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太平洋戦争からの『音楽文化』コミュの? 最近の邦人の管絃楽作品について/山田和男(『音楽文化』 第1巻第1号 1943年12月

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内容:

高度国防国家のもと音楽の部門がその一翼として動員されていることは、この文化面の力こそ国民のもつ尽きない底力であると考えられる。

ここに紹介する20人もの作曲家が、この戦時下といえども日夜思索しえ、創作に没頭し得るこの国のわれわれは、大きな勇気とともに感謝をも禁じえない。

12、13年前の「新興作曲家聯盟」時代こそ過剰西洋化の警告をきいたが、戦争下の現実こそは古き「日本の美」が持続され、日本は間違いなくその方向へ進んできている。

それが楽界の中心をなしてきている状態はなんと喜ぶべきことではないか。

思い出すままに現在活動中の敬愛する管絃楽作曲家諸氏のごくさいきんの管絃楽作品、執筆中・立案中(これは* 印で記す)をもあわせて記す。 

山田耕筰氏 いま58を迎えられる山田の初期作品には、R.シュトラウスやヴァーグナーの影響があることについて一言触れよう。

彼らの音楽こそは自然の法則を逆にとって、自然を圧倒しようとする生々しい人間臭で満ちているのに反し、山田の《マグダラのマリア》《盲鳥》《明治頌歌》などにおいては西欧の影響の中にもそれらの技術を極度に「自然」に近づかせて、日本人らしい魂を切々とした哀傷の中にこめたことは、あの移入時代にして日本芸道の高級な様式を正しくこの国に継承発展させ、肉感臭を駆逐した偉大な踏跡なのである。

人はまだ、一言たりともこのことに触れなかったが、様式とは西欧大家の忠実な模倣からは創作されない。

芸術院会員の山田はいま、檜町でオペラ《香姫[シャンフェイ]》を執筆中とのことである。 清瀬保二氏 《日本舞踊組曲》(1939年)カンタータ《みいくさに従ひまつらむ》(1943年)《萬葉曲集》(1942年)。

*《小交響曲》。

清瀬がいつも平明な音楽を作るといって責めることはやめようではないか。かりにいま、日本の他の芸術について考えてみると、日本人は絵の最高の様式として墨絵をしあげたし、日本建築から導かれた結果は木造の簡素な幽玄な茶室という様式だった。それらはいかにも発生的であるかにみえて、しかし究極の表現だったのだ。

このことからしても西洋の意欲的で肉感のある感じが、そのままわれわれの音芸術の尺度になるとは考えなれないのである。

清瀬の作品がこの水墨画と同様の焦点に立っているものとすれば、彼の音楽がいたって純化され平明化され、しかも深い綜合性をもった、言い換えれば生活的要素を多分にもっているという私の考えも肯けるであろう。

彼は15年前の初期から傾向こそ違え、常に平明化へと苦しんできた作家なのだ。 

箕作秋吉氏 《二つの詩》《古典小交響曲》《第一交響曲》(ヘ長調 第1楽章: 序曲<大地を歩む>−第2楽章: 間奏曲<大洋の挽歌>−*第3楽章: 終曲<凱旋行進曲>)。

この海軍士官の夢見るような美しい音感、微妙な色彩を崇め讃える人は正しい。

しかしまた、彼の音楽のスケールが小さく、圧力がないという別の人たちの非難も理解できる。

ベートーヴェンやベルリオーズのように強い輪郭によって現される音楽によって慣らされたわれわれの耳には、威圧の力こそきわめて貴重であり自然な表現要素であるが、箕作のとった手法はそれを無視した方法であったのだ。

彼のもつ精神はハッタリのかわりに、あくまでも具体的にして少々かたちがつつましいことが第一の意図なのである。

彼の作品はさりげなく始まりさりげなく終わる。

それは人々の心に広がろうとし、やがては自然にまで溶け込もうとするありようなのだ。

日本のもつ内面的消極的な深い美だ。

さすがに十数年も前から日本和声を提唱されていた氏の魂の現われなのである。 

池内友次郎氏 《熊野》(1942年)《四季−四章−》(1943年)。

*《交響組曲》。

池内の作品の表現が控えめであることをもって作家の魂の「無」なることをふれ回るのは大いに見当違いである。

彼の音の淡さは、けっして無でもなければ停止でもなく、むしろ味のある余白なのだ。

それは後退どころか前進した積極性をもつ、あやしい空気を感じさせる。

この空気こそ聴く人によって無限に広げられ、この余白によって彼の音楽は完成されるのだ。

《熊野》と《四季》を聴けば、彼が本当の日本人としての要求と嗜好とにあわせて音符を書いたことが知れる。

彼は調布という田舎に引っ込んで日本人作家としての魂の戦いを立派に実践している。(つづく) 

