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『変珍斎日乗』(惨)。コミュの『かみさま・ほとけさま・【いなおり】さま』(2007年11月19日)。

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■大阪市長選、民主など推薦の平松氏が初当選
(読売新聞 - 11月18日 20:33)


『戦後初』なのだそうである…【行政経験の全くない首長】を、今回大阪市民は敢えて選んだ。

それだけ(詳細は存じ上げないけど)「過去の既得権益が凄まじかった」って証明なのだろう。
「しがらみのない人」と言う観点で平松氏を選んだ大阪市民の行為を、【過去の実績】を売り
に現職を安易に担いだ与党側は深く反省すべきだ。とは言え、今回勝利した野党側も、そう
単純に喜んではいられないことを自省すべきだろう。前回までは『相乗りに便乗』してた点を
市民はシビアに見てるはずだからである!各メディアが報じるように【国政に影響…】までは
行かないようにも思う、とは言え。『候補者選びに於ける与党側のセンスのなさ』は間違い
なく露呈してしまった訳だから、従来型戦術を得意とする『選挙対策委員長』なる新設ポストの主
が【どんな対応を見せるのか】注目すべきである。いつまでも、『おヴァカな国民』ではない。


と、堅苦しい話をするとキリがなくなる(爆)。いい加減「本当に書きたかったこと」を記すw。


『神様・仏様…』と謳われた鉄腕投手・稲尾和久氏が逝って。早いもので【初七日】になる。

訃報の前日、たまたま「ある雑誌」で稲尾氏のインタビュー記事を読んだばかりだったから、
自分にとっては『二重にショック』であったが−問題はその雑誌。何故か【航空雑誌】っ!!
『ヒコーキ関係』と稲尾…【考えられぬ組み合わせ】の理由は…訃報では伝えられなかった、
「大投手」の【その後の人生】にある。現役時代の『偉大さ』(当然それも【賞賛されるべき】
だが)に比べ、後半生を伝える訃報の少なさを見て−我ながらヤボだなぁと嘆きながら書く。


稲尾和久(以下敬称略)が『西鉄ライオンズ監督』に就任したのは1970年。32歳の時だ!

しかも(同時代に流行した−例えば「野村克也」や「村山実」とは違って)【専任監督】として。
言い換えれば、彼の右腕は『現役兼任を勤められぬほど酷使され尽くした』証明でもあった。
そして引き受けた西鉄ライオンズ自体、『十数年前の【黄金時代】が嘘の如く』疲弊していた。

彼の(「代理」を除けば)前任者は『中西太』。同時代に活躍した豊田泰光も高倉照幸も既に
「古巣を去った後」…。その原因は、親会社「西日本鉄道」の経営が【左前になってた】から。
さらにその大元は。『エネルギー革命=石炭から石油への転換』に伴う北九州・ことに筑豊
地域の【地盤沈下】と、加えてエネルギー革命の象徴ともいえる『自家用車の増加』だった。
それでも。名物球団社長と言われた「西亦次郎」(にし・またじろう)の努力が生んだ制度・
『ドラフト』で、有望選手を獲得育成することでチームを立て直そうとしたのだが…【魔物】が
突然牙をむく。【黒い霧事件】。「八百長疑惑の中心球団」とされた西鉄は壊滅的被害を蒙る。
稲尾が就任したのは、まさにその【最悪の状況下】であった。エースも4番もいない、しかも
「親会社の援助も期待不能」という八方塞りの現実を抱えつつ、稲尾はチームの指揮を執る。
当然成績が上向くはずもなく、ファンからは罵声を浴びる−追い討ちをかけるような事態が
起きるのは、1972年秋。『西鉄の撤退』…言わば【西鉄ライオンズの臨終役】になった。
本来なら「その時点」で監督を降りるのが普通である、だが。稲尾はもう2年監督を務める。
「西鉄が消えても、稲尾は『ライオンズの象徴』だった」からだ。けれど。成績低迷を理由に
監督辞任の日を迎える…『絹のハンカチが雑巾になった』と言う例えは政治家・藤山愛一郎
を指すものだが、『ライオンズ監督・稲尾和久』もまた【ほぼ同じような立場】になっちまった。

皮肉なことに『監督稲尾』が蒔いた種は【ライオンズが福岡を離れてから】大輪の花になる。
【東尾修】と【大田卓司】。広岡達朗なる「名伯楽」がいたとは言え、これを忘れてはいけない。

その後、稲尾は『中日の投手コーチ』と【ロッテの監督】になる。どちらも「好成績」と言えぬ
結果に終わるが、後年のチーム事情を考えると【名伯楽ぶり】は眼を見張るものがあった!
あの「落合博満」が『最も私淑した監督』に【稲尾の名を挙げている】点は注目すべきである。
だが…その『ロッテ監督』の地位も【生え抜きの大スターに席を譲る】名目で追われる羽目に
−後任の名は『有藤道世』!それでも『通称【サイ】ちゃん』は泣き言ひとつ言わなかった。
その「優し過ぎる視線」は…『指揮官』には向いてなかったのかもしれない。ふとそう思った。


話は前後する。ライオンズ監督を辞め解説者になった稲尾に、ある日「1件の依頼」が来た。

『中国で野球をしたい若者がいる、が道具が足りない。良かったら送る手立てを願えぬか』?
稲尾が二つ返事で即答したのは言うまでもない。が、彼は『もう一つ先のこと』を申し出た。

「お役に立てるようなら、『実際に現地で試合や指導のお手伝い』させて頂けませんか」!

かくして。中国でも野球(現地表記では『棒球』)の種が蒔かれることになった。その種が
『アジアシリーズに中国代表(実力差あるが)が出場する』までになったのは御承知の通り。
その依頼を持ち込んだのが「某航空会社の現役機長」…『航空雑誌のインタビュー』の由来
はここから来るものだったのだ(微笑)。同時期に指導した『別当薫』の名とともに、現在でも
『稲尾和久』の名は【中国棒球関係者では超VIP】と聴く。それだけに今回の訃報は哀しい。


ともすれば、我々は『官の面ばかり』で政治や外交の問題を考えそうになるキライがあるが。
稲尾のような例を見ると、『違った面での【民】の交流や視線』もまた重要なことを痛感する。

『居直る』のでなく【稲尾る】姿勢を、自他共に考える…『サイちゃんの眼』は教えてくれてる。

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