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mixi参謀本部コミュの陸軍しりとり

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陸軍しりとりで盛り上がりましょう!
皆さんの知識を存分に披露してください。

国籍、時代を問いません。
戦争、戦闘、作戦、人物、地名、兵器、制度なんでも結構です。
未完成や試作段階の兵器もOKです。
小説・マンガ・映画などに登場する仮想戦記の内容も対象内です。
その場合、出典を明記してください。

同じ名称が何回出てもかまいませんが、直近に登場した名称は出来るだけ避けてください。

その他、当トピの特別ルールを定めます。
ルールは随時、追加修正します。

--★陸軍しりとり特別ルール【2022.11.24更新】★--

1 海軍関係はNGです。ただし、陸軍と密接に関係のあるものはOKとします。
  その場合、理由を明記してください。
  (例)三式潜航輸送艇
      ・・潜水艦だが、日本陸軍が開発・建造・運用した。

2 「ん」で終わるものは、その1つ前の語句を採用します。
  (例)飛燕(ひえん)→え

3 濁音で終わるものは、濁音ありなし両方ともOKとします。
  (例)スターリングラード→「ど」or「と」

4 次の語句で終わる場合は、○○の最後の語句を採用します。
 1 「○○戦争」「○○の反乱」「○○の乱」「○○の戦い」「○○会戦」
  「○○夜戦」「○○航空戦」「○○作戦」「○○号作戦」「○○決戦」
 2 「○○海戦」「○○沖海戦」「○○岬沖海戦」
 3 「○○事件」「○○事変」
 4 「○○合戦」「○○征伐」「○○の役」
   (例)日露戦争→ろ
      インパール作戦→る
      ミッドウェー海戦→え
      マリアナ沖海戦→な
      五・一五事件→ごorこ
      支那事変→な
 5 「○○式戦闘機」「○○式艦上戦闘機」「○○式陸上攻撃機」
  「○○式中戦車」「○○式重機関銃」「○○式野砲」「○○式内火艇」
   ※愛称、秘匿名、コードネームなどを採用しても可です。
   (例)九七(きゅうなな)式戦闘機
       →○の最後の語句から「な」を採用。
       →米軍コードネーム「ネイト」から「と」を採用。
       →「なorと」でしりとりを続けてください。
      九七(きゅうなな)式中戦車
       →○の最後の語句から「な」を採用。
       →日本陸軍の秘匿名「チハ」から「は」を採用。
       →「なorは」でしりとりを続けてください。
 6 「○○島(とう、しま)」
   ※艦船、人名等で「とう、しま」で終わる場合は適用されません。
    島名以外は適用外となりますので、ご注意ください。
   (例)硫黄島(いおう とう)→う
      父島(ちち じま)→ち
      毛沢東(もうたくとう)→う
      敷設艦「沖島」(おきしま)→ま
 7 その他、類似の語句に適用
   ※そのつど「4-7に基づいて適用」などの断りを入れます。

5 外国の人名、地名等につき、読み方が複数ある場合はどれを採用してもOKです。
 また、現地語読み・日本語読みのどちらでもOKです。
  (例)ルーズベルトorローズベルト
        ・・どちらを採用してもOKです。
  (例)李舜臣
      →(現地語読み)イ スンシン
      →(日本語読み)り しゅんしん
        ・・どちらを採用してもOKです。

6 「う」で終わる場合は、あ行「あいうえお」からの選択も可とします。
 「う」で終わる語句が多く、しりとりを続けるのが難しいためです。
  (例)四式重爆撃機「飛龍」(ひりゅう)
      →うorあ行「あいうえお」の中から好きな語句を選べます。

7 「ら」行で終わる場合は、ら行「らりるれろ」からの選択も可とします。
 「ら」行で始まる語句が少なく、しりとりを続けるのが難しいためです。
  (例)ガダルカナルの戦い
      →るorら行「らりるれろ」の中から好きな語句を選べます。