尾高尚忠氏 《芦屋乙女》《みだれ》《交響組曲》(1943年)。*《チェロ協奏曲》。

華麗で豊かな作品を書く作家。

独自の境地をこだわりなく流動させる点で、邦人としては珍しい天分をもっている。尾高は深い感動の混沌に正面から敢然と戦う力と図太さがあり、音楽的姿像を作りだす雰囲気をもっている。 

橋本國彦氏 《交響曲イ短調》(1940年)カンタータ《英霊讃歌》(1943年)。

*《交響曲》*国民歌劇。

芸術作品は作家その人が重要な問題となる。

それは、作品に表現されたものの裏にひそむ内面そのものが主要な成立要素をなすからであろう。

皇紀2600年のために《交響曲》を書き、山本元帥のために作品をものしようとも、それが決して際物にならず感動させられるのはなぜだろうか。

橋本は《斑猫》や《お菓子と娘》などにみられる器用さからは脱皮して、さいきんはその器用さを極力抑える。

なにか表面をすべらない抵抗を感じるのは表現の背後に働いている人間の振幅にほかならない。

近年筆まめになりつつある彼にジックリとしたフランクの交響曲のような作品を与えてほしいものだ。 

安部幸明氏 《小組曲》《セロ協奏曲》。

*《管絃楽変奏曲》*《小交響曲》。

作曲界から抹殺できない作家であるどころか、老年どのようなかたちに大成するかわからない不思議な存在だ。

マーラーの影響はあるとしても決して独創性や新奇を追及しない。

それでいて古いかといえばそうではなく、おっとりとした調和を書きつけている。

だから安部は《ペトルーシュカ》のスコアにいくら魅力を感じてもそれを模倣しようなどとは思わない。 

江文也氏 《籃碧の空に鳴りひゞく鳩笛に》(1942年)《世紀の神話による頌歌》(1943年)《木管と管絃楽のための詩曲》(1943年)。

*《孫悟空と牛魔王》。

日本的作家というよりも「大陸作家」として自他ともに考えようではないか。

日本人のまったく持ちあわせない大掛かりなものをもっているし、彼の作品にはエスプリの卓絶さは乏しいものの、それは対象の性格と大きさにふさわしいものをもっているのでそれ自身完璧である。

山田は江に創作作品としての美よりも、あらゆる素材的関心を超越した高さに貴重なものを感じるのである。 

伊福部昭氏 《ピアノ協奏曲》(1942年)《交響譚詩》(1943年)。

*合唱・ピアノ附交響曲。

北海道在住の伊福部ほど完成による赤裸々な日本人としての表現をする人はいない。

彼は作品に生命を与える手段として客観的な要素を捨てて、対象の中に自らがとびこみ融合する。

自分をではなく対象を立てようとして苦悶する。

近作《交響譚詩》のもつ構成とは、なんと日本的性格をついたものであろう。

それは知性のチの字も出さないが、はっきりとした知性認識のうえに立っている。

究極は案外諸井三郎と同じ日本的構成という目的を探求しているのではなかろうかと思わしめるほどである。 

諸井三郎氏 《提琴協奏曲》《チェロ協奏曲》(ともに1939年)《交響的二楽章》(1942年)《交響幻想曲》(1943年)。

*《第3交響楽》*交響的楽劇《一人の兵士》。

大作を次々と書く諸井は、ともすると西洋のスタイルの模倣影響者だと説明される。

両者の近時を発見すると、本家は西洋、模倣は諸井と決めてしまって少しも怪しまないのはなんと不思議なことであろうか。

《交響的二楽章》には日本人特有の形成が根底からにじみでている。

いや、自国的な一種の宿命をすら鋭利に感じて心を打たれるのである。

交響的楽劇は「能」的性格を音楽によって形成しようとするたくらみである。 

深井史郎氏 《ジャワの唄聲》(1942年)《大陸の歌−五章−》(1943年)。

*《交響曲ハ調》

*オペラ《敵国降伏−元寇の役を主題とする−》。

3、4年前のスランプをのりこえて、いま彼の創作欲は脂がのっている。

深井の音楽にはつねに重量感があり、また巧みな管弦楽技術はこの重量感を深めている。

ラヴェルがトランクならば深井は信玄袋だ。

ラヴェルが新しい技術を発明するごとに皮のトランクは金属製になり、次にはエナメルが彩られ、さらに立派なレッテルが貼られてきれいになるかわりに、心の中がだんだんと繊弱になる。

深井の信玄袋は綿紗が緞子になり、次にはより紐の色にも渋みが加わり、はては底板も立派になるという具合だ。

しかも厚みによって、われわれの心と生活にしだいに密着したものが作られていくのだ。(つづく)  

