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夢想権之助と、その周辺♪コミュの武蔵の天才日記 【 2 】

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皆様、メリークリスマスです!!
さて今回は、前回の武蔵の天才日記 【 1 】の続きです。

因みに、新しくこのコミュに入られた方々にご説明させて頂きますが、
この「天才日記」は、今まで余り語られる事がなかった、宮本武蔵という人の「不思議さ」について語る日記でありますので、よろしくご了承下さいね!!
( 正規の武蔵さんの人生については、前回のトピ内に記述してあるURLをご参照下さい
【↓前回のトピ】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12707850&comm_id=325652 )


前回は、武蔵サンこと「伝」が、寺に預けられた幼少期までお話しました。
当時、武家の子供は寺にて基礎学問を学んだのです。
また、孤児院のような役割も果たしていた事は、多くの方々がご存知の所でしょう。


そんな「寺」で、伝は数え年の13歳まで育ちます。
そんなある日、町に1人の浪人がやってまいります。
その名も、新当流の「有馬喜兵衛」。
事実かどうかはわかりませんが、この喜兵衛は、そこら辺を荒らして回る乱暴者だったという事です。

喜兵衛はある日、辻に「自分との試合人募集」の看板を立てます。
その看板に、何と武蔵は、墨をぺたぺたと塗りつけてしまいます。
それを見て、「誰がやったんじゃボルァ!!! #゜Д゜-3」と怒る喜兵衛さん…!!

「あれは、俺がやったンや」と武蔵から聞いて驚く、伝の育ての親の住職さん。
早速伝をつれて、「子供の事ですから、イタズラ心でやったんでしょう。どうか許してやって下さい」と平身低頭します。
ところが伝のほうは、本気だった。
突然、寺の縁側の下から持ってきた薪で相手を打ち据え、頭からぶん投げて大地に叩きつけて殺し、その後しばらく姿をくらませてしまいます。


数え年の13歳といえば、今で言う満年齢の11〜12歳です。
そんな子供に、大人を投げる事が出来るのか…?? という疑問が湧きますが、
武術をされている皆様ならご存知のように、古武術では、体を力学の応用で活用して、力の無い小さな者でも、力のある大きな者を投げ飛ばしたりなどが出来る業が発達しています。

因みに私は、甲野善紀先生ご本の、古武術の体術を介護に応用する技を使って、体重が70キロ近くあるうちの父を、座敷に座っている状態から立たせてみた事があります。
女の力でも、その位の事が出来る日本古武術の技の物凄さには、本当に驚きました…。

しかし、たかだか小学6年生くらいの子供が大人を投げ飛ばせるのか…??? と、現代の私達は考えてしまうのですが、
当時は大人たちでも、身長が160センチ以下の者が多かった事と( 喜兵衛の身長がどの位あったのかは解りませんが…)、
伝はその頃の年には、「すでに15〜16歳位の体格だった」とある事を考えると、あながち荒唐無稽なお話では無いのでは…と思います。


その後も武蔵は、秋山某という剣術家と数え16歳の時に戦って勝っています。


それにしても、武蔵はかなりムチャクチャな少年であったらしい。
彼は数え17の時、関が原の合戦に出陣していますが、
ある日友人と竹薮の上の道を歩いていて、下の竹薮が刈り取られて、まるで刈り跡の根元が、竹槍のように鋭くなっているのを見て、
「お前、あの道を敵が通っていたらどないするんや」と訊きます。
友達は、「あんな所に飛び降りたら、足の裏を怪我するから、見逃すしかない」と言いますが、
武蔵は「俺やったら、飛び降りて捕まえたる」と言って、その言葉どおり飛び降り、足の裏に大怪我を負ったという事です。

また、やはり関が原の合戦の時、富来城( ふらじょう )を攻めた時、
武蔵は友人に「あの敵の槍を分捕ったる」と言ってのけました。
友人は「無理やろ」と言いますが、武蔵は臆する事無く城の狭間に太ももを当てました。
そして敵がその太ももを突き刺すと、武蔵は突き刺されたままその槍を折り取って、
けろりとして「どうじゃい」と友人に言ってのけたという事です。
それを見て、ただただ呆れ返る友…。


