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夢想権之助と、その周辺♪コミュのこれマジ!? 権之助裏伝

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九月に入りました。HNも変え、心気も新たに、
そして今回もまた、「釈迦に説法」な論文をアップさせて頂こうと思います…。


今回は、少し趣向を変えて、皆様にもご検証して頂ければ…と思っております。
実は、今回語るのは、杖道界の超大御所・M先生が、
「これが真実の権之助伝ですよ」と教えて下さったものなのです。

( 一応、このお話を公表していいものかどうか、
その先生と付き合いの途絶えた今は、問い合わせのしようが無いので、
とりあえず教えて下さった先生の名を、「M先生」と表記させて頂きます )

なお、このお話は、あくまでもM先生からの又聞きである事をご了承下さい。
因みに、書き出し始めに【※】が付いているものは、私のコメントです。


☆彡     ☆彡☆彡     ☆彡☆彡     ☆彡

【権之助裏伝】

★天正19(西暦1591)年

 幼名「権」。
越後東南(現・栃木山中)の小村「風車(ふうじゃ)の里」の長の娘を母として出生。
権の父は「桜井大隈守吉勝」。
私生児の為、母子は村はずれに小屋を与えられて生活。優しい母であった。

【※】
武蔵先生は天正12(1584)年生まれなので、権先生は、その7歳年下ですな。
因みに桜井吉勝どのは、「表伝」で書いた肩書きの他にも、
筑波山麓にあった「常陸国(現・茨城県)真壁城」の「第一の重臣」という、
大名の次位に高い地位の人でもありました。

この両親の馴れ初めは何だったのでしょう?
桜井吉勝が、風車の里に軍を駐屯した時に、
夜伽( よとぎ )相手として彼女が差し出されたのか?
それとも戦場で、彼女が彼の片腕として働いていた間に、
伽を命ぜられたのか…?

そもそも、当時の栃木と茨城の真壁は、
同盟を結んでいたんだろうかしらん…と思うのですが…。

香取流では他流試合が禁じられているので、
桜井先生が武者修行の旅をしている時に出会った…という事も無さそうですし…。

因みにM先生いわく、
「『風車の里』という名称から、この村は忍者村だったのでは」との事です…。


★慶長6(1601)年

 権の母病死。この時権、数え年11(満9〜10)歳。
母の指示により、形見の短刀を持って、真壁城下の父・桜井吉勝のもとを訪れる。
以降、吉勝の臣下の某老夫婦に、大切に育てられる。
師父吉勝、権之助の成長を目を細めて慈しむ。

【※】
急に名の表記が「権」から「権之助」になったのは、
この間に元服した為でしょう。

因みに「形見の短刀」が、「父が母と別れる時に残していった形見」なのか、
「母の形見」なのかが不明瞭なのですが…。
「父の形見」ならば、当然権が吉勝の子である事を証明させる為に、
母が持たせたのでしょうね。


★慶長7(1602)

 陰暦5月、徳川氏の命により、真壁氏と、それに同盟していた佐竹氏が出羽国(現・秋田県)に転封。
臣下の中には、従来の領土に残り、土豪化したもの多し。桜井家も「居残り」側。

【※】
佐竹・真壁連合は、かなり強力な軍隊を持ち、
特に真壁久幹(ひさもと)は、その並外れた強さ故に「夜叉真壁」と呼ばれる程、
他の大名達から恐れられていたそうです。
徳川氏は、そんな連中を江戸から遠ざけたかったのでしょう。

桜井吉勝一門が旧領地に残ったのは、吉勝が上総国(現・千葉)にある「香取道場」の学長でもある故もあったかもしれません。
因みに、香取道場は、常陸の国に隣接する地にありました(今もですが)。


★慶長18(1613)年

 権之助、数えて23歳。父吉勝より、新當(しんとう)流の免許皆伝を受く。
この時の権之助の体格、身長6尺2寸(約186cm)、体重23.8貫(約89.25キロ)。
顔立ちは、眉太く、黒目勝ちの目は大きく、鼻筋の通った
かなりの美男だったという。
以降、25回決闘し連勝。その内11〜12回は剣で、残りは棒術で。
彼の棒術は、相手の頭蓋を割り、脳漿を噴出させる凄まじいものだったという。
余りの乱暴ゆえに、ついに父から勘当を受ける。

【※】
書くまでも無いですが、「体重89.25キロ」ってのは、贅肉での体重では無く、仁王様の様な、全身筋肉質という事です。
因みにこの頃の権サマは、かなり荒んでいて不良だったそうです。
M先生曰く「権之助の本質的な性格は、とても優しい人なのですよ」との事ですが…。

