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太平洋戦争からの『音楽文化』コミュの? 如何にして音楽を米英撃滅に役立たせるか/大木達夫 山根銀二 増澤健美 有坂愛彦 宅孝二 三浦環(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月

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■音楽の戦闘配置/大木達夫(p.36-37) 

内容:

音楽は軍需品なりと、ある大佐が言った。

しかしすべての音楽がいまのままで軍需品だと保証するわけではない。

刺のある音楽や感覚の外れた音楽家というものが、一億戦闘配置の役に立てるであろうか。

いまや音楽も一切を挙げて戦闘配置につかなくてはならない。

策はどうか。

すでに政府が敵性の音楽および非時局的なものの一切を禁止し、大政翼賛会も国民運動の分野から特に推奨すべき国民歌数十種を選んで楽譜を出版し、レコード文化協会に協力して用いるべき音盤の選定を行った。

また、今年2回にわたり国民歌唱指導隊が全国に派遣されたことも記憶に新しい。

しかし、これだけではよりよいものが積極的に生まれない。

対策を決定するには、音楽がなぜ一億決戦の軍需品たり得るのか、その本質を掘り下げ、長所を摘出拡大して、建設への熱意の昂揚と方向の確定に努めなくてはならない。

そしてその前に、音楽は人間を通して生まれるという現実にかんがみ、日本的なよい音楽の創成と戦闘的な厳しい表現の完成を望むには、音楽関係の一切の人を立派な皇国臣民に練成して国体の本義に徹せしめ、この戦争が聖戦である本質をさらに強く正視させ、皇国臣民としての正しい自覚と感激とをもって戦争完遂に挺身するよう指導することが必要である。

同時に音楽家は社会環境の改善を計り、国家公共の諸施設の保護と助成に勤めることも忘れてはならない。

[音楽家の]人間としての質の向上については、練成会の断行も一方法であり、音楽家の日常生活を練成道場化する工夫が大切である。

日本音楽文化協会[以下、音文・・・小関]が結成する音楽挺身隊は、国民運動への寄与ないし各種の慰問活動の実践課程を通じて立派な練成をするであろうが、もっと手近なところに練成の機会はいくらでもあろう。

戦局の緊迫に対しては、官民一致の努力が良い音楽の創成とその環境の醸成とに注がれなければならず、政府、翼賛会、音文の使命が重視される。

大木は音文が速やかに優秀な規格を提示することを期待するものであるが、大政翼賛会も音楽著作物の推薦委員会を設け、推薦した以上はその普及を図るなどの策が採るべきだと思う。

さいごに一部音楽の健全な大衆化を希望し、そのために日本蓄音機レコード文化協会その他の文化機関の奮起をお願いしたい。

メモ:筆者は大政翼賛会宣伝部副部長。


【2006年8月15日】


■国民運動としての企画/山根銀二 (p.37-38)

内容:

戦局がますます苛烈になるにしたがい、われわれ音楽者の任務も重きを加えてくる。

すなわち、いかにしたらよりよく戦力増強の役に立てるか、国民の士気昂揚に有効に働き得るかについて考えるときである。

日本精神を盛った荘重雄渾な歌、健全純真な歌が国民に与えられなければならない。

それによって、戦場の兵士はもとより、職場の産業戦士たち、出征軍人の遺族や家族をはじめ一般国民に戦い抜く強い気概を吹き込み、また敢闘にふさわしい健康な慰安を与えることは演奏家が今日挺身してなすべき仕事である。

ここに演奏家の新しい仕事が始まり、活動様式が新しくなるにともなって歌い方や弾き方が研究され新鮮な技術が成立する。

これまで演奏家は往々にして外来の既成名曲を教えられたとおりに反唱するのが使命であるかのように考えていたこともあったし、その限りではそれ相応の役割をも果たしてきた。

しかし今日においては、演奏家の使命はすべてが新しい角度から吟味されなくてはならない。

内容が不健全な非時局的音楽会はもとより、弟子の温習会、公衆の前に立つには技術の未熟な音楽会、有閑的聴衆に漫然と聴かせる音楽会などは今日あまり開催理由のないものであって、演奏家自信の手によって抑制されるべきものと考えられる。

