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ラテン系人間の会コミュの懐かしい芸人(8/50): 上岡 龍太郎

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芸人論
http://www.youtube.com/watch?v=xJx5tnRgXBo&feature=PlayList&p=00618E0F20826E99&playnext=1&index=2
ダウンタウンDX
http://www.dailymotion.com/video/x2zcg7_dx_fun

上岡 龍太郎
(かみおか りゅうたろう、本名:小林 龍太郎、1942年3月20日 - )は日本の元漫才師・タレント・司会者である。旧芸名は横山パンチ、伊井パンチ。京都市出身、血液型AB型。2000年に芸能界を引退。長男は映画監督の小林聖太郎。

芸風としては、立て板に水を流したような流暢な口調と、理路整然とした語り、その一方で切れ味鋭い毒舌を吐きつつ、芸人としてバカを演じてオチをつける、というスタイルである。また、司会業に優れ、出演者のボケや主張に対してうまくツッコみつつ、ひとつの作品(仕事)を仕上げていくということができた。西条凡児以来の「知性で笑わせられる芸人」との評がある。

本人による自身の芸評
a.. 「僕は知的だといわれますが、適当なことばっかり言ってるんです。もっと知識のある人が僕を見て、『愛い(うい)やつじゃ』と嗤ってくれればいいんです」
b.. 「僕はしょうもないことはよく覚えてて、大事なところの知識がない。これを僕は『知識のドーナツ化現象』と名付けてます」

「インテリ」「知性的」「理論派」の芸風で人気があり、いわゆる上方お笑いの「コテコテ芸」からは逸脱していた。偏屈で、屁理屈をこねては鋭い毒舌を吐く印象がある一方で、言動に一貫性の無い部分もあり、それを洒落と受け止められない人もいたため、大阪でも好き嫌いは分かれていた。

番組で自己紹介をする際、「『私が』上岡龍太郎です」と、常に私がを付け、更に強調していたのが特徴であった(ちなみに探偵!ナイトスクープの現局長の西田敏行もこれを踏襲して「私が局長の西田敏行です」と自己紹介している)。それ以前には、「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、上岡龍太郎です」と自己紹介をしていた時期もあった。この変遷は、後の東京進出によりギャラが一流になってしまったため、もう「ギャラが三流」とはいえないと本人が判断したことによる(EXテレビ内での発言)。またこうしたセリフは、出演各番組毎に決まったセリフを言ってから繰り出すのが常であった。

横山ノックは上岡より10歳年長であり、上岡の師匠だと思われがちだが、実際は師弟関係ではなく、漫画トリオ(1959 年〜68年)結成時からの仲間である。ただし、漫才や演芸について は知識はあっても素人だったため、特にツッコミの入れ方でノックから厳しく指導された。ネタの構成等で上岡のセンスが必要でノックから声をかけられた。ノックのわがまま(参院選出馬)で活動停止となり、吉本にも戻れず干された時期があっただけに、ノックに対しては愛憎ともにあるといったところである。上岡曰く、ノックは自分の一番弟子(二番弟子が板東英二。もちろん、師弟関係ではない。正式な弟子は後述)。

売れ初めのころは自分のことの出た新聞・雑誌の記事をスクラップしていたが、たまたま見つけたノックが「そういうのはちゃんと残してくれる人が出てくるよ」と注意されたことに感動し、「残してもらえる芸人になろう」と発起したという。

夫人はパンチ時代のファンである。上岡に集まってきたファンの中から感ずるところがあり、「君は将来、ぼくと結婚する」と口説き続けていたと言う。当時、夫人はまだ中学生(上岡より7歳年下)であり、それを知った笑福亭鶴瓶からは、「あんた犯罪者や」と突っ込まれた(上岡夫人に関しては、ねるとん紅鯨団で観客席にいた女性を「あの人がタイプ」と語った後、「実は僕の奥さん」と紹介したり、自宅で後姿が写った写真が公開された事や横山ノックのお通夜へ上岡と一緒に参列した時に報道陣から車で去っていく写真を撮られたことがある)。

女性にはよくもてた。「囁けばみんな落ちる」と言われていた。これは、女性に左耳から囁けば右脳が反応し恋に落ちやすくなるという話を聞き、実践していたからだと言われている。黒柳徹子が徹子の部屋でやってほしい、と振ったことがあるが、これは理屈を並べて断った。