まず最初は「ノモンハン事件」からスタート。
→は

コメント(180)

吉岡 友愛(よしおか ともよし)

1863年11月18日(文久3年10月8日) - 1905年(明治38年)3月7日
日本の陸軍軍人。福岡藩(福岡県)出身。最終階級は陸軍中佐(戦死後大佐昇進)。陸軍大学校卒。

日露戦争ではじめ旅順攻囲軍に属し旅順攻囲戦に参加、旅順陥落後の1905年1月26日に歩兵第三十三連隊長に着任し、黒溝台会戦に参加。奉天会戦でロシア軍を退却させたが逆襲に会い、1905年3月7日戦死。享年41歳。

福岡市中央区にある西公園 (福岡市)に、日清日露戦争記念碑と共に吉岡友愛大佐記念碑があったが、1926年(大正15年)に建立された吉岡の銅像は、太平洋戦争の最中に供出され現在は無い。

→し
クレア・リー・シェンノート(英: Claire Lee Chennault)

1893年9月6日 - 1958年7月27日
アメリカ合衆国の軍人。最終階級は中将。中国名は陳納徳。アメリカ陸軍航空隊の将校であり、日中戦争(支那事変)最中には顧問として派遣された中華民国軍で航空参謀長を務めた。フライング・タイガースの指揮官としてその名を知られる。

→と
鳥飼 恒男(とりかい つねお)

1895年〈明治28年〉1月13日 - 没年不明
日本陸軍の軍人。陸士29期、陸大専科3期。最終階級は大佐。
鳥取県出身。旧制中学を経て陸軍士官学校に入学。太平洋戦争ではインパール作戦(ウ号作戦)に参加。1944年3月、第31師団・佐藤幸徳師団長隷下第31歩兵団長・宮崎繁三郎少将所属中突進隊第138連隊長として出陣。左突進隊は、第31歩兵団長宮崎少将が、右突進隊は第138連隊第3大隊の柴崎大尉が率いていた。1945年、第138連隊長としてそのまま終戦を迎える。

→お


※1932年(昭和7年)4月当時の鳥飼
 朝鮮半島羅南にて長男と
オースチン装甲車

第一次世界大戦中にイギリスのオースチン社が開発した装輪装甲車。もともとはロシア帝国の発注で生産されたが、ロシア帝国軍・ロシア内戦中の両陣営のほか、イギリス陸軍などでも使用された。

日本陸軍は1918年型を少数輸入して配備し、シベリア出兵で使用。シベリアでは旧ロシア帝国軍のプチロフ型も鹵獲している。1930年代まで現役だった。

→ち
長沙の戦い(ちょうさのたたかい、中国語:長衡會戰)

1944年に日本軍が中国湖南省に侵攻した戦闘である。日本軍は「一号作戦」(大陸打通作戦)の一環として、日本本国と満州から兵力の大部分を移駐させた。これは、日本が占領した満州、中国北部、朝鮮半島と東南アジアの陸路と鉄道の回廊を確立し、アメリカ軍の日本本土空襲を回避させることであった。日本軍は衛陽や長沙を占領することができたが、1944年7月のサイパン陥落で本土空襲防止という目的を果たせなかった。

戦争:太平洋戦争 (日中戦争)
時 :1944年5月-1944年8月
場所:長沙と衡陽
結果:日本軍の勝利、中国軍の撤退。

→さ
斎藤 瀏(さいとう りゅう)

1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日
日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。長野県出身。陸士12期・陸大21期。陸士の同期生に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。

1904年に日露戦争に従軍。この時短歌の道を志して佐佐木信綱に手紙を送り、教えを請うた。1928年に歩兵第11旅団長として山東出兵に参加、済南事件で革命軍と交戦した罪で待命となる。1930年予備役となる。

1936年、二・二六事件で反乱軍を援助したとして禁固5年の刑となり、入獄。収監された陸軍衛戍刑務所では家族ぐるみで親交があった栗原安秀と共に刑に服した。戦後は歌集と共に二・二六事件の回想録などを発表した。

