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古地図が好きだコミュの大した話やないですが

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社会人に成り立ての頃に買った道路地図がすでに「古地図」と化してるのに気付き、笑いました。
というか、他人に笑われました、笑。

ものは大切に!


コメント(8)

え〜と!既設トピを利用させて貰って拙日記の転載
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=2145604&id=1871775276
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京都の古刹・臨済宗妙心寺派の総本山−妙心寺の北門の前に立ち、世界遺産の1つ仁和寺への道を尋ねられたら…どう答えるだろう?

おそらくは「この道をみちなりに斜め西へ進み嵐電妙心寺の駅を越え数百m程で五叉路にでます。そこが仁和寺の南東角であと200m程西に二王門があり入口です」が現在なら正答だろう。

でも18世紀半ばの森幸安の地図には、そのような道は描かれておらず妙心寺北門の前の道を直線的に双ヶ丘の麓まで進み北に折れると二王門となる道しか書かれていない。
(図1)

おや?と思い明治22年(1889年)の測量を大日本帝國陸地測量部が作成した地図を眺めると同じくL字型の道しか書かれていない。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2334.html
(図2)

だが、同じく大日本帝國陸地測量部の大正11年(1922年)の地図には斜めの道がかかれている。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2349.html


どうやら、この33年間に斜めの道は作られたのらしい。
日文研の所蔵地図データベースでその間の地図を漁ってみる。

約50枚の地図がヒットしたが、この頃の京都市上京の西端は紙屋川(下京は大宮)。京都市郊外は今の市バス路線図と同じく圧縮されてお座なりなものが多く、しかも仁和寺まで書かれているのは少数
公式な測量地図はこの間にもあるのだが、日文研の所蔵リストにはない!
しからば「地形図の楽しみ」
http://www.geocities.jp/nomonomo2008/
で探ってみると明治42年(1909年)測量、大正元年の5万分の1地図
http://www.geocities.jp/nomonomomaps20000/Kyoto/KyotoNorth/KyotoNorth.jpg
があった。ここには斜めの道がかかれている。

−20年間に道路作成期間は短縮−

その間の地図を日文研で再検索してみると…
「明治京都」−明治30年頃ヵ(1897年)には斜めの道が描かれ
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_25.html

「最新實測京都新地圖」−明治41年(1908年)には記入されていない。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2245.html
(東が上の地図)


どうやら明治30年代に作られ知れ渡ったのが明治40代(大正)
この期間にナニがあったかを当たってみると…
京都電灯の北野線−現京福電鉄北野線(嵐電)が開業したのは1925年
上記の地図のどれにも軌道マークは書かれていない。

ただ、御室小学校−学校の歴史
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp//omuro-s/sub2.htm
によると
『1898(明治31)年 現在の場所に移転。その後,御室尋常小学校と改称。』
とあり、1909年の地図には「文」マークが書かれているが、この移転が契機となっての道路敷設かどうかは確証はない。


ところで、アスニーの平安京模型には、この斜めの道が造られているのです
撮影禁止だから某所からのコピペ
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/2005to/ninnaji_en70.jpg
(図3)
>>[001]

こんにちは。
いつも活発なコメントやトピに感謝しています。

今回もなかなかのマニアぶりで素晴らしい考察レポです。
本当にマニアですね、笑。

でもこういった考察なんかが古地図遊びの醍醐味ですよね。
地図や実際の街並みや地形から古の景色に想いを馳せる。
ロマンですね。

ところで少し前にニュースで
「戦前の京都の航空写真が見つかり、一般にも公開する予定」と聴いたのですが、その話題ご存知ありませんか?

〉[002] 春・NMGさん
》ところで少し前にニュースで
》「戦前の京都の航空写真が見つかり、一般にも公開する予定」と聴いたのですが、その話題ご存知ありませんか?

おっ!初耳耳
今は携帯なのでPCが触れる環境に戻ったら検索してみます。
情報感謝わーい(嬉しい顔)

知っているのは昭和20年代の米軍撮影もある
国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/

戦前から終戦後の商店の様子まで詳しく判る
http://www.geo.lt.ritsumei.ac.jp/meisaizu/googlemaps.html
かなウインク
またもや拙日記からの転載

添付の画像を広げてみて下さい。
明治22年(1889年).帝國陸地測量部作成の地図の上に同志社女子大.山田教授考証の戦国期上京下京図(いわゆる室町1筋で結ばれた鉄亜鈴型の京―黄色の部分)を重ね下に現在の河川図を置いて田畑部分の緑を強調させたものです。

400年間の差異をみると鉄亜鈴のくびれは無くなって楕円形になっている他はさほど市街地は拡大していません。南には七条停車場(現:京都駅)までは町並は広がっています。でもこれは17世紀にできた東西本願寺の門前町ともとれます。また東にも鴨川まで(一部川端祇園では東山まで)広がっています。

でも北には戦国期の北限が蘆山寺なのに、それから鞍馬口までしか広がっていません。西に至っては広大な農地が御土居の内側でもあり【御土居が明治22年にはくっきりと西側は残っています-今は残滓が点在するだけですが】上京では堀川から大宮だった町並みが千本まで、下京でも西洞院から堀川の町並みが400年で大宮にまでしか至っていません。

京都の町並みが拡大していくのは20世紀のことで桃山.江戸の期間には、上京―下京のくびれが無くなる程度の拡張だったことがみてとれます。町並みが市電外周域にまで至るのは昭和も中頃でしたでしょう。
FLASHで部分拡大できる地図をクリップボード経由で合成して大画像地図画像を作ってみました。(ここまでは過去何度か経験あり…)

今回それを1:√2のピースに再度4分割して印刷を掛けて糊とセロテで貼り合わせA4用紙を4枚でA2のポスターを作ってみました。ナカナカの出来で貼り合わせ部分も(敢えて)気にしない...もとい..気にならない(笑)

添付画像はどーせmixiが縮小するから印刷してもボヤけるはずです(笑)しかも3枚しか貼れないから1枚割愛
1940年代の京都の地図がウェブに何種類か上がっている。
それを並べて眺め比べることで往時の姿が浮かび上がってくる。

その1:国土地理院にある空中写真
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
で左の選択画面で1946年までの空中写真にチェックを入れ右の地図を京都四条大宮にすると
1946/10/2に米軍撮影の空中写真が選択され、高解像度表示を選ぶと
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1182306&isDetail=true
が別タブに表示される。
四条大宮部分を切り取ると
《図1》
となる。

その2:京都市明細図オーバーレイマップ
京都府総合資料館のサイト http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/gaibu.html から
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京都市明細図

 文部科学省グローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」(立命館大学)の歴史地理情報研究班による研究成果です。
現在の地図から「京都市明細図」を閲覧する(外部リンク)
「現在の京都市街と「京都市明細図」を比較する(外部リンク)
(現在の地図に「京都市明細図」の位置を配置したもの)
 ※IE(インターネットエクスプローラー)のバージョンにより、地図画面の右上にあるスライダーが表示されないことがあります。この場合は、ブラウザの「互換表示」を有効にしてご利用ください。
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から【「現在の京都市街と「京都市明細図」を比較する(外部リンク)】をクリックすると
京都市明細図オーバーレイマップ
http://www.geo.lt.ritsumei.ac.jp/meisaizu/googlemaps.html
が表示される。右上のスライダーを右端に寄せ透明度を最小にして四条大宮部分を切り取ると
《図2》
となる。

その3:U.S. Army Map Service, 1945-1946
アメリカ・テキサス大のPCLマップコレクションの1945年米国陸軍作成の地図
http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/
の中で京都市北部を選ぶ。
http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6533951n.jpg
四条大宮部分を切り取ると
《図3》
となる。

ランドマークとしては四条通り・大宮通り・堀川通りと斜線の後院通りの4幹線道路と市電壬生車庫・京福四条大宮駅・京都市立堀川高等女学校【現:京都市立堀川高校】・壬生寺・郁文高等小学校【現:洛友中学】が直ぐに解る。
だが、京福壬生駅は場所を知っていなければマズ見つからない(笑)
また1944年の堀川通り疎開が空中写真や京都市明細図では生々しい。ただ情報鎖国をしていた為なのか米国陸軍の地図には載っていない。
フォト 1
昭和15年京都府航空写真オーバーレイマップより西京極グラウンド 直線の天神川放水路をS字状斜めに御室川旧路が見える15年当時なら放水路は工事中で御室川は生きていた。画面右上から左下へ新京阪(現阪急京都線)の線路。

フォト 2
昭和15年京都府航空写真オーバーレイマップより西京区の「天皇の杜古墳」見事に田畑の中に前方後円墳がある。大正11年国史跡指定だから当時既に史跡として保存されていた。

フォト 3
昭和15年京都府航空写真オーバーレイマップより 宇治隠元橋上流の辺り 
この写真のみスタイダーをやや左によせ現在地名を読めるようにしている。
隠元橋は昭和24年に架けられ当時は影形はない。右側の白い空白部は現陸上自衛隊宇治駐屯地:当時造兵廠宇治火薬製造所 日中戦争のさなか軍事機密の為空白。
左は巨椋池の干拓が進みつつある 完成は昭和16年の為干拓中。

参考 昭和15年京都府航空写真オーバーレイマップ
http://www.geo.lt.ritsumei.ac.jp/S15photo/index.html
>>[7]の西京極グラウンドを
>>[6]でリンクした国土地理院にある空中写真
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
で1946年を見てみると…
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=36077&isDetail=true
5年間で殆ど変化は無いように見えるが…

野球場はともかく、その北西のグラウンドでは日本では【当時】余りポピュラーではない球技が行われた形跡がある。逆にグラウンドの白い線の間隔が10ヤードだから約9m 

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