小倉朗氏 《交響組曲 イ短調》(1941年)《ピアノ協奏曲》(1943年)。*《管絃楽変奏曲》*《パッサカリアとフーガ》*《交響曲》。

堅牢で純粋な古典を愛し、カルテット作曲こそ作曲家に鞭打つ材料であるという小倉の態度はまさに正しく、彼の作品にはどこにもごまかしや空虚はなく、強がりも偉がりもない。

そして与えられた小さな材料ですら、実に微妙なところまでも美意識を働かせる芸術家らしい才気がある。

彼の構想はあまりにも古典的に生かされるので、人々は独創性不足だなどという。

しかし、彼の創作過程は近作《ピアノ協奏曲》にみられるように、いかに肉付けをし、いかに表現を推し進めるかに苦しみ、また制作中に涙を流して感激していたのを見ていると、むしろ芸術における技術以上の世界があることを小倉によっていまさらながら示されて驚く。 

渡邊浦人氏 組曲《戦詩》(1943年)音詩《闘魂》(1943年)《満洲の子供》。

渡邊の音楽は野生的であって、しかも素朴かつのびのびとしている。

だから時に応じてその本質としての力を発揮するが、ジックリとした自己形成というおちついた精神の雄軍というには、まだ時間がいる(作家になってからの時間が短いため情状的酌量がある)。

それにしても、トーンの正しさと高価の好ましい結合とは渡邊の天性にかかっているといえる。 

大木正夫氏 組曲《南支那に寄す》(1941年)交声曲《神々のあけぼの》(大木敦夫詩 1942年)《子供の国》(1943年)。*《仏像に題す−法隆寺にて−》。

いつも忙しそうな口調で作品制作中の報告をする。

大木は自分の五線紙に夜となく昼となく埋もれている芸術家である。

この人の作曲に心惹かれるのは、表現にいたるまでの真摯さにある。

たとえ《みたみわれ》序曲のようなさもしい作品においてすら、それは単なる頭脳による構想にとどまらず、肉体的にじかにその構想を苦悩している姿がみえるのである。

そして作品の対象は対象以上のものになっている。

それは彼の頭の苦悩というよりも肉体の苦悩が切実に感じられるからであろうか。

この肉体感が表現の裏に潜むということは、日本のあらゆる人生観・芸道についてみられることで、それを通じて目的に達する「行」の精神の作曲家といっても良いだろう。小智では見当がつかない東洋の新しい美の発見こそ大木の優れた直観と「行」とにまつところが多い。 

平尾貴四男氏 カンタータ《おんたまを故山に迎ふ》(1941年)《砧》(1943年)《日本民謡組曲》(1943年)。*管絃楽序曲、*舞踊劇、*歌劇。

平尾の人柄に接すると、日本人らしい素直なはにかみを感じ、それが明らかに作品に滲み出ている。

この現象は作曲を、内面の深度一筋に探求させる結果となっている。

フランスでの作品《隅田川》には老いの芸術、さび、あわれ、幽玄などといわれる要素を感じさせ、近作《砧》その他では「美」の勘によって楽曲を彩り、平尾らしい内気なきらびやかさを身につけはじめたことに気づく。

いままであたかも古き日本、老いの日本の情越のみを平尾のみならず全作家の中にみいだそうと苦心し、欲したかのように綴ったかもしれない。

しかし、いまこそわれわれは、日本人としての生き方として誠実であればいいのだ。

それに徹することこそもっとも高い芸術的な肯定となる。

そして現実の日本の動きに、どういう作品を書いたら国家に捧げられるのだろうかと真摯な意欲に燃えた作曲家がどれほどいるかである。

音楽家はいい作品を書けばそれがすなわち職域奉公だと考える、悪意のない「芸術家」モラルが浮遊していることに深く反省したい。

市川都志春氏、早坂文雄氏の作品はあまりに聴く機会がなく、将来を嘱目されている小林福子氏、戸田盛國氏についても紙面がなく心残りである。

さいきんの新人に、先輩を敵ととってもっともらしいことを言うのは何と悲しいことであろうか。

山田は各作家の中にひそんでいる、今日のわれわれのよりどころとなるべき要素を汲み出して、ただただ一つの向かうべき世界を見出そうとの情熱によってペンを進めたのである。

いまこそこの日本を関心の焦点とすべき日本人は、お互いに勇気と敬愛をもって働こうではないか。(完)


メモ:清瀬保二から池内友次郎までは「執筆中・立案中」を意味する「*」印を付けることを失念してしまいました。
5月29日のサイトアップの際、修正をしました。


【2006年5月23日+5月29日+6月6日】

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