父に勘当され、家にも土地にもいられなくなった権之助は、
以来、刀と棒を携えて放浪の旅に出ます。そしてついに…


★元和2(1616)年

 数えて26歳、宮本武蔵と対戦し、初めて敗れる。
権之助にとって26回目の試合。場所は京都郊外某寺の外。
某禅師の引き合いによるものであり、然るべき礼の元に立ち会った。

最初に真剣試合で敗れ、次に棒術で負ける。
数日間滞在し、武蔵の教えを受ける。
武蔵に「お前には棒術の才能がある」と指摘され、以降棒術の技を中心に磨く事になる。

以降、筑波山中に篭り、4年3ヶ月の苦行に没頭。

【※】
皆様ならご存知かもしれませんが、「真剣勝負」のルールは、当時においても、必ずしも斬り合ったり、相手を殺すまで戦わねばならない訳ではなく、一方が「参った」と言えば、それで「勝負あり」と見なされていたそうです。

それは剣のみならず、木刀や棒を使った他の武術でも同様。
体格が自分と同じ位な上、
「己れの体から1.5cm位離れた所を、相手の刃が通り抜けても平気」という、
とてつもない胆力の持ち主の武蔵殿と見合って、
権之助さんは、初めて本当の恐怖感を、対戦相手に感じた事でしょう。

そして、M先生曰く「ここから2人の友情が始まった」そうです。
そして、「権之助はこれ以降、試合をする事はなかった」との事ですが…。


★元和7(1621)年

 権之助数え年31歳。棒(杖)術に真の意味で開眼。


★寛永11(1634)〜16(1639)年

 この間、権之助は2度、九州小倉に武蔵を訪ねる。

1度目は見た事も無いほどの大金を路銀に貰い、生まれて初めて豪遊。
2度目は丁度島原の乱の出兵準備中で、武蔵が忙しくてゆっくり出来ず。


★正保元(1644)年

権之助、熊本の霊巌洞に武蔵を訪ねる。これは2回目の時
(1回目はいつの事か不明)。
武蔵、今迄誰にも見せた事が無いという太刀遣いを見せ、
「もう、これでお前と会うのは最後だろう」と告げ、洞前まで出て見送る。
権之助、振り返り振り返り別れる。

【※】
ちょっとこれは変ですね…。
武蔵が霊巌洞に篭ったのは、彼が自らの余命が少ないのを感じて、
五倫書を書き留め、そこで人生を終えるためだったはずですが…。

島原の乱に出る前に、既に篭っていたなんて…。


★正保4(1647)年

権之助、他界。享年数え57(満56)歳。
 …この以前に、権之助、武蔵と別れて以後、かつて母と暮らした越後東南山中に只1人住み、冬を越す事3度。
草木の芽出ずる早春3月に、看取る者なく他界。師父への思い尽きず、愛用の太刀と共に朽ちる。

その時彼の傍らにあった武具は、
太刀・長さ2尺7寸4分と2尺9寸の2振り。脇差・長さ1尺9寸5分。
棒(杖)・5尺3寸1分。直径2寸弱。6角柱形で鹿皮巻き。

【※】
山中に全く独りぼっちでいたのなら、こんな他界に至る場面の記述など、残るはずがない訳で…。
恐らく、近くにお弟子さんでも住んでいて、時々様子を見に行っていたのでしょうか。

変転恒なき彼にも、弟子を持つ事はあったようで、
江戸で道場を開いていた頃もあり、彼の弟子の中で有名な人には、
文禄2(1593)年・信州生まれの松林左馬助蝙也斎( まつばやしさまのすけへんやさい )などがいます。
蝙也斎は、権之助に「夢想願流」を学び、小太刀も教わったそうです。


【 ※ 補足 ※ 】

通説では、権之助先生は、北九州宝満山に篭った事になっていますが、
裏伝では、九州に彼が滞在していたのは武蔵殿に会う為だけに訪れて行った時のみなのだそうです。

「宝満山篭り」も、「黒田藩兵法指南役採用」も、
本当は権之助さんの弟子達のエピソードだそうで、
多分、余りに侘しい開祖の人生に「これではあんまりだ」という事で、弟子筋の人々が何人かの弟子のエピソードを混ぜ合わせて「通説」の様な説を創作した…というのが真相だという事です
( 「そういう事は、大抵どこの開祖伝でもある程度ある」との事で…)。

因みに、権之助は、通説のように派手な格好をする事は無かったそうです。


…以上です。。

☆彡     ☆彡☆彡     ☆彡☆彡     ☆彡


いやはや、華やかな通説とは、殆ど別人のような人生ですね。
なんか、 「武蔵どのと親友になった事意外、ええ事あったんかい…T_T 」
…って感じの人生ですが……。


私自身は、この説に関しては半信半疑です。
いくら何でも、通説からかけ離れすぎている。

( もっとも、真壁氏の転封や、桜井市が居残りになった事や、
蝙也斎が権之助の弟子だった事や、
権之助が桜井吉勝の子だという話などは、裏が取れるお話ですし、
戦った場所は違うとはいえ、武蔵と戦った事は、通説と共通していますが…)

しかし、「ウソだろう」と切り捨てるには、余りにも生々しすぎて、どこか切り捨てられないような気もするのです。。


さて、皆様はどのようにお考えになるでしょうか??
是非とも、ご意見を仰ぎたいものです…。

コメント(7)

皆様、えらく長々しくて、読みづらくてすいませんです。。
八月のレポートみたいに、
前編後編に分けましょうかねー…???
これは武蔵のコミュにあげていたものですね。
なにかで検索してみつけました。
非常に興味深く読ませていただきましたが、
正直、半信半疑。
前々から内容についてはうすうす聞いていましたが、
ここまで詳しい内容はわかりませんでした。
もし、裏付ける文書みたいなのがあるとおもいろいですけどね。
豪気なカブキ者であったにしては、兵法敗れて再三修行しなおして、剣術を捨てて杖術を編み出したなどは、割とマメな性格で研究熱心で、およそ無頼漢とはイメージが違うという気もしますから、全く外れでも無いのかもしれませんね。
>> しんさん、転清さん、
どうもコメント有難うございます。。


★しんさん

> 武蔵のコミュにあげていたものですね。

あはは…;;^o^ ご覧になりましたか。
あのコーナーでは、私はmixi入りたてて、かなりテンション高く騒いでいましたが…。
本当にお恥かしい事です;;;

しかも、武術界のことなど余り知らなかったものですから、
あのコミュ管理人の方の要請もあったせいもあり、
ああいうものを無用心に出してしまって、
良かったものかどうか…などと、今になって思うのですが…。


> もし、裏付ける文書みたいなのがあるとおもしろいですけどね。

全くその通りです。

しんさんも仰るとおり、そして私も上記しましたように、
とりあえず今のこのような状態では、
本当に半信半疑としか言いようが無いですね…。



★転清さん

> 剣術を捨てて…

いえ、ですからその説は、
「捨剣」という小説で作り上げられたもので、
実際には捨ててはいないのですが…;;^_^A


> 豪気なカブキ者であったにしては、〜割とマメな性格で研究熱心で、
およそ無頼漢とはイメージが違うという気もしますから、


これは確か、司馬遼太郎の「宮本武蔵」の中で、
実際に司馬氏が取材して小説の中に取り込んだ
「権之助の実談」として出ていたのですが、
「日頃の権之助は地味好みで、
他人から、『かつてあんなに派手な装束をしていたのに、
なぜ今はそんなに地味なんですか??』と問われると、
『あれは、就職のために仕方なくやっていたのですよ』と言って、
その事についての話をするのを嫌がった」という話があるのですが…。

これを見ていると、権之助さんは、やはり通説どおりに就職できていたのでは…という気がするのですけどね〜〜。。

それから、私は権之助伝説をあれこれ見ていて思ったのですが、
彼の性格は、「かぶき者」というより、
「研究者タイプ」だったのでは…と思うのですが…。
剣術は確かに捨ててませんね。というか、お前稽古のときに太刀つかってんだろ〜って全く持って失言ですね。

杖術が御留武術として黒田藩に伝わっていることからも、少なくとも弟子は居た訳で、弟子を従えて巡業っていうのもなんですから、ある程度はどこかで落ち着いたのでしょうね。
権之助自身が黒田藩にお抱えになったかどうかは分かりませんけど…話題にその話が出ないところを見ると、記録が無いのでしょうから可能性薄いですけど。
>> 転清さん

> ある程度はどこかで落ち着いたのでしょうね。

件のM先生のお話では、江戸で道場を開いていた事があったようですよ。


> 権之助自身が黒田藩にお抱えになったかどうかは分かりませんけど
> …話題にその話が出ないところを見ると、
> 記録が無いのでしょうから可能性薄いですけど。

うーむ、そうですねー…。
真壁側にも記録が無いようですし。。

M先生仰るには、
「当時の勘当者には籍など無い。
ましてや武士の地位を剥奪された者になど」との事ですが、
私が思うに、
「母が忍者の頭目の娘だった」という事が事実なら、
権之助さんは、もしかしたら、武家社会から「忍び」として扱われていたのかもしれませんよ。

もしそうならば、黒田藩でお留め武術になったほどの流派開祖なのに、
藩側の文献が無く、墓も無いという事の説明がつくと思うのですが…。
もっとも、忍者でも、墓のある人たちはいますけどね…。


そもそも、忍術は修験道から派生したものなのだそうです。
「権之助=忍び説」だと、しんさんが別トピで仰っていた
「夢想流杖術は、修験道から派生したものなのでは…」という説にも
符合すると思いますし…。

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