小6だったS51の夏から通塾、S52〜54年度の中学生時代にお世話になりました。今月中旬に知り大変ショックです。
「月にライオンがいる確率は?いるかいないか、二つに一つ」、「I saw saw.」「He can can cans.」「I know that that 'that' that that man said.」などwitsに富んだ授業でした。日本の御三家高校の入試問題の表題を「神奈川県公立高校入試問題」の表題に差し替えて分からぬよう薄くコピーし、「難しいだろう」とクラス一同取り組まされ、出来るまで帰れなかったことが思い出されます。なかなか解けない様子に、今思い出すと、いたずらっ子のような笑顔でした。
先生の指導のもと、進学先の公立高校から運良く現役で先生の大学の後輩になれたと報告したところ、学院の講師のお誘いを受け、数年お世話になりました。在職中は恩返しのつもりで一つ上の蛭田先生のクラスに追い付けとばかりに定期テストでクラス全員の尻を叩き、平均点で僅差迄詰め寄ったりして、先生の目を丸くさせたこともありました。
同時期の太田さん、松井さん、王子さん、団栗さん、石黒さん(事務の方と新婚さん…出演されてましたね。)はお元気でしょうか。勿論、野沢先生、安村先生とも、院長先生他の方々と関内方面に忘年会に行ったのも思い出されます。
2013年8月に被災地への途中、大田原市のご自宅に寄らせて頂きましたが、那須の与一祭りがあったためかご不在で、翌日夜に南三陸のホテル宿泊時にお電話頂き、20年ぶり位に声を聞かせて頂き「今、大田原市の近所に泊まりなら一緒に飲まんか?」「もう宮城県です。横浜に来られることは無いですか?」「無いな〜」が最後でした。銘酒浦霞がごひいきでしたが、「地元の天鷹(酒造)も良いですね。」と言うと、受話器の向こうの笑顔が見えるようでした。その後、連絡もとらずでしたが、その約1ヶ月後に亡くなられていたと、ここで拝見し、60歳位でまだまだお若いのに、ただただ残念と悔いが残っています。
心よりお悔やみ申し上げ、合掌させていただきます。蛭田先生、本当に有難うございました。