ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

終末期のケア・家族への支援コミュの在宅死(その6)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
皆さん、こんばんは。

 7年前に18回連載で書いたものを、3回づつ6回に分けてお送りする第6回目(最終回)です。

「在宅死」;看取りと癒し

16)治ると良いですね(その一)

 特に在宅末期医療で大変立派な活動をされている先輩の一人として、私の家の直ぐ近くの出身で、現在京都堀川病院顧問をされている早川一光先生がおられます。

 「お迎え来た・・・ほな行こか」(佼成出版)他を参考にさせていただいておりますが、ひとつだけ意見の相違があります。先生は「癌の告知は必要ない。死期は自分で何時か気付かれる。」と書かれておられます。しかし、最後まで「死」を否定し、「死」と格闘して苦しまれる方がおられます。特に最近そういう方が増えてきているような気がしてなりません。一方で、十年前は「癌の告知」を希望するという方は三十%程度であったものが、最近は一挙倍以上に増えているという事実もあります。

 「ホスピスケア」は、原則「癌の告知」を行った上でなされることになっています。「死」を前にして、当然「心のゆらぎ」はあります。前回お話しましたように、「間接的安楽死」では計五回の自己意志の確認が必要であるとされています。「癌の告知」がなされていなければ、「心のゆらぎ」の幅はより広くなり、本人をより苦しめることになるだろうと思います。また「だまされている」という想いは、痛みをより強め、モルヒネを効きにくくするということはよく経験されることです。やはり「癌の告知」は必要だろうと思います。

 哲学者プラトンは医者に向けて、「真実を語りなさい。そうすれば、患者は治療に協力するだろう。」と書いています。しかし医聖ヒポクラテスは、「本当のことを言えば、患者の命を縮めるだろう。」と書いています。医者は二千年以上も「患者の数だけ嘘をつく」生活を続けてきました。もうこれを止める時期に来ていると思います。

17)治ると良いですね(その二)

 癌の末期であることが解っている方でも、やはり「少しでも生き延びたい。」という気持ちからの「心のゆらぎ」も起こってきます。多くの方が、亡くなられる二ヶ月程前に、「治るでしょうか。」と医療者を試すような問いをされます。嘘はつけません。しかし本当のことも言えません。「治ると良いですね。」と答えるより仕方がありません。医者は病気が治ってくることに生きがいを感ずるものです。自然と宿命の大きさの前にひれ伏すというのは辛いものです。しかし、それ以上に患者さんはもっと辛いだろうと思います。この言葉のやり取りの後、多くの方が涙を流されます。そして、より現実のものとして自分の死を意識されるようになっていかれます。そこから「どのような死に方をするか。」という相談が始まります。

 自力の宗教を強く信じておられる方は、なかなかこうはならないことが多いようです。「死の受容」があっても、限られた命の中身を高めれば、「前向きに生きる」ことになることが理解できず、少しでも長く生きたいと思われる方が多いようです。

 Gさん(五十九歳、女性)は「がん専門病院」で子宮癌の手術を受けられましたが、広範囲に広がっていたため、色々なチュ−ブが入った状態で退院されました。一年後、骨や肝臓や肺への転移が広がって、動けなくなりましたが、その病院への再入院は満床であるとして断られ、当院へ訪問診療での管理を希望されて来られました。

 やはり亡くなられる二ヶ月前に「先生、治るでしょうか。」と聞かれました。「治ると良いですね。」と答えると、「なんじゃそれは。」と怒り出されました。モルヒネも命を縮めると嫌がられ、家族からは最後まで「がんばれ。」と励まされ、手術をした病院を怨みながら、鬼のような形相で亡くなられたのは残念でなりません。

18)治ると良いですね(その三)

 歎異抄の読書会で他力の方は、徐々に淡々と死を受け入れていかれるが、自力の方はプツンと切れるような「死の受容」をされることが多く、それが現実的な死に間に合えば良いが、間に合わなければ苦しみは倍加するというお話をしました。それは、それぞれの宗教によるのではなく、人によるのではないかという御批判も頂きました。このことは、これからの研究課題のひとつと考えています。