落語立川流の門下(Bコース)でもある。立川流での芸名は上岡自身が大ファンでもある市川右太衛門にちなみ立川右太衛門。また、上方お笑い大賞の大賞を受賞したときの授賞式のプレゼンターとして市川右太衛門が登場し、大感激の授賞式となった(市川右太衛門がプレゼンターでなければ断っていた、とは本人の話。もともとが賞嫌い)。

様式美を好むところがあり、前述の市川右太衛門のように、様式美の中で心躍らされるチャンバラ映画を深く愛している。そのため、リアルさを出していった黒澤明を非難し、黒澤以降の近年の時代劇映画のほとんどには否定的である。(「天国と地獄」など現代劇に関しては黒澤を認めていた。)また、松竹新喜劇にも強い敬意を払い、「変化座」構想を練り上げ、気の合う仲間たちと引退前の数年、新喜劇興行を行った(藤山寛美自身の賛同も得、寛美本人の演出も予定されていたが《演目は「愚兄愚弟」》、これは寛美の急逝のため、実現しなかった)。

また、1977年には3代目旭堂南陵に師事しその年の干支にちなんで「南蛇」を貰う。その後一年ごとに干支に因んだ名前「南馬」「南羊」「南猿」と改名し12年後に真打昇進するという計画を立てる。

九州王朝説=邪馬台国とは九州の邪馬'壱'国《小国》説の熱心な支持者としても知られる。

仕事以外では非常におとなしく、紳士然とし、後輩には優しいらしい。そのために芸人仲間や後輩の人望を集めているのだが、一方で、芸にはかなり厳しく、気に入らないことや人物に対しては本人の前だろうが、公衆の面前であろうが、カメラの前であろうが、本番中であろうが、容赦なくいじり倒した。これが「毒舌」と呼ばれ、人気も出たのだが、反面、敵が多かったのも事実である。

「某県は盗人が多い」「某県はほら吹きが多い」「(京都市の区のうち)某区は京都と認めない」など、一定の地域をステレオタイプ的に揶揄したりすることがあり(しゃれ、芸風だが)、真に受けた県議や知事らに抗議されたこともある(マスコミが煽ったきらいやこの件が引退のきっかけになったのではないのかとの説もある)。

眼鏡を掛けていないときの顔がミッキーマウスに似ており、また、眼鏡を掛けたときの風貌が横山やすしに似ていた為、「理性ある横山やすし」と比喩されたこともある。ところで、横山やすしはノックに弟子入りし、漫画トリオの付き人としてついていたが、少年漫才の経験もあった為、年上ながら漫才では後輩に当たる上岡に対しては複雑な思いを持っていたようだ。上岡も必要以上に「やすしは?」「木村くん(やすしの本名)は?」と口にすることによって、やすしを意識していたことが伺い知れる。「上岡龍太郎かく語りき」によると、やすしは「パンチさんと漫才したい」と先輩に相談したが、その先輩に「お前らはタイプが似てるから組んだら損や」と止められたらしい。

東京進出
大阪では長い間人気芸人であったが、東京を含め全国的には知名度は低かった。1990年代以前にもラジオや、テレビ番組「ラブアタック!」などの全国ネット番組に出演していたが、お笑い芸人としての人気は皆無に等しいほどであった。1984年10月2日に、横山ノックからの紹介で「笑っていいとも!」に出演したことがあるが、「東京は民度、文化レベルが低い」、「東京は田舎者の集まり」と東京を貶す発言を繰り返した上、お友達紹介で突然奥さんへ電話をかけるなどしたために、タモリも観客も戸惑うばかりだった。上岡もずっと「やしきたかじん同様、東京嫌い。東京では仕事をしません」「全国ネットでやってる笑いは程度が低い。僕がアホに合わせる必要はない」と公言していた。1987年に朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」に出演、甲斐智枝美扮する主人公が若いころに勤めていた美容室の店長の役柄で、おかま口調の大阪弁を使って好演したことをきっかけに、東京だけではなく全国での知名度が徐々に上がっていく。そのおかま口調の演技は絶品。大阪で人気深夜番組だった「鶴瓶上岡パペポTV」が1988年10月10日から東京で放送されるようになると、「鶴瓶の横にいるあの芸人はだれだ」と関心を集めるようになり、一気にブレイクした。