これらの話が、伝説なのか本当なのかは解りませんが、実話だったとしたら、もしかしたら武蔵は、「痛覚が無い人か、薄い人なのでは…」という気さえしてきます。
この世には、神経伝達の関係で痛覚が無い人達が、全人口の内に2%の割合で居るそうです。
痛覚の薄い人も含めると、もっと多いでしょう。

武蔵は、「敵の白刃に、自分の体のそばの1.5センチほど近くを斬り付けられても、全く恐れる様子はなかった」そうですが、
もしかしたら、それは痛みを感じないからだったかも知れない…なんて考えたら飛躍しすぎでしょうか…。


因みに、「武蔵」という元服名を与えたのは、あの有名な沢庵和尚だという事です。
沢庵和尚曰く「命名の由来は、まるで武蔵坊弁慶のように勇猛だから」だそうですが、
もしかしたら、関西弁で言う所の、「ムチャクチャな事をする奴」という意味の「ムチャしぃ」という言葉が、案外命名理由の本音だったのでは…と思うのですが…。


因みに播州は、関西語圏であります…。
ついでに、沢庵和尚の略歴は↓↓こちらにて…。

【タクアンの創始者 沢庵和尚】
http://www.ishicoro.com/uresi/no299.htm



ではでは、次回は武蔵の成人後のエピソードをお書きします。

コメント(4)

武蔵の少年時代のエピソードを見ていると、夏目漱石の「坊ちゃん」の少年時代のエピソードに似ている気がするのですが…。
子供が大人を持ち上げる…現代、とかくひ弱な今の子供達を見たら想像も出来ませんけど、別に憶測も何も、私の父の代でも別段珍しくなかったようです。

というのも、私の父は農家の育ちで、幼少から米俵を運ぶ手伝いをさせられ(米俵一俵:米60kg、藁その他+およそ10kg=70kg)担ぐ際には片手で持ち上げられるほどになったそうです。
その後も力自慢で、喧嘩をすれば胸倉掴んで片手で相手を持ち上げることが出来たそうですから、(大抵の相手は、足が地に付かない状態ではどうにも出来ず泣いて謝ったそうです)

まあ、父がそれだけ強かった時代を私は知りませんが、定年で隠居もせずに70歳過ぎた今でもが体は私よりいいですし、私が高校時代剣道やっていて、部内でも腕相撲は結構行ける口だった当時に完敗しましたからね…鉄を相手に力を入れている気分…まあ、こういうのは体感したことの無い人には伝わらないと思いますけど、当時感じてそういった話はウソではなかったのだと思います。

力自慢の話なら、更に上がいるそうで、酒屋のせがれは、酒樽を下駄代わりに両足の下にして(当然中に酒が詰まっている)更に腕に酒樽を複数担いで運搬したそうで、現代ではありえない怪力は、当時は探せば結構いたようです。

んで、本題ですけど、武蔵がわっぱの時代とはいえ、野獣並みの腕力を気性共々持ち合わせていても、別段不思議でもなんでもないと思います。ましてや幕末ならともかく、江戸初期の混迷の時代、戦国の世を生き抜いた武人、怪人は今では想像も出来ないほどの特殊能力を持っていたに違いありません(笑)
>> 転清さん
どうもコメント有難うございます。。

転清さんのお父様って、凄いお方ですね!!

