、ニスでつやつやしている。
 その奥に書き物机と椅子。机の上にはなぜか透明な細長い瓶と貝殻が飾られているのだった。
 置けるだけ置いた本棚にはぎっしりと本が詰まっている。分厚い本が多く、宗教や哲学の本がほとんどを占めていて、英語とドイツ語の本もほんの少しあった。そして、何冊もの辞典。
 父が外国から特別に取り寄せたじゅうたんはふかふかでソファより濃いセピア色。
 書斎にはいつでも好きなときに入って本を読んでいいと言われてはいたが、なかなか入ることができないでいた。
 この部屋は父の世界そのもののような気さえする。そこに踏み込むには、いつもかなりの気合がいった。

 いつもは書き物机の椅子に座って本を読んでいる父が、今日はコーヒーを片手にソファに座って本を読んでいた。待っていてくれたのだ。
 青のストライプのパジャマの上にキャラメルブラウンのガウンを羽織っている。
 本から目をあげると、無言でこっちへとおいでと言う顔をする。
 由乃は少し迷ってから、向かい側のソファではなく、父の座っている二人がけのソファに座ることにした。
 体をずらして、銀輪からソファに座ろうとすると、父が体を支えてくれた。

 父の隣に座るとふいに心細さが消えて、広々した気持ちになっていく。大きな草原にはだしで立っているような。
 
「譲一君の所に行っていたんだってね」

 由乃は体を硬くする。

「お母様と譲一さんのことを聞きました」


父はしばらく黙っていた。少し下を向く。
「知っていたんだ」
「え?」
「咲音と譲一君のこと」
「どうして……」
「あのときの二人を見ていればなんとなくわかるよ」

 父はコーヒーカップをテーブルに置いて両手を組み、困ったような顔をしている。

「お父様には……他に愛した方がいらっしゃったんでしょう」
「譲一君から聞いたかい。そうだよ。毎年命日には墓参りに行ってる」

 初めて聞くことだった。今はもう、何を聞いても驚かないと何度も言い聞かせているというのに。

「譲一君が君のいいなずけになると言ってきたとき、僕はきっと罪ほろぼしがしたかったのかもしれないね」
「え?」

「最愛の人を亡くした哀しみは誰よりも僕が知っている。
 譲一君には、僕のような道をたどって欲しくなかった。
 由乃のことを思う気持ちが、彼の生きる力になればいいと思っていたんだよ」
 由乃は持ってきたココアのカップを手にとり、一口飲んでみる。甘いはずなのに、苦い。
「お父様、譲一さんはまだお母様を愛していましたわ」
「うん」
「私は妹のようにしか思えないと仰っていました」
「うん」
「お父様は譲一さんの気持ちを知っていて、私を譲一さんのいいなずけになさったのでしょう?私の気持ちは……おかまいなしだったのですね」
「すまなかった」
「お父様なんて、大嫌いですわ」
「うん」
「大嫌いです」
「うん」
 ぽつりぽつりと由乃は言った。激昂するかと思いきやしなかった。しんとくたびれた気持ちだけがあった。

 もしあの時、創が由乃のことを考えて譲一の申し出を断っていたら。
 おそらく譲一は今ほどまともな生活はできていなかった。絶望に打ちひしがれて、自暴自棄になってもおかしくなかった。
 父の決断は正しくも間違ってもいなかった。
 由乃からの非難を覚悟での決断だったということもまた、由乃自身よくわかっていた。
 普段から父は本当に由乃に優しかった。罪悪感からではなく、またただ形だけの優しさでもなく、愛されていたということがわかる。そうでなければ、こんな風に育つことはできなかった。

 そして今、父は言い訳も何もしないで自分の非を認め、由乃からの非難も受け入れている。
 「大嫌い」とぽつぽつつぶやきながら、由乃は父の肩に頭を乗せそっと目をつぶった。


  


 書斎から出ると、由乃は一人部屋に戻りそのまま荷造りを始めた。
 余りにもたくさんのことがありすぎた。父のことや八重のことが憎いとか嫌いとかではなく、ただどこか遠くに行きたかった。

 八重も創も寝静まった頃、由乃はそっと家を出た。



「落ち着いたら帰ります。しばらく考えさせてください」
簡単な書置きを残して。

 八重も父もきっと心配する。それを考えると気がひけたけれどでも、それでもこの家には、今はどうしてもいたくなかった。

 行くあてはなかった。光士朗のところへ行くのは気がひけた。
 あちこちあてどなくうろついて気がつくと、駅についてしまった。始発が発車する時間だ。

 気がつくと由乃は、切符を買って電車に乗り込んでいた。小さなボストンを片手に、ぼんやりと窓の外を見て。

 どこで降りるのかも決めず、これからどうするのかもわからず。ただ、ひどく喉がかわいているような、そんな感覚に覆われている。
 ごとんごとんと電車の揺れを体で感じているうちに、由乃はうとうととうたたねをしていた。
 こんな風に眠ることが心地良いと思うのは、ずいぶん久しぶりだ。









第七章    


ドライブ・あるいはパスタについての論争・そして夜中のショッピングへ

に続く 
  
 

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