 まとめとして確認したいのは、「死の受容」があって、家族や友人の愛に囲まれ、医学的な方法も加えて苦痛を和らげた死というのは、神々しいばかりの雰囲気があるということです。在宅死をされた時には、必ず通夜に出るようにしています。直接看病や介護をされた方に、「ごくろうさま。」と言うのが、かかりつけ医の最後の務めと考えています。その時、家族の中に、悲しみの中にも温かさを感じます。特に子供達が良い顔をしています。非行に走っていた子供が、祖母の死に立ち会って、立ち直ったという話も聞きます。

 現在多くの方が病院で亡くなられます。亡くなられる瞬間は、家族も病室から一旦外に出されます。子供達が立ち会うなどということは、まず考えられません。現実的な死が見えなくなっているのです。子供に死を見せるのは残酷だという考えがあります。戦争や飢餓のような惨めな死、残虐な死は見せてはなりません。しかし尊厳ある死は見せるべきだと思います。子供達が、現実的な死を知らないから、詐欺的な「宗教」に引っかかるのだと思います。助かる可能性が少しでもある場合は、病院に行く必要がありますが、老衰や癌の末期ならば、家で死を迎え、子供達に死を伝えることも必要だろうと思います。

コメント(22)

うちも、家族は基本的に部屋の中です。
子どもも一緒と言う事は可能です。

在宅でも、病院でもその人が希望した環境で亡くなっていく事に周りがこっちが良いとか悪いとか、言えないかな?とは思っています。
ただ、在宅を希望された時に在宅に帰ってもらう事が出来る社会資源と調整は十分に提供が出来るようにしたいと考えています。

でも、一人暮らしで難しかったり、すんなりはいきませんね。
たあさん、はるな☆さん、こんばんは。

 レスありがとうございます。この連載は、7年前に介護保険開始前の状況で書いたものですので、少々状況は変わってきていると思います。父親が1昨年入院した時には、1病棟全室個室という所で、部屋もゆったりしていました。これなら自宅と変わらない看取りもできるなと思いました。

 小生が勤務医をしていた頃は、特室でなければ、キーパーソン一人か二人残して、エンゼルに入るというのが一般的で、後は廊下か病棟の食堂か外来待合で待つ状態でした。医療職の対応の問題ではなくスペースの問題が大きいと思っています。

 介護保険が始まって、交見制度もでき、現在は小生の所から支援に入っているお宅では、独居であっても在宅死を希望されれば、それを叶えることはできる状態になっています。ただし友人の手助けや隣近所との関係が上手く行っている場合ですが。

 2001年までは、年間死亡者数が90万人台でした。それが2038年には170万人になると推定されています。それに対して病床数は、2001年には一般病床127万床、長期療養25万床であったものが、現在の急性期病床96万床、長期療養38万床から、3年後には急性期病床65万床、長期療養15万床になります。

 最近、24時間体制で在宅医療・介護支援をしていたら、夜間の検屍で警察から呼ばれることが多くなってきました。ほとんどが病院通院者です。果たして病院が患者さんを抱えようとしていることが良いのか。在宅が理想かどうかより、現実への対応として、自宅で亡くなることが可能なシステムを創って行くことと一般住民の意識の変わっていくことが必要と考えています。
一通り読ませていただきました。ここ10年程の医療情勢の変化はまことに目まぐるしく、政治的、医学的、文化的、労働的に、それぞれ関連して変化しており、一体何がこの変化を突き動かしているのかさえ、見失いそうになります。翻弄されるという感じでしょうか。
その中で、在宅医療は不十分さも沢山ありながら、ナラテイブな医療が必然的に中心となり、創造性も心意気もまだまだ発揮する余地のある分野だと思っております。
先生の実践、考え方、大変参考になりました。
有難うございます。
こんばんは
在宅でケアマネをしているものです
ケアマネを始めた頃、もう4年近く前になるのですが

