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大文字党コミュの武田軍で出陣 -編成隊が決定しましたっ!!-

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武田でも上杉でもないという前回の抽選結果があったので、ハラハラドキドキの3ヶ月間でしたが、今回は武田軍に決まりました。

詳しくはまだ観ていないので分かりませんが、平清盛が加わるなんて噂はどうなったのでしょうか…w

今回、私たちは、武田晴信の弟・武田信龍(一條信龍)隊と、真田幸隆の長男・真田信綱隊に決まりました。


ということで、われら大文字は、武田軍です。



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武田右衛門大夫信龍 1539〜1582年

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武田信竜、上野介、一條信龍、一条信龍、一条信竜、右衛門ともいう。
武田信虎の十一男。一條時信嗣。市川上野城主。駿府田中城代。
鎌倉期以来の名門一族一條時信の名跡を継承した武田信龍は、武田晴信の異母弟。 武田信龍(一條信龍)の知行地は巨摩郡市川庄(市川三郷町)、青柳郷(増穂町)など。市川上野城を居城とした。甲斐の南方警備の任を担当し、親族衆として200騎を保持。
一條氏は、武田信義の長男一條忠頼(一條次郎)が一條小山(甲府市舞鶴城)に居館を設けて住したことにはじまる。 一條忠頼は木曽義仲討伐の合戦で甲斐源氏を代表する功績をあげたが、強すぎたことを源頼朝に忌まれる結果となって謀殺される。その一條氏を武田信龍が復旧。『甲斐国志』に「武田信虎の男、一條の家蹟を継ぎ氏号とする。古府中に邸跡があり、城墟は八代郡上野村(西八代郡三珠町上野)なり」と記されている。
武田信龍は川中島合戦の頃から活躍。天文22年(1553年)川中島合戦が初陣とされている。
武田信龍の陣旗は「白地に裾赤」であったという。騎馬100騎を預かる侍隊将の地位にあり、永禄10年(1567年)以降は武田の副大将格として兄武田晴信を補佐。永禄10年(1567年)10月19日、武田義信が幽閉先の寺院で自刃したことにより、武田晴信は家臣団の団結を強固にする一方で、帷幄の中心に血縁を据えるために武田信龍を身近に置いたとされる。『甲陽軍鑑』に「七人の軍将にさしついで武名あり。七将は希代の英雄、後人の亀鑑、補弼の良臣」と記され、 山縣昌景や教来石信房(馬場信房)らと同じく武断派家臣の代表であり、かなり気骨のある武将であったという。 山縣昌景をして「伊達男にして花麗を好む性質」と洒落者でなかなかに風流を解する文化人でもあったという。 武田晴信に従って各地を転戦し、武田晴信の駿河侵攻後には、田中城代をつとめる。大和の松永久秀や摂津石山本願寺との交渉にあたり、武田勝頼の代になると田中城代を嫡男武田信就と交替し、甥武田信光(武田信友の次男)とともに駿府城代をつとめる。元亀2年(1571年)5月、武田晴信が将軍足利義昭の側近岡周防守に織田信長討伐を働きかけた書状の添状として武田信龍書状がみえる。長篠合戦のときには、『甲陽軍鑑』によれば「馬場美濃守(馬場信房)の率いる700の部隊もあらかた負傷して退き、または討死して残るは80余人ばかり。 馬場美濃守自身は軽傷も負ってなく、他の同心や被官たちに早く退けと勧めるが、さすがに武勇の武田勢、馬場美濃守を残して退く者はいない。穴山隊は戦闘を交えることなく退く。一條右衛門(武田信龍)殿、馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せているところへ、一條配下の同心が近づき、合戦馴れのした利口な武者ゆえ、馬場信房に向かって、下知(命令)をされるようにという。 馬場美濃守それを聞いて命令するとすれば退くよりあるまいが、と退却をはじめた。しかし御旗本組(武田勝頼)が退くまでは馬場信房隊も退かず、 武田勝頼公の大の字の御小旗が敵のうしろをみせたのを見届けてから馬場美濃守も退いた。 武田信龍(一條信龍)も他の軍も退きなされた」とあり、敗色濃厚な設楽原の戦場に残って味方が退くのを確認するまで動かなかったという豪胆さのある武将であったことが分かる。天正4年(1576年)4月、市川での草間の開発地を地侍に与えた武田信龍判物のほか、天正8年(1580年)9月に武田勝頼から青柳郷で起立した新宿に対して、3ヶ月間の諸役免除を受けているものがみられる。はじめは右衛門大夫と称していたが天正8年(1580年)に上野介に改め、右衛門大夫を武田信就に継承している。天正10年(1582年)2月末、織田信長の甲州攻めにより徳川家康の進攻を受け、甲斐の自領に後退、市川陣地(西八代郡市川大門町)に踏みとどまり、最期まで甲州乱入の徳川家康軍を相手に反抗。3月21日(3月10日)に上野城で武田信就(一條上野介)とともに徳川軍を迎え撃つが、多勢に無勢、捕らえられ徳川家康に処刑される。『信長公記』には「三位中将織田信忠卿、上の諏訪より甲府に至って御入国。一條蔵人私宅に御陣を居えさせられ、武田勝頼一門、親類、家老の者尋ね探してことごとく御成敗。生害の衆、一條右衛門太輔(武田信龍)云云」とある。
『甲斐国志』には武田信龍の墓は市川の善福寺(市川大門町覚王山善福寺)にあると記されているがすでに廃寺となっており、牌子も焼失しているという。武田氏滅亡後に、一條衆70名が徳川氏に従ったと徳川家康への起請文にみることができる。
武田信龍には長男武田右衛門大夫信就(一條右衛門大輔)、次男武田久次郎信貞がいる。