戦争勃発以前にすでに無価値と考えらたものが今日抑制されるのは当然のことである。

一方、その内容が今日の評価に照らして適切なものは重点的に推奨されるべきである。

また演奏家の日常技術の練磨はおろそかにされてはならない。たとえば日本音楽文化協会主催の音楽報国隊[ママ]の運動や各種国民運動的活動は、これまでの演奏活動とはおおいに趣を異にしており、演奏家の仕事が新しい分野に突入してきていることを示している。これを成功させるには充分な創意と慎重な企画が必要であり、演奏家自体の積極的な熱意が絶対条件である。

幸い、これらの運動が予期以上の成果を挙げていることは、音楽報国の誠心を具体化する実力があることを証拠立てたものといえよう。

われわれはますます音楽の使命の重大さを思い、身命を賭して音楽を通じて戦争完遂に協力邁進するときであることを痛切に感じる。


【2006年8月24日】



■音楽参謀本部を設置せよ/増澤健美(p.38-39)

内容:

「音楽は軍需品なり」という平出大佐の言を俟つまでもなく、米英撃滅の大詔を奉戴すると同時に、音楽関係者としてこれは当然考慮しているべき問題、いや、その実行に取りかかっているべきことなのである。

今日、その問題の一部面だけは実行に移されているが、全般にわたる組織的で統制ある活動とはなっていない。

広い意味で、今日あらゆる物は軍需品たらざるをえず、軍需品と呼ばれるには、それが米英撃滅戦に直接間接に役立つ場合に限る。

音楽は軍需品としても直接に殺生破壊の用を果たすものではないため、その効用は間接的なものである。

これが頗る重要な役割を果たしているのであるが、それは必ずしも間接的なものだけとは限らない。

至近距離に彼我相対峙する前線においては、敵陣へマイクを向けて音楽を送り、遠隔の敵には電波に乗せて音楽を放送することもあろう。

こうした場合の音楽は、敵の戦意を喪失させ厭戦懐郷の情を起こさせるものでなければならない。

また場合によっては、敵軍の誘導に音楽を利用し得ることもあろう。

このように音楽のもっとも直接的な効用を意図することは、きわめて限定された場合であって、われわれの主として考えるべきは間接的な効用を最大限に発揮させることである。

このためには対内的にはもっぱら戦力増強に資すべく、陸海将兵の慰問、産業戦士の慰安構成、一般国民の士気昂揚のために音楽の活用を計るべきであることはいうまでもない。

特に産業戦士の慰安厚生については留意を要する。

戦況苛烈化にともない軍需産業に従事する人士にますます期待することは言うを俟たぬが、若い徴用工の問題については深く考えさせられるものがある。

彼らの大きな欲求の第二は娯楽を与えよというものであり、ここに留意を要望する意味が理解されるであろう。

対外的には、占領地域における宣撫工作と対敵文化攻勢の完遂に資すべく、共栄圏各地域における米英系音楽に対する本邦音楽の実力的排撃が行なわれなければならず、さらに共栄圏のみならずわが国と外交関係を維持するすべての国にも働きかけて、わが音楽を流入させなければならない。

これはやがて敵国内にも流入する可能性があり、敵国に対する謀略宣伝の役目を果たし得ることともなろう。

これら対内的対外的諸条項の実行に当って、さらに具体的な事項について述べる余裕はないが、それぞれの場合の実際的状況に応じて採るべき方法を考究し、使用すべき音楽、その手段方法、実行に当たるべき人選等、周到な計画の下に各活動全般にわたって組織的で統制あるようになされるべきである。

そのために音楽参謀本部を設置することも一案であろう。

以上、主として音楽が単独に用いられる場合について述べたが、米英撃滅の目的のためには、あらゆる機会や機関を通じて音楽の利用について考慮すべきである。

くれぐれも戒めるべきは時日の蔓延である。

いたずらに議論に時を費やすことなく、まず実行が肝心である。

現下の情勢はそれだけ差し迫っているのだ。


【2006年8月30日】


■対象を大衆に/有坂愛彦(p.39-41)