ガンの末期で「今なら一度家に帰れる」だろうと言うことで、県立病院から退院した方を担当させていただきました。
近隣に在宅医療をして下さる医師を紹介することなく、在宅介護につなぐこともせず退院させた病院に、今となっては怒りさえ覚えます。
妻が、「全身にガンが転移し、ひどい痛みがあるが、家で入浴させたいので住宅改修を」と相談に来られました。
結局、本人はガンであることを知らされず、「自分でトイレまで歩いて行って排泄したい。歩けるようになりたいから、リハビリをしたい」という事だけを希望されました。
脊椎にガンが転移し痛みのため夜も眠れない、食事もとれないような状態で「リハビリをする」事だけが生きる希望になっていました。
介護者である妻も「本人に生きる希望を持ってほしい」と骨折のリスクなども了解の上在宅でのリハビリを希望しました…
しかし、訪問看護ステーションからのPT訪問は事故のリスクが高いので受けられないと断られました。
「歩けるようになる」事が目的ではなく「最期の希望を叶える。生きる望みを持つ」事が目的であるのに…

「痛いから看護師の訪問キャンセル」などと言うこともたびたびあり、そうかと思えば「便が出ないから看護師の訪問を」と予定日以外に希望されることもありました。
「事業所として困る」と言うような苦情を言われました。

結局、病院に戻ることなく自宅で急死されました。

最期の希望を叶えてあげるという支援ができなかった自分の未熟さも、県立病院の横暴な退院も、訪問看護のターミナルケアへの姿勢(本人、家族に対する精神的なケアも含めて)全部に対し、後悔と怒りの念でいっぱいです。

ターミナルの人だけでなく、人生の最後までその人らしい生き方を支援することは、本当に難しく、あきらめかけたり、いい加減になるときもあるけど、反省を繰り返しながら少しずつ進んでいきたいと思います

思い出して書き殴りました。

先生の話は全部参考になりました。ありがとうございました。

自分の最期は自宅で家族に看取られ苦しまない死をと望みます。
さきほど、藤・霽月のトピックを読みました。

ご飯を食べながら、家の家族と告知について話ました。

これは、ひとつの例として書かせていただきますね。

たとえばフランスでは、30年前までは、告知をしなかったようです。
今は必ず告知をするようです。
残された人生をどう生きるかが、大切だからだそうです。

しかしその告知には、責任があると思います。

例えば、こちらの大学の医学部には、お医者さん、看護婦さんなど、医療に関わる方を対象に、1年間の講習「緩和ケアー」の教育機関があります。

また1年間の病気の方が亡くなられた後に残される「家族へのケアー」の教育機関もあります。

どちらの講習も、まったく宗教に関わっていません。

私が思うに、そういった心のケアーがあってはじめて、告知が可能ではないかと思います。
そうすれば、「治るといいですね」などと言わなくなると思います。

また、心を受け入れる器ができていないのに、
お医者さんに告知をされるのは辛いだろうと思います。
でもお医者さんに告知されず、ごまされているのを感じながら、
残りの人生を歩むのはもっと嫌なのではないでしょうか。

だから、告知後、心のケアを受けられる社会になるといいなと思いました。
どっちが良いのでしょうかね。
難しいことだと思います。
実際今まで色んなターミナル見てきましたけど
告知未であっても 自分の死ってなんとなく分かるものではと思います。 

うちの祖母も後1ヶ月と言われ、祖母には告知未であったけど
在宅希望して コドモ 孫とで看て来ました
ホームDrも探して、 訪問看護と介護を利用しましたが
親族の中に看護師3人 学生1人いたので 殆ど自分たちでやってましたが・・・・・。
なくなる何日かまえまで、出ない尿にもトイレに座りたいといわれればトイレに座らせたり 祖母が望むことをしました。

なくなる当日の言葉だけは忘れることができないものとなりました
「もう 死んでもよかね。 何でこうなったんだろう」と言う言葉。亡くなった時に 叔母と 従妹と 私たちの自己満足だったのか? やっぱり病院に入院させたほうが良かったのか?と話したこともあります。
夜勤明けでも休みでも日勤で仕事した後も 休む事無く祖母の家に通った私たち。当然ひ孫である娘にもおばあちゃんの最期を見せていきました。
人はどのようにして亡くなるかを小さい頃でも見せていきたっかたから。
コドモはすんなりと受け入れしました。
大好きなひぃおばあちゃんがいなくなることは寂しいけど。
弱っていったおばあちゃんを看ていくことで、やっと寝れたんだね。 と言ってた。
今でも、ばーちゃん元気にしてるかな?
旅行にっても ばーちゃんのお土産といって買って行ったりします。
だから 子にみせていってよかったと思います。