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真田源太左衛門信綱 1537〜1575年

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真田幸隆の長男。
源太、源太左衛門尉、信利ともいう。
真田幸隆の嫡男として信州小県郡真田郷で生れる。高梨政頼の娘婿。井上清政の娘を側室としている。
母は河原殿(河原隆正の妹)。信濃先方衆を務める。武勇に優れていたという。 真田信綱の豪男ぶりは、103cmの陣刀(備中国住人/延文6年2月銘)を揮って敵を悩ませたところからも伺える。 真田幸隆からその軍略を余す所なく数え込まれ、真田幸隆や弟真田昌輝とともに武田二十四将に数えられる名将である。天文20年(1551年)戸石城を攻略した戦いに参加して一番手柄を立てている。華々しい初陣である。天文21年(1552年)には南安曇郡小岩岳城攻略の戦いでも出陣している。永禄4年(1561年)、川中島合戦で先陣を春日虎綱、ニ陣として飫富虎昌、馬場信房、上原昌行(小山田備中守)、 甘利左衛門らとともに「きつつき戦法」隊に加わり、妻女山の背後から上杉陣に肉迫した。永禄11年(1568年)2月、今川氏領土を狙う武田晴信は、徳川家康と駿遠分割の密約を結んでいる。12月に駿河へ侵攻を開始する。 真田信綱、真田昌輝兄弟は武田軍先鋒として、山縣昌景や馬場信房らとともに富士川沿いに南下する。 真田信綱、真田昌輝は信濃先方衆であるが、真田幸隆に代わって出陣したものであろう。先陣を務めるのは部門の名誉であり、合戦巧者の武将が任命される慣わしでもあった。伊豆韮山の戦い、三方ヶ原の戦いなどでも活躍。天正2年(1574年)、真田幸隆が病没すると家督を継ぐ。しかし、天正3年(1575年)5月21日、三河長篠の合戦で奮戦するも真田昌輝とともに戦死してしまう。 真田信綱の首は、徳川家の渡辺政綱という武将が挙げたという。
法名は信綱寺殿大室道也大居士。信綱禅寺に葬られている。
真田信綱の妻は中野箱山城主高梨摂津守政頼の娘於きた(於北)殿で、『真田軍功記付記』に「女子あり、是は伊豆守信幸さまの室となり、早世せり」とある。信綱寺に華翁妙栄大姉とある。『小県郡御図帳』には、北さま(於北殿)知行として合計13筆80貫文がみえており、真田昌幸に代替わりしてからも上田周辺で多くの知行を有していたことが明らかである。『滋野世記』には「真田河内守信吉の母は真田源太左衛門の娘」とあることからも真田信綱の娘は真田信幸に嫁いだことが分かる。
真田信綱には長男真田信興(真田宮内大輔)、次男真田信光(真田宮内助)がいたともいわれている。

コメント(4)

所属の隊をお報せいたします。
申し込みの役以外は、名簿順で隊が決まりました。


■武田信龍(一條信龍)隊
大将-およね
副将-(未定)
旗持-アスラン♪
旗持-滝野川
マック
フルフル
び―ん
阿僧祇
ふかひ
たぐっちゃん
浅見父
浅見娘
パンチラ


■真田信綱隊
大将-小助
副将-(未定)
旗持-幸時
旗持-(未定)
らんこ
にし
なぎさ
なお
xRIKx
雪秀
おっちゃん


副将希望者(2枠をジャンケン)
風林火山
はね
かなこ
かずみ
最終的に陣笠は、13人となりました。

予算の1,500円以内でつくれそうにないですが、そこは頑張らせていただきます(^-^)

陣笠希望者は、

らんこさん
にしさん
阿僧祇さん
幸時さん
たぐっちゃん
浅見父さん
浅見娘さん
xRIKxさん
滝野川さん
パンチラさん
アスラン♪さん
雪秀さん

以上です。予約は本日までです。
頼んだのに名前がないっ!!という方いらっしゃいましたら、ご連絡ください。



前夜の宴は、旅館きこり(山梨県笛吹市石和町川中島325)です。

チェックインは15:00からで、到着した方から順に宴を行います。

宴の途中でも、温泉は自由に入りに行って大丈夫です。

食べものと飲みものを少しずつ持ち寄っての宴となります。少しずつでかまいませんのでお持ち寄りください。


当日は、武田軍は、9:00に石和北小学校に集合。

武具着つけ後、記念撮影。

11:00からリハーサル。

12:00から昼食。この後はトイレ行けなくなりますので、飲みすぎ注意です。

12:50に武田軍は小学校を出発して武者行列。河原で布陣して合戦へ。

16:00に終了予定。

不明な点がありましたらご連絡ください(^0^)

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