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覆された西脇順三郎コミュの西脇順三郎「旅人かへらず」/松村崇夫

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左)西脇順三郎がよく歩いた山本山。その一角に広大なひまわり畑があった=新潟県小千谷市で、中井征勝撮影。

中)世紀の伝統を誇る闘牛。地元では「牛の角突き」と呼ばれる。

右)西脇順三郎が入院していた小千谷総合病院7階の病室。信濃川が目の前を流れ、越後三山が真正面に見える新潟県小千谷市で。
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汝もまた岩間からしみ出た水霊にすぎない
西脇順三郎「旅人かへらず」/松村崇夫


(覆(くつがへ)された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日

※詩集「アムバルワリア」の「天気」
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■こころに宿った原風景

西脇は昭和8(1933)年、詩集「アムバルワリア」で、日本の詩壇に衝撃的なデビューを果たしている。当時39歳。そのころの日本の詩といえば詠嘆調で、感傷的な作品が多かった。この詩集は従来の詩とは違い、イメージでつくられたモダンな詩で、詩壇に与えた影響は大きかった。

西脇の代表作ともいえるこの詩について、詩人・室生犀星は「これだけの一行が詩人の生涯をとほして見ても、ざらに見つけられる一行ではない」(「椎(しい)の木」)と絶賛している。

西脇には、三つの顔があった。英文学者と詩人、そして絵を描く人。

絵が好きで、旧制小千谷中(現・小千谷高)を卒業すると、画家をめざして上京。日本を代表する藤島武二や黒田清輝の門もたたいている。しかし、父親の死などもあって、フランス行きと画家志望を断念し、慶大の理財科(経済学部)へ進んだ。

中学のころから英語が好きで「英語屋」のあだ名があった。大学の卒業論文はラテン語で書き、指導教授の小泉信三に出している。母校で教壇に立つことになり、大正12(1923)年に英国のオックスフォード大に留学し、3年間の滞在中に、英文の詩集「スペクトラム」を出した。語学や言葉に独特の才能があったといわれている。

留学のさい、一冊の詩集を携えている。萩原朔太郎の詩集「月に吠(ほ)える」だ。西脇は「このすばらしい存在によって私は初めて日本の詩に対して関心を持つことが出来た」と、記している。

西脇と小千谷。英国で結婚したマジョリ前夫人と里帰りしたり、戦時中は家族と疎開したりしているが、長いこと、ふるさととは距離をおいていた。

表題の詩をおさめた「旅人かへらず」の詩作の舞台は、おもに武蔵野といわれる。外国語を得意とし、西欧的な教養あふれる独特な詩句を紡いだ西脇だったが、心の原風景は、生地・小千谷そのものではなかったか。

晩年の十数年は、故郷に帰ることが多く「小千谷に帰って、生涯を終えたい」と、強い望郷の念を漏らしている。西脇の詩句が街にあふれる小千谷に向かったのは、緑濃い夏の盛りだ。
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■「心の川」は信濃川

西脇の詩は、明治学院大名誉教授の新倉俊一さん(74)によると、「人生の喜怒哀楽を詠(うた)いあげるのではなく、イメージ本位で組み立てる詩」で、イメージづくりは「遠いものを連結し、近いものを切り離す」詩法だという。

西脇家は代々、ちぢみ問屋を営む小千谷の旧家である。西脇は17歳の時、雪深い小千谷から上京し、28歳で留学先の霧の都・ロンドンに向かっている。「小千谷とロンドン。自分自身が、遠いものとの連結でしたね」。西脇の一人息子順一さん(65)は、淡々とそう語る。

西脇と冴子夫人、順一さんの3人は、第2次大戦中の44年、小千谷に疎開。母子は48年まで残るが、西脇は45年9月、東京に戻っている。「キャッチボールの相手になってくれたり、ぼくのクレヨンでスケッチしたり。東京から帰る時、進駐軍からもらったというチョコレートも持ってきてくれた」。子煩悩な、西脇の意外な一面がのぞく。

小千谷市内には、西脇順三郎の名前と、西脇の詩があふれている。

ああまたこの故郷に来てみれば/八海(はっかい)の山山はかすみ/信濃の川は静かに語る(小千谷西高校歌)

市内を東西にわけて、信濃川が流れる。川にかかる旭橋の四隅の御影石に、県立小千谷高と小千谷西高の校歌が刻んである。ともに、西脇がつくった校歌だ。

西脇は、市内の小中高4校の校歌を書いているが、いずれも信濃川が登場する。母校・小千谷高の校歌も「信濃川静かに流れよ/我が歌のつくるまで」で始まる。
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■「つまらなさ」が詩的な動機

西脇は82年6月、小千谷総合病院で息を引き取った。冴子夫人に先立たれ、順一さんがロンドン勤務になったため、郷里での療養を求めて入院。27日目、不帰の人となった。枕元には「ギリシャ語と漢語の比較研究」ノートがあった。

病室は最上階の7階。帰郷のたびに世話をしてきた、元小千谷西高教諭で「西脇順三郎を偲ぶ会」会長、山本清さん(78)の話では、西脇は朝起きるとまず、ベッドを起こし、病室から見える信濃川と、越後三山にあいさつしていた。

山本さんに案内されて、病院の屋上に立った。大きく蛇行し、翡翠(ひすい)色に光る信濃川が眼前に迫り、越後の山々は、穏やかな青灰色にけぶっていた。西脇にとって信濃川は、体を突き抜け、心の中を大きくうねる、「心の川」だったに違いない。

病院近くの信濃川の岸辺を歩き始めて、真っ先に目に飛び込んできたのが、川沿いの切り立った断崖(だんがい)だった。断崖で思い出すのは、「アムバルワリア」の中の「旅人」の詩行だ。

汝は汝の村へ帰れ/郷里の崖を祝福せよ/その裸の土は汝の夜明だ

私が目にした、その断崖(河岸段丘)こそが「郷里の崖」だった。近くに深地(慎地)城の跡があり、付近には、かつて船着き場もあったという。自然と「旅人かへらず」の詩章90番が、心に浮かぶ。

渡し場に/しやがむ女の/淋(さび)しき

西脇はかつて、「人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機だ」と述べている。
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■野草愛した詩人の植物採取

一昨年、東京の世田谷文学館で開かれた没後20年の展覧会場で、おやっと思ったことがある。70点に及ぶ押し花が展示されていたのだ。西脇の植物採取は、意外だった。北海道やイタリア、イギリスで採取したのだという。そういえば、「旅人かへらず」には、やぶがらし、たんぽぽ、あざみ、けいとう、うの花、どんぐりなど、多くの植物が出てくる。新倉さんの研究によると、西脇の14の詩集には約480種の植物が登場する。

晩年、望郷の思いで帰る西脇は、小千谷の山里を歩くことが多く、牧野富太郎の植物図鑑を友にしていた。

「バラの栽培といったような趣味は大嫌いで、野草が好きだった」と、順一さんはいう。

「旅人かへらず」の詩碑が、市内が一望できる山本山に立っている。碑には「この山上はわが青年時代より散策し 故郷の偉大なる存在を感ぜしところなり」との添え書きがある。

遠くへさまよう/旅人よ/聴け/この鐘のきこえる路は/みな真心へ/もどる道だ(船岡山に建つ詩碑「舟陵の鐘」)

真心へもどる道々の草むらでは、今日もキリギリスの鳴き声が、やかましい。

<松村崇夫>

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