在宅は 本当に家族の力もいると思います。
けど、凄く学べるものもある。

病院だと時間が制限されている。思うようなことができない
色々あるけど

私がいる病院は ターミナルでもう何もしないと家族が言っても 治療と説明して延命させようとすることがります。
??と思いながら仕事してます。
家族が一切来ないなんてのもあります。

本人は一度帰りたいという方もいますが受け入れてくれなければ夢で終わります。
難しいです。

もっともっと自分も勉強しなきゃと思い 進学してます。
終末期看護と心理学を学んでるけど、 大学卒業したらターミナル期のある病院で働いていくか訪問看護へと進みたいと思ってます。
在宅ホスピスケアに携わる看護師です。
告知の問題はずっと抱えていかなければならないのかもしれません。しかし、当事者が何を望んでいるのか、しっかりとコミュニケーションをとりその人に寄り添うことが出来たら、きっと告知がその人にとって必要なのかが見えてくると思います。
なぜなら、当事者は自分の体の変化に気づいています。
その気づきを確実なものとするのか、良くならないことは分かっているが、認めたくないという思いがあるか。
年齢・性別など置かれている環境によって様々です。
その人がどんな人生を歩んできたのか、その人をしっかりと受け止めてあげられる、そんな看護師になりたいと思います。
<4:>Dr うなさん、こんばんは。

 コメントを付けていただけていたのを見落していました。申しわけありません。

> ここ10年程の医療情勢の変化はまことに目まぐるしく、政治
> 的、医学的、文化的、労働的に、それぞれ関連して変化して
> おり、一体何がこの変化を突き動かしているのかさえ、見失
> いそうになります。翻弄されるという感じでしょうか。

 この連載を受けたのは7年前ですので、随分状況は変わってきました。昨年の在宅療養支援診療所の制度から、さらに活動が深化し、広がってきているような気がします。

> その中で、在宅医療は不十分さも沢山ありながら、ナラテイ
> ブな医療が必然的に中心となり、創造性も心意気もまだまだ
> 発揮する余地のある分野だと思っております。

 同感です。

<5:>かっちんさん、こんばんは。

> 在宅でケアマネをしているものです

 御苦労様です。今回のケアマネ現任研修で「居宅療養管理指導」の2時間半の講義を受け持ちました。質問として出されたものは、やはり昨年から対象となった比較的若い方の癌末期への対応の困難さに関するものでした。

 病院も地域連携室を設けられて、徐々にではありますが、ケアマネや在宅介護・医療支援専門の診療所との連携が良くなってきている気がしています。あと一歩といったところではないでしょうか?

> 「痛いから看護師の訪問キャンセル」などと言うこともたび
> たびあり、そうかと思えば、「便が出ないから看護師の訪問
> を」と予定日以外に希望されることもありました。
> 「事業所として困る」と言うような苦情を言われました。

 こうした疼痛コントロールの問題のある方や中心静脈栄養等高度の医療処置のある方は、訪問看護が月水金で入るならば、当院の訪問診察は火木土で入り、日曜日は隔週交互として、訪問看護と訪問診察は1日の管理料と考えましょうというのを、連携訪問看護ステーションと取り決めています。

<6:>りょーちさん、こんばんは。

> 特に東京の聖路加国際病院などは設備、医師達の志、どれを
> とっても秀逸でした。

 小生の臨床心理・心療内科・ホスピスケアの師匠は、日野原重明先生の弟子でした。「治ると良いですね!」という声かけは、25年程前のホスピスケアの研究会の事例検討の中で、日野原重明先生が、この場合は、これしかないでしょうねと言われたものです。

 つまり、この言葉を日本で最初に使われたのは、あの経験豊かな日野原重明先生であるということからも、その背景にある状況の重さを感じ取っていただければと思いましたが、無理だったでしょうか?

