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覆された西脇順三郎コミュの順ちゃん年譜/生涯

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(年譜)

明治27年 1月20日小千谷市(現・平成1丁目 屋号「西清」)に生まれる。
明治33年 小千谷尋常高等小学校に入学。
明治39年 新潟県立小千谷中学校(現・小千谷高等学校)に入学。英語に異常な興味を抱き、勉学に熱中。絵画・漢詩にも深い感心を持った。
明治44年 小千谷中学校卒業。画家を志望し、上京。藤島武二の内弟子となり白馬会に入会したが、父の寛蔵が亡くなったため、画家志望を断念。しかし、生涯絵画に親しんだ。
大正3年 慶應義塾大学理財科に入学。(大正6年、卒業)
大正9年 荻原朔太郎の詩集「月に吠える」の口語自由詩のスタイルに強い衝撃を受け、日本語による詩作を決意。
大正11年 英語英文科・文芸批評・言語学研究のため、慶応義塾大学留学生として渡英。
大正12年 オックスフォード大学ニュー・カレッジ入学。古代中世英語英文学を主として学ぶ。
大正13年 パリでフランス印象派絵画に接する。英国人画家マージョリ・ビドルと結婚(昭和7年離婚)。
大正14年 英文詩集「Spectrum」(ケイム・プレス社、自費出版)を刊行。
ロンドンから帰国。
大正15年 慶応義塾大学文学部教授に就任。西脇順三郎を中心とする文学サークルの輪が形成され、未来派・タダ・シュルレアリスム等新芸術運動が大いに起る。
昭和2年 日本最初のシュルレアリスム・アンソロジー「馥郁タル火夫ヨ」が西脇順三郎を中心として刊行された。
昭和4年 「超現実主義詩論」刊。
昭和8年 詩集「Ambarvalia」刊。これによって詩人としての位 置は決定的なものとなり、荻原朔太郎・室生犀星等の称賛をうける。
昭和10年 この頃から戦時中を通じ約10年間詩を発表せず沈黙し、学術研究に没頭、水墨画に親しむ(自ら「東山」と号した)。
昭和22年 詩集「あむばるわりあ」・「旅人かへらず」刊。
昭和24年 「古代文学序説」により、文学博士の学位を受ける。
昭和28年 詩集「近代の寓話」刊。
昭和32年 詩集「第三の神話」により読売文学賞を受ける。
昭和35年 詩集「失われた時」刊行。
昭和36年 日本芸術院会員となる。
昭和37年 日本現代詩人会会長となる。
昭和39年 小千谷市名誉市民となる。
昭和42年 この頃から晩年にかけて、次第に故郷を思う心を深める。
昭和46年 文化功労者に選ばれる。
昭和49年 勲二等瑞宝章を受ける。
昭和50年 この頃から折ある毎に帰郷滞在し、懐旧の地を巡歴する。
昭和51年 蔵書多数を小千谷市に寄贈。
昭和53年 小千谷市立図書館開館と同時に「西脇順三郎記念室」を開設。
昭和54年 詩集「人類」刊行、最後の詩集となる。
昭和57年 6月5日午前4時20分、小千谷市総合病院にて死去(満88歳)。
6月15日市民葬。
昭和58年 「西脇順三郎を偲ぶ会」発足。会報は「幻影」。
昭和60年 小千谷市山本山山頂に詩碑建立。
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(生涯)

西脇順三郎(1894〜1982)

1894年小千谷に生まれ、1982年小千谷で永眠。その88年の生涯を、偉大な詩人として、また優れた英文学者として旺盛に生きた西脇順三郎。彼の精神の土壌になったものは、生を受け生を閉じたふるさと、愛憎とともにさまざまな想いが駆け巡った「小千谷」だったのかもしれない。

順三郎は旧小千谷町の旧家で、裕福な家柄に生まれた。親族に当時地方では珍しかった海外生活経験者がおり、家には西洋の絵画集や英字新聞が日常的におかれていたという。そのような環境の中で、順三郎の西洋の文化芸術に対する関心や憧れは、次第にはぐくまれていったのだろう。

県立小千谷中学校(現小千谷高校)を卒業すると、画家を志して上京する。しかし、洋画壇に見込まれた才能をさらに磨こうとした矢先、父の死にあい、フランス留学の計画が挫折。画家への道を志し半ばにして断念することになる。芸術への探求心が詩作に向けられたのはこの時期であった。