20年ほど前にテレビで見たのですが、「女の俵持ち上げ大会」があるという、とある漁村が取材されていたのですが、
そこではおばちゃんたちが、ニコニコと笑いながら俵2俵を抱えて、軽々と持ち上げているのを見て、驚きました。
そこの村では、「女も俵2俵を持ち上げられないと、一人前では無い」と言われているそうですよ!!
今はどうなのか解りませんが…。


> 酒屋のせがれは、酒樽を下駄代わりに両足の下にして(当然中に酒が詰まっている)更に腕に酒樽を複数担いで運搬したそうで、
> 現代ではありえない怪力は、当時は探せば結構いたようです。

これもまた物凄いお話ですね!!
下駄替りに履いて運んだ酒樽って、どんな種類の樽だったんでしょう??
で、帰りはどうしたのでしょう…。「裸足だったんだろうか」と思うわけですが…。
でも今、「足で樽を運んだ」なんて事があったら、苦情が来そうですね…。

昔は殆ど何でも人力の時代ですから、日頃から鍛えられて、そういう物凄い怪力の方もいたのでしょうね。
私の両親も、転清さんのお父様とほぼ同世代ですが、なぜかその手の怪力人間のお話しは聞いた事が無いのですが…。


因みに、武蔵の時代は、寺でも武術を教えたようですね。
僧侶たち自体が、自衛の為に武術をたしなんでいた時代だったようで、
成人後の武蔵と戦った、槍の使い手の胤瞬も、そんな僧侶の1人だったのでしょう。


しかし武蔵サン、「槍を手で折ってしまう」って凄いです…。
あの戦国期の槍って、棒の部分など、補強の為に何重にも木を組み合わせて、その上に綱でぐるぐる巻きにして漆を塗っているので、かなり太いし折れにくいはずなんですよ…。
ただでさえそんなのって、人力では折れにくい上に、太ももを刺されれば、当然かなりの激痛のはずですから、普通、力自体も入らないはずですよね…。
やはり彼は、「痛覚の薄い人」なんでしょうかねぇ…。

それにしても、何で誰に頼まれても居ないのに、彼がそこまでやったのか、訳が解りませんが…。
竹やぶの刈り跡の上に飛び降りようなどと考えた動機も、本当に不可解ですね…。
何となく、夏目漱石の「坊ちゃん」の導入部分のエピソードのような感じもしますが…。
また新たなる武蔵日記を書こうとして、色々と検索しておりました所、
このようなページを発見してしまいました。

●宮本武蔵とは何者なのか?
http://www.st.rim.or.jp/~success/musashi_ye.html

ここに、↓こんな興味深い記述がありましたので、コピペさせて頂きますね。


「〜武蔵は、宮本無二斎という人物に育てられた。
当時この養父は、一流の武芸者であったらしい。
幼い頃、竹蔵と呼ばれていた武蔵は、この人物から剣術を習ったということであるが、はっきりとは資料がなくて分かっていない。
ただ、13才で、初めての勝負に勝ったと五輪書には記されている。
それはこの養父が、13才の折りに、有馬喜兵衛という剣豪に真剣勝負を挑まれ、どうもこの父が逃げたらしいということになっている。
もちろん伝説だが、もっともらしい話ではある。

父が逃げたことが悔しくて仕方ない武蔵は、この人物の前に立ちはだかって、勝負を挑む。
剣豪の有馬は、大笑いをする。当然だろう。小さな男が、木刀を持ち、目をむいてすごんだところで百戦錬磨の有馬に勝てる訳がない。
はなから有馬は、この少年など眼中にはない。13才の武蔵は、『何を云う父の代わりに相手をする』と目をむく。
小さな子供を相手にしたとあっては、後々の笑い者になると、有馬は相手をしない。
武蔵は待ってましたとばかりに、手に持っていた砂粒を顔にかける。目を潰された有馬は、その場に伏せるような格好となる。
そのタイミングを逃さずに、有馬の頭蓋骨目がけて木刀を振り下ろす。数度振り下ろすと、さすがの有馬も、ピクリとも動かなくなったのである。 〜」


ふうむ…。
もしこの話が本当だとしたら、武蔵( 伝 )さんには、有馬喜兵衛に挑んで勝つ事で、父を乗り越えようという意図もあったのかもしれませんね。

ただ、ちょっと一言…。
武蔵の幼名は、「竹蔵」では無かったはずなのですが…。
「武蔵の幼名=竹蔵」論は、吉川英治の創作だと、色々な研究書に書いてあったんですけどねぇ…。

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