 エリザベス・キュプラー・ロス先生の所で、チャプレンをされていた先生にも尋ねたところ、欧米でも稀に、こういう状況になることがあって、30年前の文献の中にもあるので、それを日野原重明先生が読まれていたのではないかということでした。

 残念なことに、欧米では稀でも、我国では時々あることなのです。これには、やはり宗教の問題が絡んでいますので、詳しく述べるのは控えさせていただきますが、これまで約750人の看取りに立ち会ってきましたが、その内約40人で、こうした声かけをしました。さらに、その内の1名が上記の失敗例です。

> 私は個人的には告知はすべきでないと考えています。医師は
> 嘘をついているというのは逆に医師の完全な奢りだと思いま
> す。その人がいつ死ぬかということに対して医師は人はすべ
> てを知ることはできない。

 小生が主張してきたことは、病名と病状の告知のみです。余命告知をすべきでないことは、全くの同感です。

> 結局、告知というのはするか、しないかという二元論的なも
> のではなく、その患者の心理を、性格を深いところでくみと
> った上で行うか、それもどういう形で行うかということを考
> えなければいけないと考えます。

 これは、ホスピスケアに当たるものの基本中の基本です。しかし、これだけでは何ともならない応用編のテクニックというものもあるのです。

> 『治るようにともに努力しましょうね』という言葉の方がま
> だ人間的だと思うのですが、本質からずれていたら申し訳あ
> りません。

 これはレジデントの時に、小生がやってしまった失敗です。これを切欠に、日野原重明先生の研究会に顔を出すようになりました。癌性リンパ管症による換気血流不均等分布による呼吸不全や悪液質からDICが起こってきた段階で、自らの死が近いことを悟っていても、まだ「死の受容」のできてない状態では、嘘に対して非常に敏感になります。「嘘つきの顔は二度と見たくない!」と言われた時の小生の想いが理解できますでしょうか?
<10:>ハッピーアキさん、こんばんは。

> たとえばフランスでは、30年前までは、告知をしなかった
> ようです。
> 今は必ず告知をするようです。
> 残された人生をどう生きるかが、大切だからだそうです。

 全く同感です。このために、これまでの主張を行ってきました。

> 1年間の講習「緩和ケアー」の教育機関があります。
> また1年間の病気の方が亡くなられた後に残される「家族へ
> のケアー」の教育機関もあります。
> どちらの講習も、まったく宗教に関わっていません。

 我国も、こうした研修を最近始めてきています。小生も短期でしたが、カナダに行っていましたので、思うのですが、宗教への関わりがないのは、欧米ではキリスト教が根付いているからではないでしょうか?このことの基本はできていることが前提になっているような気がします。正月は神社へ、結婚は教会へ、葬式はお寺へという方の多い我国は、やはりこれが無いとは難しいなと思います。

> 私が思うに、そういった心のケアーがあってはじめて、告知
> が可能ではないかと思います。
> そうすれば、「治るといいですね」などと言わなくなると思
> います。

 残念ながら、心のケアがあっても、「治ると良いですね!」と言わざるを得ない状況というものもあるのです。

> だから、告知後、心のケアを受けられる社会になるといいな
> と思いました。

 臨床心理士も増えてきましたし、最近は宗教家との連携も取れるようになってきました。まだ一部ですが。キリスト教はホスピスへ積極的に参加してくれるようになって来ていますが、仏教はビハーラへの動きは鈍いと言わざるを得ません。

<11:>ichigomilkさん、こんばんは。

> 実際今まで色んなターミナル見てきましたけど
> 告知未であっても 自分の死ってなんとなく分かるものでは
> と思います。

 先にも述べましたが、余命告知はしないほうが良いと思います。また、これも先に述べましたが、呼吸不全やDICが起こってきた時には、ほとんどの方が、死が近いことを体で感じ、死期を悟る状態になっていると思います。

 しかし、この状態では、ほとんど何もできません。別れを告げることだけになってしまうような気がします。「死の受容」は、もう少し早い段階であったほうが良いのではないかと思っています。
 