その翌年、慶應義塾大学へ入学。英語による詩作を始めるとともに、ギリシャ・ラテン・ドイツなどの語学に励み、西欧諸国の文学に親しむようになる。専攻が経済学だったため、卒論のテーマは「純粋経済学」だったが、その全文をラテン語で書いたというから相当なものだ。とにかく若き日の順三郎の西洋への傾倒ぶりは徹底していた。「日本的なものすべて」、とりわけ「ふるさと」を嫌悪し、「小千谷」という言葉を聞くことすら厭(いと)ったという。

大学卒業後、病気療養のため一時小千谷へ帰った順三郎は、1919年再び上京。慶應義塾大学予科教員となった年に、日本の詩の流れを変えた萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の出版だ。ここで初めて使われた口語体自由詩という斬新なスタイルは、順三郎にそれまで顧みなかった日本語での詩作を決意させる。それは、後の渡英体験や帰国後大学教授として関わった文学運動を経て、1933年処女詩集「ambarvalia(アムバルワリア)」に結実。文学史に燦然と輝くこのデビュー作で詩人としての不朽の地位は確立した。

だが、以後十余年、彼は詩作を離れて学術研究に没頭。その背景にあったのは、西洋的風潮を弾圧した第二次世界大戦という状況と、順三郎が今までになく東洋的な美にひかれだし、より洗練された芸術世界を求めて模索を始めたためであった。

順三郎の心に再び新しい詩想が芽生えたのは、戦中の窮乏生活でのことである。家族とともに疎開した小千谷で、日本の古典を読みあさり、自ら雅号を付けて水墨画を描く日々。掌を返したようなこの東洋回帰から、第二詩集「旅人かへらず」が着想される。この作品の一貫したテーマは、東洋特有の神秘的な美の世界「幽玄」の、新しい視点による再創造だった。

全作とまったく異質な作風だったが、これも前作同様高い評価を受け、詩人第二のスタートといわれた。その時順三郎は53歳。みずみずしい想像力は以後も衰えず、大学教授のかたわら次々と詩集、評論、訳詩などを発表し続ける。

また、このこと、順三郎はかつての反発を捨てて、折りあるごとに小千谷を訪れるようになっていた。少年の頃の思い出の地を歩いたり、独特の幻想的なタッチで風景画を描いたり、時には東京から文学仲間を案内し、山本山から見える信濃川の美しい蛇行を自慢したという。自らを「帰らぬ旅人」になぞらえた詩人は、どんな想いを重ねてふるさとの山河を見つめていたのか。妻を看取り、息子が海外へ旅立った後、順三郎が終焉の地として選んだのは小千谷だった。西洋から始まった順三郎の芸術は、日本の伝統を再発見し、最後にふるさとへと回帰したのである。

※小千谷市データベースより

コメント(1)

西脇順三郎は長生きだったんですね。
詩の文体から随分昔の方だと思っていたのですが
あたしが生まれた時まで、しっかりご存命だ(笑)

>明治39年 新潟県立小千谷中学校(現・小千谷高等学校)に入学。英語に異常な興味を抱き…

これって12歳のときですよね?すごいな。おうちに英字新聞が転がっていたという環境からして、西脇順三郎ははじめから普通の子供じゃなかったんですね。その後も英語、というか外国大好きな人生を送っているのが年表からよくわかります。むしろ日本的なものを毛嫌いしていたわけか。

>大正13年 パリでフランス印象派絵画に接する

個人的にこれがものすごくうらやましいです。あの時代のパリやドイツは、混沌としていてものすごく面白かったに違いない。
それから戦中戦後を経て一気に東洋趣味に転んでますね。極端なヒトだなぁ。そういう人は嫌いじゃないですけど(笑)「Ambarvalia」から「近代の寓話」へ、どうして急こんなに庶民臭い表現が出てくるようになったのかと思ったら、そういうわけだったんですね。

その後は現代詩人会会長、小千谷市名誉市民、 勲二等瑞宝章と、長生きしてよかったですねぇ。結局最後はひとり故郷に戻られたたわけか。私は「アポカリプス」がファースト順ちゃんインパクトだったのですが、これが成立1966年なことを考えると、西洋趣味に微妙に日本的な物が混ざっているのにも、とてもすんなり納得がいきます。
日本から離れようとしても意味がないことに気がついちゃったのかな。それでも日本から(今の自分から)離れたくてもがいていた20・30代の頃の作品の方が、あたしは好きですね。

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