東京で仕事をするようになると、これまで「東京は嫌い」と言っていたことからその一貫性のない言動に反感を覚える人もいた。上岡が東京でのギャラについて、「びっくりしました。東京と大阪じゃギャランティの明細の額がゼロ3つ違うんですわ」と当時吉本興業取締役だった林裕章(後に社長・会長、故人)に言ったのは有名な話である。ギャグとして「(全国ネットの視聴者も)やっと僕の笑いが分かるようになった」とうそぶいていた。ただ、東京進出初期には「東京は田舎もんの集まりやろう。生粋の東京人でない人が、東京人ぶってるのが腹が立つ。帰れよ〇田や山〇に」と頻繁に言っていた。上岡自身は後に、「この発言で笑ってもらえると思っていたら、笑ってもらえなかった。それから言うのを辞めた」とEXテレビで発言している。またEX テレビで、東京嫌いの事を突っ込まれると、「ひがんでたんやろうな」と自嘲気
味に語っていた。

マラソン
かつては、テレビで堂々と「僕はゴルフはやりません」と公言しながら現在ゴルフを楽しんだり、「マラソンなんかしません」と言いながらマウイマラソンに参加している(95年の25回大会から冠スポンサーに。2006年10月現在でも、上岡の功績は大会HPで讃えられている)。ゴルフは番組で「番組でホールインワンをしたので、プロゴルファーになる」と発言、芸能界引退後にアメリカへ単身ゴルフ留学した。1995年には豪州のゴールドコーストにも挑戦しており、この時には一般ランナーの壁とも言える、4時間以内のタイムを大幅に上回り、3時間48分25秒で走破した。また、マラソン熱が高じてサロマ湖100kmマラソンのようなウルトラマラソンにも挑戦し完走している。「オールスター感謝祭」の「赤坂5丁目ミニマラソン」ランナーの常連、またはハンデキャッパーでもあった。
ゴルフやマラソンを始めるなど考えが変わったことについては、やしきたかじんが「東京進出で収入に余裕が出来たのでは」と分析、実際にいずれも東京進出後に始めている。

阪神タイガース
かつては大の阪神ファンで、フジテレビのLOVE LOVEあいしてるに出演した時はエンディング でランディ・バースと共に六甲おろしを熱唱している。だが、広澤克実の阪神入団が決まった際に、球団が背番号31(元ミスタータイガース掛布雅之の付けていた番号)を与えたことに激怒し、阪神ファンを“廃業”した。それ以後は近鉄を応援するようになり、「大阪市長選挙に出馬して当選したら大阪市で近鉄を買い取る」と冗談とも本気とも取れる発言をたびたびしていた。なお、2004年の近鉄消滅後はどのチームを応援しているかは不明である。

横山やすしややしきたかじんの様に芸には厳しく、短気で妥協を一切許さない一面があり、番組出演中に納得がいかないことがあれば番組を途中で降りたり、役割を忘れることがあった。

政治姿勢
「政治家でない以上、青臭いくらいの立場でいい」とのことで、「左派的」かつ「判官びいき的」姿勢である。90年代前半までは平和:市民を支持していた(ただし、立川談志を深く尊敬するように右傾姿勢の者に対しても議論さえしなければ許容している)。

引退
上岡自身は「ボクの芸は21世紀には通用しない」との言葉を残し、2000年4月をもって芸能界を引退する。
引退前は『シニアプロゴルファーになって、戸張捷よりも良い解説をする(選手や解説者であって、タレントではないから)』『ジョギングで桜前線とともに北上し、紅葉前線とともに南下する』『みんなが止めようとしないからやめざるを得ない』と発言していたため、それまでの転向癖もあって、周辺の中には「翻意するのでは」とする向きもあった。だが、現在のところ、一部の著述や発言を除いて、芸能の表舞台に現れてはいない。
また、引退を前にほとんどのレギュラー番組は終了したが、「探偵!ナイトスクープ」は唯一継続した。同番組のメインプロデューサー松本修は上岡が翻意したときを想定して約8カ月、上岡の務めていた局長役を空席にしていた。その後、2代目として西田敏行を迎える。まったく異なるカラーへの転換だった。
ごくまれに横山ノックなど知人の芸能人のパーティーやゴルフ大会などに顔を出すこともある。特に現在でも親交のあるオール巨人のブログには、芸人仲間との宴会・イベントの写真に見切れ出演することがあり、ファンにとって上岡の近況が確認できる貴重な情報源となっている。またやしきたかじんとゴルフを打ちに行っていることも、たかじんが自身の番組などで明かしている。
2002年2月9日に行われた出版記念サイン会では、「今の関西のテレビは上沼恵美子ばかり出ているから、出る気がしない」とテレビ復帰を否定していた。
そして、2007年5月3日に亡くなった横山ノックの通夜に参列するため、約7年2カ月ぶりにテレビカメラの前に姿を現した(青芝フックや月亭八方ら現役芸人と共に会場入り、そしてマイカーで夫人とともに会場を後にするところ)。だがマスコミの質問には終始無言のまま会場を去ったが、会場で大号泣していた。同年6月7日にリーガロイヤルホテルで開かれた「横山ノックさんを天国に送る会」では、「横山パンチ」の名前で追悼のあいさつを行い、涙ぐみながら感謝の言葉を述べた。その時、記者からのインタビューで、「抗がん剤使ってんの?」「使ってない」「でもハゲてるやん」「もとからやがな」などと見舞いに行った際の会話の内容を吐露した。
2007年6月17日に行われた桂雀々芸能生活30周年記念『雀々十八番』(会場:シアターBRAVA!)最終日のパネルトークにサプライズゲストとして出演した。
2007年7月7日京都南座での桂ざこばの会に特別サプライズゲストとして出演。
2008年11月11日、大阪市内で行われた桂雀々の小説出版記念パーティーに出席し、久々に公の場に登場した。

エピソード
a.. 20歳頃に三代目桂米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で十代目桂小米(のちの二代目枝雀)を見かけ、かなわないと思い、あきらめた。(上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続ける。自身が司会の「EXテレビ」にて笑いの理論「緊張と緩和」についてのインタビューを行ったこともある。)
b.. 引退後も米朝一門とは縁が深く、自身のコメントなどの管理窓口を米朝事務所に委託しているほどである。
c.. ラブアタックで一緒に司会をしていた和田アキ子とは和田の素人時代からの知り合いである。
d.. TV収録で占い師や超能力者を激烈に面罵するなどが有名だが、過去にオカルトと何ら関係の無いタレントの松尾貴史(当時、キッチュ)や生瀬勝久(当時、槍魔栗三助)にも収録時に激昂している。が、こちらの方はそれぞれ芸能界の中でそれなりの地位を築く事になる。
e.. 1990年代後半、番組で共演した高島忠夫に面と向かって、「あんた何も出来ひんやないか」と罵った事がある。これが1998年に高島が発症したうつ病の一因になったのではないかという見方が存在する。
f.. 1998年、ロス疑惑事件で長年拘留され釈放された三浦和義と対談。「彼は冤罪だ、絶対にやっていない」と出演するテレビ番組で何度もコメントしており、その後何度か三浦と会食している。
g.. 2001年、ダイエットに挑戦した嘉門達夫から「たった2キロでもつらいのに上岡さんはすごい。でも、体重を絞るために続けます」というメールを受けるが、これを「君はジョギングを冒涜している。動物は楽しければ走りたくなる。何かの為に走るというのは走ること自体を馬鹿にしている」と一喝した。嘉門はこれにめげず1ヶ月で体重を7kg落とし、見事ダイエットを成功させている。

経歴
a.. 父親は、京都で活動を行っていた庶民派弁護士・小林為太郎(旧姓・上岡)。日本共産党公認で衆議院総選挙に出馬したこともある(落選)。父への尊敬の念が強いようで、旧姓の「上岡」を芸名として名乗った。
b.. 母親は厳しく、上岡が10歳の頃に早世したこともあり、あまり記憶にないという。しかし、巨乳であった事と、母が乳癌を発病した際に霊媒師・占い師などが詰め掛けて食い物にした事だけははっきりと覚えているという。特に後者は、上岡の心にトラウマを刻み付け、オカルト物を徹底して否定させる原因にまでなった。
c.. 他の家族に姉が一人、異母妹が一人いる。
d.. 小学校時代によく映画(特に時代劇)に触れ、友達とはよく相撲をとっていた。また、この頃から鴨川から春画集(いわゆるエロ本)を拾って、四十八手などについて解説していたらしい。
e.. 他に、美空ひばりのエピソードに倣って、百人一首を覚えたり、露天商の口上を覚えたりと、この時期に吸収したものが彼の芸に存分に発揮されている。
f.. 私立京都西高校(現:京都外大西高等学校)第一期生として卒業。入学時にOTV(現:ABCテレビ)のニュース映像に写っており、「探偵!ナイトスクープ」でも放送された。現在もABCに報道資料映像として保存されている。しかし、立命館大学の受験には失敗している。
g.. 京都でバンドボーイ、ジャズバンドの司会などを経験。
h.. 1959年 ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」加入。
i.. 1959年 横山ノックの誘いにより「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。
j.. 1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により漫画トリオ活動停止。以後、「上岡龍太郎」に改名しピンで活動(同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」としても活動していた)。当初はほとんど仕事が無く「ホサれていた」時期として有名。(食いつなぐため、作詞などの仕事も請けている)
k.. 70年代、「ノックは無用」「ラブアタック」「花の新婚・カンピューター作戦」などで上岡は司会者として認知される。
l.. 1987年 「鶴瓶上岡パペポTV」開始。翌年から東京圏でも放送。全国的にも注目を受け始める。88年、「探偵!ナイトスクープ」開始。
m.. 90年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。九十九一などを見出したとのことだが、小劇団の限界を感じて、手を引いていく。※詳細データ求む。
n.. 2000年4月 芸能界を引退。

出演していたテレビ番組
a.. 毎日放送・JNN系
a.. 逸見のその時何が!(1993年)
b.. ムーブ・上岡龍太郎の男と女ホントのところ(1992 - 1993年 TBS)
c.. ザッツ!上岡龍太郎vs50人(1993 - 1994年 TBS)
d.. 上岡龍太郎がズバリ!(1994 - 1996年 TBS)
e.. おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ(1998年 TBS)
b.. 朝日放送・ANN系
a.. 探偵!ナイトスクープ(1988 - 2000年)
b.. ラブアタック!(1976 - 1984年)
c.. 大発見!恐怖の法則(1996 - 1997年)
d.. 龍の金印(1996 - 1997年・テレビ朝日)
e.. 超次元タイムボンバー(1996 - 1997年、テレビ朝日)
f.. 上岡龍太郎のイチャ門天(1997 - 1998年 テレビ朝日)
g.. 龍の福耳(1997年 テレビ朝日)
c.. 関西テレビ・FNS系
a.. ノックは無用!(1975 - 1997年)
b.. 花の新婚!カンピューター作戦(1978 - 1991年)
c.. ゴールデンタイム(フジテレビ)
※以下の3番組はフジテレビ制作の番組だが、関西地区はサンテレビ・KBS京都で番組販売でネットされた。
a..
a.. 上岡龍太郎にはダマされないぞ(1990 - 1996年 )
b.. もうダマされないぞ!!(1988 - 1990年)
c.. 上岡・ヒロミの花も嵐も(1996 - 1997年)
b.. ytv 読売テレビ・NNS系
a.. クイズ新幹線
b.. EXテレビ
c.. 鶴瓶上岡パペポTV → LIVE PAPEPO 鶴+龍
d.. 朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」
e.. ときめきタイムリー(1984 - 1996年)
f.. ミセス&ミセス(日本テレビ)
g.. ルックルックこんにちは(出演期間不明 日本テレビ)
h.. 新装開店!SHOW by ショーバイ2(1995 - 1996年 日本テレビ)
c.. KBS京都
a.. タイガースフィーバー
b.. 上岡龍太郎のおしゃべりゴルフ

出演していたラジオ番組
a.. ABCラジオ
a.. 歌謡曲ぶっつけ本番
b.. ポップ対歌謡曲
b.. MBSラジオ
a.. それいけ!
b.. 金曜12時上岡龍太郎がやってきた
c.. ラジオ大阪
a.. 歌って笑ってドンドコドン
d.. KBS京都ラジオ
a.. 一夕ニ聴上岡龍太郎のナツメロ大全集 注:大半はKBS京都テレビと同時生放送
b.. 上岡龍太郎のちょっと気にする金曜日
e.. 関西以外のラジオ局
a.. ばつぐんジョッキー(CBCラジオ)
b.. 上岡龍太郎のサタデーぴぷ(TBSラジオ)

受賞歴
a.. 1982年 第11回 上方お笑い大賞(読売テレビ) 功労賞
b.. 1989年 第18回 上方お笑い大賞(読売テレビ) 大賞

弟子
上岡龍太郎は弟子をあまり取らなかった。ぜんじろうが全国ネットでのレギュラーを持っていた時は、「そのとき売れているやつが一番弟子や」と言っているが、あまり師弟関係を意識していない、というのが実際のところである。

著書
a..  引退〜嫌われ者の美学〜 (青春出版社) ISBN 4413031768
b..  “隠居”のススメ 好き勝手に生きる (青春出版社) ISBN 4413021649
c..  上岡龍太郎かく語りき(ちくま文庫) ISBN 4480033386

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