> 祖母も後1ヶ月と言われ、祖母には告知未であったけど
> 在宅希望して コドモ 孫とで看て来ました
> ホームDrも探して、 訪問看護と介護を利用しましたが
> 親族の中に看護師3人 学生1人いたので 殆ど自分たちでや
> ってましたが・・・・・。

 御苦労様でした。

> 人はどのようにして亡くなるかを小さい頃でも見せていきた
> っかたから。
> コドモはすんなりと受け入れしました。
> 子にみせていってよかったと思います。

 良かったと思います。

> 終末期看護と心理学を学んでるけど、 大学卒業したらター
> ミナル期のある病院で働いていくか訪問看護へと進みたいと
> 思ってます。

 頑張ってください!
<12:>プロントさん、こんばんは。

> 告知については、「する」「しない」というような事は決め
> られないな〜と日々感じています。
> 「知る権利」があると同時に「しらないでおく権利」もあり
> ます。

 カナダで触れた「レット・ミー・ディサイド運動」に、帰国後は加わっています。当然、選択というものはありだと思っていますが、癌や難病であることすら知らなければ、患者さんと医療者が協力してということは、なかなか成り立ち難いものと思っています。

> まず、余命何ヶ月というようなものが告知だと思っていませ
> ん。

 全く同感です。しかし上手く病状説明するということは必要になります。

> 家族は、告知をされた本人を支える自信のなさから、本当の
> 事は言わないで・・・っと言われるのだと思います。そこ
> は、医師・看護師皆で支える保障をすれば、家族の不安は、
> 減ると思います。

 まだまだ我国の現状は、患者さん本人中心という考えが浸透していないのが、こうしたことを難しくしているような気がします。

> あと、「治るといいですね」という声かけについて、怒った
> 患者様がおられたと書いてありました。わかるような気がし
> ます。
> きっと「気休め」「その場しのぎ」に聞こえたのではないで
> しょうか?

 これについては、先に書きましたように、こういう状況になることもある。その一言の裏にある、状況の重さを感じていただければと思います。そして、この言葉を使えるのは、主治医とチャプレンだけであり、それらの研修の場でなければ、日野原重明先生も触れられない話だと思います。職種による対応の仕方の違いというものもあると思っています。

> うちの病院は臨終の時は家族みんなで送れる環境を整えま
> す。ベッド柵も外し、モニター類は最小限です。先生方も初
> めは嫌がってましたが、最近では「モニター?いらんわ!」
> と言われたりします。
> 人生最期の時を大切に送ってあげたいですね!

 最近は、こういう病院も増えてきているようですね。

<13:>かおさん、こんばんは。

> 告知の問題はずっと抱えていかなければならないのかもしれ
> ません。しかし、当事者が何を望んでいるのか、しっかりと
> コミュニケーションをとりその人に寄り添うことが出来た
> ら、きっと告知がその人にとって必要なのかが見えてくると
> 思います。
> なぜなら、当事者は自分の体の変化に気づいています。
> その人をしっかりと受け止めてあげられる、そんな看護師に
> なりたいと思います。

 特に在宅介護・医療支援では、訪問看護師の役割が最も大きいと思います。これに関わる医者は、本人と家族と訪問看護師の道具になれれば良いのですという講演をさせていただいています。ただ、訪問看護師だけで抱え込まず、多職種連携ということも、特に終末期では、頭に置いておいていただければと思っています。
藤・霽月 さん、こんにちは!
またまたハッピーアキです。

藤・霽月のお話しされた宗教について、ひとことカキコします。

パリに住む70パーセント以上は外国人です。郊外を含むと、もっと多いと思います。
中には、宗教がないと社会が成り立たない国の方々も、ここには住んでいます。
だから、どの宗教の方にも、受け入れられやすいよう、むしろ避けていると思います。

ホスピスには、アラーの神を唱える人と、キリスト教徒と、ヒンズー教の方が
隣のお部屋同士、または2人同室もここではあり得ます。 笑

だからこそ、大学で専門的に、心のケアーの講習があるのです。
緩和ケアーや、残された人々(家族、友人)の心のケアーは、
宗教から遠ざかったところで、心理学者と共に、何かを探し求めています。
(主観的ですが、それはむしろ、仏教的な考えに近いと思います。)