1987年、NHKに保存されていた二・二六事件の電話傍受の録音盤の中の、栗原が首相官邸からかけた通話の一つが事件終結直前の2月29日未明に斎藤へかけたものであることが匂坂春平が残した裁判資料から判明した。この事実は1988年2月21日に放送されたNHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」で取り上げられている。

なお、斎藤は戦後に著した回想録『二・二六』のなかで、事件の間、何者かに自宅電話を傍受されているのではないかという疑念と共に、軍の諜報機関などによると思われる電話が度々かかってきたことを記している。後者の疑念も匂坂資料及び傍受に当たった当時の関係者の証言により事実である可能性が高いことが判明し、斎藤への電話傍受は事件前から始められていたこと、事件後の斎藤自身が傍受を警戒してかほとんど自分からは電話をかけていなかったことも分かった。

→う、あ行

宇佐美 興屋(うさみ おきいえ)

1883年(明治16年)1月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日
東京府出身。日本の陸軍軍人。陸士14期・陸大25期恩賜。最終階級は陸軍中将。

1903年、陸軍騎兵少尉に任官して騎兵第7連隊付。佐官時代には、オランダ公使館附武官、陸軍省軍務局騎兵課長、騎兵第13連隊長などを歴任。1935年8月に第7師団長に親補され、1936年3月に侍従武官長に親補された。1940年1月に予備役編入。

→え、あ行
遠藤 三郎(えんどう さぶろう)

1893年1月2日 - 1984年10月11日
山形県出身。日本の陸軍軍人。陸士26期恩賜・陸大34期恩賜。最終階級は陸軍中将。

1914年12月、砲兵少尉に任官し横須賀重砲兵連隊付となった。第三旅団野戦重砲兵第1連隊中隊長から参謀本部付大尉になった時、関東大震災があって、朝鮮人と中国人の保護拘置を警察に依頼するなど救済に尽力するが、別の部隊が亀戸事件を起こし、遠藤の所属する連隊で王希天殺害事件が起きた。外国籍である王殺害が国際問題になりかねないと判断した陸軍は隠ぺい工作を命令し、遠藤はフランス陸軍大学校に留学することになった。帰国後、関東軍作戦主任参謀となり、満州事変では熱河作戦や塘沽協定に参加した。

1937年12月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大佐となった。1939年8月、陸軍少将に進級。直後にノモンハン事件直後の関東軍参謀副長として派遣された。彼はその被害から現在の関東軍ではソ連軍に対抗できないと悟って北進論よりも満州防衛を優先するように主張して、陸軍首脳と意見を衝突させて更迭された。

その後、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを歴任。第3飛行団長在任時には絨毯爆撃が非人道的で国際法に触れる恐れありとして、『重慶爆撃無用論』を提出して採用され、1941年に海軍との共同作戦であった重慶爆撃百二号作戦は打ち切られた。1942年12月、陸軍中将となり航空士官学校長に就任した。さらに、陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任し、兵器産業の国営化と航空機の規格統一に尽力した。

遠藤三郎は生涯にわたり膨大な「日誌」を書き残した。これは1904(明治37)年8月1日から、最後の日付1984(昭和59)年9月9日まで一日も欠かさず93冊に及び、「極秘」のスタンプが押された軍事機密書類も数十点含まれる、日本近現代史の貴重な一次資料である。「遠藤日誌」の原本は現在埼玉県狭山市の遠藤家の遺族から狭山市立博物館に一括して寄託され、研究者の閲覧は可能である。

→う、あ行
A・A・ヴァンデグリフト(Alexander Archer Vandegrift)