内容:

現代日本の楽壇諸団体や音盤会社等の企画は長足の発展をしつつあるが、戦局進展の急速さから比べると、まだ著しく立ち遅れの感がある。

演奏かも作曲家も、評論家も教育家も永年学んできたことや主張してきたことについて、これを放擲して従来の芸術観を切り替え、音楽というものは始めから戦争完遂のためにのみ存在するものだと定義することによって、初めてこれを米英撃滅の武器たらしめることができる。

音楽者は先ずそれぞれの対象者をはっきりと認識しなければならない。

誰を目標として作曲するのか、誰に聞かせるために演奏しているのかを明確に念頭に置いた仕事をすべきである。過去の時代ならば、国際的な水準を問題にしたり、音楽的知識層を対象としたものであっても差し支えなかった。

ところが現在の聴衆は、ともに手をたずさえて戦っている日本人である。

ほとんど毎晩のように開かれる音楽会のすべてが、真に日本人の美意識を想い、ともに励ましあい、ともに喜びや悲しみを分かち合うという熱情に燃え立っているだろうか。

さらにまた、音楽のもつ精神的に豊かな栄養は、音楽会場へ来ることができる少数の音楽愛好家の占有物ではなく、一人でも多くの日本人に分かつべきものである。

放送・巡回演奏・音盤等の事業が一層の努力を要望される所以である。

大衆音楽という言葉は「程度の低い娯楽音楽」という意味に誤解されて、一流の作曲家や演奏家がこれに手を染めることはきわめて稀であったが、現代において大衆とは少数の専門家を除く残りすべての日本人を指す。

この大衆を対象とした音楽を作り、あるいはこれを演奏するということは何という誇りであろうか、何と働き甲斐のある職場であろうか。

すでに決戦下の作曲家は、ことさらに高踏的な技術を衒う必要もなく、明快率直に大衆の魂をつかんだ分かりやすい曲を作らなければならない。

ユダヤ人教師の指導の下に、彼らの満足するような表現を理想とするような演奏家はもはや役に立たない。

ドイツの歌だから良いだろうとか、パドリオが同盟を裏切ったからイタリア音楽は演奏しないといった消極的な了見では、音楽を決戦下の武器にすることなど思いもよらない。

一曲一曲が現代の国民のためにいかなる役目をもっているかを真剣に考えて選曲する演奏家が必要なのである。

有力な発言権を持っている外国人[本分では“毛唐人”]を多く審査員に加えて、課題曲の大部分を外国曲によって占める非大衆的なコンクールなども過去の遺物である。

評論家もまた、現在の日本に存在するすべての音楽が、ことごとく消化して日本の国力とするように身を挺して働かなければならない。

日本の音楽文化100年の計を説くよりも、今の音楽を戦力増強のために、いかに利用すべきかということばかりを考えなくてはならない。

いや、日常その実践の中にのみ生活すべきである。

地域的にみても、大都会は比較的好事家が多く、この時代には贅沢品に化した音楽もかなりあるため、音楽会は徹底的に整理されなければならない。

農村、漁村、鉱山、工場、学校、一般都市民に大量の聴衆を求め、つねにゆたかで美しい大衆音楽を均霑させることである。

放送や音楽[ママ。音盤が正しい。・・・小関]は武器としての音楽を直接に前線に運ぶことのできるものである。

前線へ向けての放送や音盤は、国内用とは別個の企画において盛んに送り出さなければならない。

音楽をもって米英を撃滅するには、並々ならぬ覚悟とよほどの努力が必要である。

いまさら決戦下の音楽の役目を説いてみたり、音楽でありさえすれば軍需品であるかのような漫然とした態度であるならば、この逼迫した時代に音楽などやめた方がよい。


【2006年9月4日】


■音楽家らしい熱情を/宅孝二(p.41)

内容:

直接戦争に役立つ音楽の力については、これを買いかぶりすぎても卑下してもならないと思う。

しかし現代の戦争が総力戦であるという観点から見たとき、直接に役立たない音楽の分野はまずないといえる。

すでに音感を物理の分野にまで広げてもっとも直接の重任についているし、一方吹奏楽団は産業戦士の意気を鼓舞し短時日のうちに組織化された団体になりつつある。

また合唱運動や音楽挺身隊、軍慰問隊によって、楽人は熱情を傾けて直接参加している。

このように、あらゆる方法をもって感情を高揚し、増産を図る企てが行なわれている。

これらの直接的な音楽の高揚と同時に、音楽は国民相互の親和の力を生み、精神的に高く、正しく、美しく、強く、逞しくあらしめ、しかもなお余裕と暖かさを与えている。

また国威を海外に宣揚する精神文化としての純音楽へ発展努力が必要となる。

それは利欲のみに走らない純粋無垢な熱情、誠実親愛、豊富な感情感覚、努力勤勉堅忍不抜、緻密さなどの精神力や風格は、もっとも良い姿で音楽に養われたときに培われるものであろう。

ただし偉大な音楽家の作品演奏は良質な受信機をもつ音楽的な人々にのみ最大の効果を与えることができる。

しかし、このような体験をすることは一生に何度とないようである。

音楽をもって人の心を和らげ、困難な生活をも心愉しく切り拓くことは各人の努力如何で不可能ではない。

人の和と無私な心が不充分なために、また不誠実なために人々を害し、戦力の源泉である民力をいたずらに涸らすようなことになっては大変である。

音楽家が各自の仕事を充分に果たすには、不断の努力と不変の熱情とをもって仕事愛に徹することである。

日常の修練は誠実・謙虚・忍耐の性質を生むものである。

音楽の深い精神に触れることが遥かに先のように思っている少年少女が、日夜練習に努力を傾けているのをたびたび見かける。

このような切磋琢磨があればこそ、ひとたび命令が下れば、いかなる部署にも勇んでつくことができるのである。

決戦態勢は極度に強化されている。

音楽家は一人残らずこの総力戦に馳せ参じ、音楽家らしい熱情とねばりを傾けなければならない。


【2006年9月9日】


■日本の歌を/三浦環(p.42)

内容:

敵米英は、必ずわが軍に撃滅される運命にあることは必然のことだが、私たち音楽家は必死の精神をもって帝国軍人の心を心とし、いよいよ強く勇ましく進まなくてはならない。

音楽家の奏でる楽譜こそ、また唱う歌声にも精神をこめて演じるべきだと思う。

日本精神に満ちあふれた美しく勇ましい音楽が必要なことは、迫っていると思う。

戦争を呼吸している私たちは、少しでも外国を手本とする人があってはならない。

日本の音楽をけなしたり、自らの国語を音楽に不向きのように考えたり、他人に語ったりする人は敵米英に後ろを見せる人と同じだと思われる。

あの鼓の音、詩吟の声、よく味わってみれば神代からなるわが国の尊さに涙を催すべきで、音楽家はあの音を心において作曲したり演奏したりしてもらいたい。

浮かれるための音楽は不必要である。

ことに軍歌では、ジャズ式の伴奏を用いてはいけない。

昔からの名曲は、外国のものといえども学ぶべきだが、その学ぶ心の根本を日本におき、日本の楽の音をより美しくすべきことを考えるための研究におかなければならない。

したがって外国音楽は専門家にとどめて、公開の場合にはなるべく日本の真に立派な作曲を演じるべきだと思うのである。

/三浦は1943年10月12日にシューベルトの《冬の旅》を独唱することとなっているが、全曲で200ページくらいなのに、昔ロンドンで《蝶々夫人》を1ヵ月で300ページほど覚えたときよりもずっと苦労している。

やはり当時と決戦に進んでいる今日とでは、三浦の心にたいへんな違いがあるからだと思う。

この《冬の旅》を日本の精神をもって、しかも盟友ドイツの美しい色をより美しく日本のものとして取り入れて歌おうと思っている。

しかし、外国のものは今回限りにして、今後、公開の場では日本人作曲のものばかり選びたいと思っている。

どうか立派な軍歌、立派な音楽を作曲してもらいたい。

作曲はさほど良くなくとも、演奏家が日本精神を身に体しているときは、必ず立派なものになると思われる。


【2006年9月14日】

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