私もまだまだ勉強不足ですので、表面ばかりの意見かもしれませんが、
宗教が積極的に緩和ケアーにつながるのは、早く整備されていいし、
その信仰者には良いと思いますが、私には、少々その積極性に怖さを感じます。。

藤・霽月さんの意見に真っ向から反対してるわけではないです。
でも、宗教には好みがある事を知っておいて頂きたいと思います。

宗教があって始めて成立する組織以外にも、専門的教育を受けた、宗教に関わりない方々のケアーの受けられるホスピス、パリアティフ病院ができるといいなあと思います。

いずれ、私もお世話になるかもしれないですから。。笑

あと、私事ですが、私は2年前、母を亡くしました。
一緒に住んでいた家族誰一人気づかず、自宅でひっそり急死していました。
日本に戻るのに2日もかかってしまい、やっと顔を見られたのは10分程度でした。
母は、1ヶ月前から、急に部屋の模様替えをし、身の回りの片づけをし始めていたそうです。
ショックでまっすぐ歩けなかったです。。。

看取りは、できれば全員で。。。
表現が適当かどうか分かりませんが、「さよなら、またね」があれば、最高のお別れのような気がします。

病気の方がそんな心の状態になれるよう、スタッフが、家族との間でじょうずに援助できていければ。。そんな1人になれれば。。と思います。

私の勝手な理想論ですが。。。

藤・霽月 さん、こういったカキコの場をくださり、ありがとうございました。
<19:>りょーちさん、こんばんは。

 <6:>と<19:>の御発言の間には、二つの矛盾点があります。これは、現場に関われば、直ぐに気付かれることですし、今後この方面に進もうとされておられるようなので、たぶん解決されるだろうと思っています。期待しています。ホスピス・在宅ホスピスに関わる医者は、現在の倍は必要です。若い方が、こちらに進んでいただけることを歓迎します。

<20:>ハッピーアキさん、こんばんは。

> パリに住む70パーセント以上は外国人です。郊外を含む
> と、もっと多いと思います。
> 中には、宗教がないと社会が成り立たない国の方々も、ここ
> には住んでいます。
> だから、どの宗教の方にも、受け入れられやすいよう、むし
> ろ避けていると思います。

 フランスは外国人を、かなり受け入れているのだということを知りませんでした。小生は、アメリカとカナダとニュージーランドしか知りません。フランスとイギリス系の国々とでは、違うのかもしれませんね。先にも述べましたが、信仰の持ちよう(もちろん、しっかりしたもの)で、他の宗教も認めるということもあるのですが。

> 大学で専門的に、心のケアーの講習があるのです。
> 緩和ケアーや、残された人々(家族、友人)の心のケアー
> は、宗教から遠ざかったところで、心理学者と共に、何かを
> 探し求めています。

 看取りの支援の7〜8割は、この分野の基本中の基本の心のケアだけで十分なことができます。しかし残りの2〜3割は、それだけでは済まされないというのが現実です。多くの方々が、心のケアが十分で救われたという話をされます。それは、それで良かったね、良い話ですねという想いを持ちますが、専門職としては、それだけでは不十分だということです。

 それぞれの信仰・信条に合わせた(寄り添うことだけでなく、行動変容のための面接技法も宗教家との連携も含めた)対応が採られることが必要だと思います。問題にされた一言、これはあくまでも、ある特殊な状況に陥った場合の話であることを、読み取っていただければと思います。
自分の父は昨年の暮れに亡くなりましたが、家族の連絡が遅く自分は看取ることが出来ませんでした・・・。
いまだに心残りで哀しく、辛いです。
最期のときを共に過ごしたかったです・・・。   
仕事をしているから連絡を寄越さなかったとか、傍に居なかった者が等と言われ、看護師をしてきたことも虚しくなっています。
共に過ごす時間が、欲しかったです

ログインすると、残り9件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

終末期のケア・家族への支援 更新情報

終末期のケア・家族への支援のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング