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形が好きな人(空手)コミュの三戦・転掌について

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どーも、形素人の
けいです。

三戦・転掌と言うと、剛柔流が本流で呼吸法も『こぅ〜はっ!」って感じで豪快な印象を持ってました。
質問です。

糸洲流のDVDを見て感じたのですが、呼吸法は、無声か軽くもれる程度で実施してました。

摩文仁賢和が東恩納完量習った原型が糸洲流の三戦と考えていいのでしょうか?
剛柔流の三戦は、宮城長順が呼吸法〔息吹?〕をアレンジしたと考えていいのでしょうか?

また、転掌の創案は宮城長順と聞いています。
では、剛柔流の転掌が本流?
手の動きが大きく動かしていて、糸洲流の転掌は、コンパクトに動かしていました。
これは、摩文仁賢和のアレンジと考えていいのでしょうか?
質問ばかりですいません

コメント(22)

東恩納師範に最も長く就いていたのは、
1887年生まれの許田重発師範(1902年に15歳で入門)
1888年生まれの宮城長順師範(同年に14歳で入門。ただし、許田師範の方が数ヶ月入門は早い)
の両師範です。
1889年生まれの摩文仁賢和師範の入門は1908年、19歳での入門です。
1915年に東恩納師範が亡くなるまで修行したとした場合、許田・宮城師範は13年、摩文仁師範は7年の間、東恩納師範に師事したことになります。

許田師範は、東恩納師範の指導法を守り、伝統的な少人数向け指導を、
宮城師範は、首里手の糸洲師範の影響も受けており、革新的な大人数にも向く指導を成した。
との説もあります。
そのためかも知れませんが、東恩納師範が亡くなったとき、道場の衣鉢を継いだのは宮城師範でした。
東恩納師範没の1915年以降「那覇手」の筆頭は宮城師範であり、摩文仁師範や、後の宮城師範の一番弟子でもある比嘉世幸師範は、このときより宮城師範の弟子となっています。

なお、
許田師範の那覇手(東恩流)は東恩納師範の技法からの変化は少なく、
宮城師範の那覇手(剛柔流)は、東恩納師範の技法に、宮城師範がかなり手を加えている、
とも言われています。
(入門用の撃砕、閉手型の転掌は宮城師範作で、東恩流にはありません。)

さて、摩文仁師範ですが、1902年に首里手の糸洲師範に入門し、その後、上記の様に那覇手の東恩納→宮城師範に師事することになり、首里手と那覇手の修行を重ねたことはご存じと思います。
結果、摩文仁師範の技法は、「首里手にしては那覇手寄り、那覇手にしては首里手寄り」となる可能性を多分に秘めています。
「呼吸は自然に」行う首里手と「独特の呼吸法を持つ」那覇手を修行すれば、「やや静かに、独特の呼吸法を行う」形になるのではないか、と思われます。

最も、宮城師範の数あるお弟子さんの中には、「静かな呼吸法」の師範も居られます。
剛柔流の三戦が、全て荒々しい呼吸を行う訳でないので、上記はあくまでも仮説ではあります。
関係ないけど…… 会話のレベルが高いなぁあせあせ(飛び散る汗)
糸東流を学ぶ者ですが現宗家からのご指導の際に伺ったことですが三戦の呼吸は他人にわかるようなやり方はダメと指導された覚えがあります。ただ指導の際には子供達に分かりやすいように大きく気息の呑吐をします。
許田師範の型は是非見たいものと思い探していましたが、なかなか見られませんでした。関東近辺で伝承者がいればうれしいのですが。おそらくは摩文仁師範の型と近いのではと思っています。

比嘉世幸師範系はいくつかに分派していますが、私が見た派のものでは若干のマイナーチェンジがあつたようです。

千唐流などは静かな息吹ですね。この流儀も那覇・首里混合です。
内容のレベルが高すぎて読むのが精一杯なんですが冷や汗

上地流の開手で行う「三戦」、どちらも正式に習ったこと無いので(私は松濤館出身)握り以外の大きな違いがわかりませんが(上地流はさがらずに向きを変えてだったかな?)

このあたりの事も書いていただけるとありがたく思います
(こんなレベルですいません)
東恩流の動画ないでしょうか?

ベッチューリン・セイサン二種類・サンセールー
転掌については東恩納先生の弟子の摩文仁系もありますが、たしか摩文仁師範はその後宮城師範に弟子入りしたような記憶・・・・。

ただ、回し受けのところが若干違いますね。
東恩流のペッチュウリン(百歩進)ならば、九州で拝見したことがあります。
前半の三戦部分が特徴的で、両拳中段受けの「三戦受の姿勢」より、
「剛柔流:引手で長吸、突で長吐、中段受けに戻すために短吸、短吐」であるのに対し、
「東恩流:引手で長吸、突→中段受けに戻すまで長吐」
であり、呼吸の仕方そのものが違います。

このとき、三戦は拝見しませんでしたが、恐らくは上記のとおりと思われます。
許田師範の呼吸法が東恩納師範と同じであると仮定すれば、一般に私たちが見る「剛柔流三戦」の呼吸法は、宮城師範の創案ということになります。
(無論、逆の可能性もあり、宮城師範が東恩納式であり、許田師範は別の師範伝(こちらも名字は偶然同じ「東恩納」)の三戦であったことも充分あり得ます)

さて、宮城師範にはきら星の如く多くの優れたお弟子さんが居られましたが、剛柔流には、
A:前進後、反転、後正面方向に前進、再び反転、正面に向き、回し受け1回で終了
B:前進後、反転動作はなく、後退する。回し受け2回で終了
の2つのパターンの三戦があります。
Aは宮城師範前半生のお弟子さん、Bは後半生のお弟子さんが引き継ぎました。
これは、もともとAが本来の形でしたが、宮城師範が高齢となったため、指導はもっぱら道場正面に座って行う
こととなり、「師範に長時間尻を向けるのは失礼」ということで、後半生のお弟子さんたちが相談し、
Bの形となったとのことです。
(前進+後退の方が難しい動作なので、「より高度な技法を目指して」Bとなったとの説もあります)

呼吸音については、お弟子さんにより、呼吸音が大きい・小さいなど様々のようです。
ここまで多様であることを考えると「呼吸音はの大小は『結果』に過ぎず、正しい技法が身に付いているならばそれで良い」という事なのかも知れません。
さまざま御意見ありがとうございます。
皆さんの言葉を読む度に、空手の奥深さに胸踊らせてます。
年末の為
千葉の実家に帰省し、昔買いあさった雑誌や本を探ってみると、月刊空手道の別冊『源流沖縄空手』が出てきました。

そこに東恩流の特集があり
許田重発の事や、ベッチュウリンとスーパーリンペイは違うとか、歴史や形の理解の差異が書いてありました。
これを読むと、東恩納完量の原型に最も近いのは、東恩流ではないかと感じました。
また、東恩納完裕と云う人にも師事したとあり、どんな人なのかも気になります。
空手ロマンに
ハマリ中です
不思議な縁があって、許田重発先生の直弟子という先生(二名)と面識があり、一人から三戦を教えて頂き、もう一人から話を伺う事が出来ました。
その中、印象に残ったのは、この二人の先生がおっしゃった毎に「三戦の呼吸は、一人で鍛練する時に無音、師匠の前でやる時は分かりやすい様に音を出す」という話。
上地流をやる友人からも似た様な話も聞きました。
自分も一人で三戦をやる時に音をあまり出さない様にしてますし、ある程度出来る弟子にも同じ様に指導しています。
因みに、転掌も同じ様にしてますパンチ
> けいさん

あの記事は、当然のことながら東恩流寄りの記事でしょうから、そのあたりは差し引いて考えるべきと思います。

あの記事読んでいても、完量の型なのか完裕の型なのか記述が一貫していないところもありますし…
Ti-Chikaya さん

>不思議な縁があって、許田重発先生の直弟子という先生(二名)と面識があり、一人から三戦を教えて頂き、もう一人から話を伺う事が出来ました。

うらやましい限りです。できればもう少しお話を聞かせていただけますか。
標題の「三戦と転掌」とは話がそれてしまあますが、私が聞いた話では、許田重発先生の型の出所は下記の通りです。

東恩納寛量師:
サンチン
サンセールー
ペッチュウリン

東恩納寛裕師:
セーサン

屋部憲通師:
ジオン

呉賢貴師:
ネーパイ

尚、東恩納寛量師のセーサンは剛柔流で保存しているので許田先生があまり教えなかったという話も聞いた事があります。

私の所感としては、東恩流の型は剛柔流と比較すると、素朴で原始的なところがあった様な気がしますパンチ
Ti-Chikaya さん

ありがとうございます。サンチンなどは剛柔系と型の手順などはやはり同じでしたか?
> ジェットさん

はい、三戦の手順は沖縄でよく行われている三戦(廻るヤツ)とだいたい同じです(細かいところで違いあり)
Ti-Chikaya さん

ありがとうございます。

初歩的な質問で申し訳ありませんが
三戦で呼吸する時、腹部は逆腹式呼吸(吸うとき引っ込めて、はく時ふくらませる)で良いのでしょうか?
> チェさん

私が学んだ沖縄空手の三戦は「丹田式呼吸法」と言って、腹筋で内臓をガードしながら吸ったり吐いたりするので、お腹があまり動きませんパンチ
>>Ti-Chikaya さん

コメントありがとうございました。

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