1887年3月13日 - 1973年5月8日
アメリカ合衆国の軍人、海兵隊大将。モットーは『我が海兵隊には降伏という伝統はない』

1941年11月に第一海兵師団に配属された。1942年3月には少将に昇進し、5月に第一海兵師団の師団長として南太平洋に向けて出航した。同年8月7日、ソロモン諸島のガダルカナルに上陸。1943年7月には第一海兵軍団の司令官となり、ブーゲンビル島、ソロモン諸島北部などへの上陸作戦を指揮した。上陸が成功すると、海兵隊の総司令官となるためにワシントンに呼び戻された。その後、第18代海兵隊総司令官に就任。在任中の1945年には大将に昇進し、 現役勤務中に大将に昇進した初の海兵隊将官となった。

→と
富田 直亮(とみた なおすけ)

1899年(明治32年)7月27日 - 1979年(昭和54年)4月26日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将(日本)、陸軍上将(中華民国)。熊本県出身。陸士32期。陸大39期。

太平洋戦争開戦時は陸軍大学校兵学教官。1944年12月に第23軍参謀副長、1945年4月に第23軍参謀長として中国・広東省に赴任。1946年5月に復員。1950年2月に台湾政府軍(中華民国国軍)軍事顧問団(白団)の団長を務める。1972年、中華民国陸軍上将に特進。1979年4月、休暇で日本帰国中に東京にて満79歳で死去。遺骨は分骨され、日本と台湾新北市の樹林にある海明禅寺に安置されている。

→け


※台湾新北市樹林区海明禅寺(海明寺)
五式軽戦車 ケホ(ごしきけいせんしゃ ケホ)

大日本帝国陸軍が第二次世界大戦末期に開発した軽戦車である。日本陸軍の軽戦車の系列としては最後の車輌だった。1942年に開発が始まったが、戦車よりも航空機や艦船へ資源が優先されたために開発が遅れ、1945年に試作車が1輌だけ完成したと伝えられる。しかし一枚も写真が存在せず、詳細な情報も資料が焼却されて不明で、側面図とされるものだけしか残っていない。現存する資料が少なく謎の多い車輌である。

→ほ
堀井 富太郎(ほりい とみたろう)

1890年(明治23年)11月7日 - 1942年(昭和17年)11月23日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県出身。責任感の強い性格であったと言われる。また、陸軍大学校を卒業していない所謂“無天組”でありながら、中将にまで栄進した。

太平洋戦争直前の1941年11月6日に南海支隊長に就任。太平洋戦争においてグアム攻略やラバウル攻略を指揮し、いずれも成功させる。

1942年7月に始まったポートモレスビー作戦では、最初こそ日本軍の攻勢は成功したが、補給が続かず次第に消耗した。堀井少将は手に入れた陣地を放棄して、9月25日に撤退を開始した。カヌーで川を下ったが、11月23日、突風にあおられてカヌーが転覆。堀井少将は従卒とともに海岸に向かって4kmほど泳いだが力尽き、従卒へ「堀井と田中はここで死んだと伝えてくれ。天皇陛下万歳!」と言い残して海中へ没した。死後、中将に特進した。

→う、あ行
R・W・ヴォルクマン(Russell William Volckmann)

1911年9月23日 - 1982年6月30日
アメリカ合衆国の軍人。第二次世界大戦期、アメリカ陸軍の歩兵将校としてフィリピン・コモンウェルスの軍事顧問を務めたほか、日本軍占領下のフィリピンでは抗日ゲリラの指導者として活動した。戦後も陸軍に残り、新たな特殊部隊の創設に関与した。現在、ヴォルクマン大佐の名はグリンベレー創設者の1人として記憶されている。最終階級は准将。

→ま
牧野 四郎(まきの しろう)

1893年4月18日 - 1945年8月10日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鹿児島県出身。陸士(第26期)・陸大(34期)。

1944年3月、第16師団長に就任。1945年8月、比島レイテ島にて師団壊滅の責任を取り自決。「余が敵弾に倒れたる時は余の肉を喰いその血をすすりて糧となし最後の一兵となるともレイテ島を死守し君恩に報ずべし」(死守の訓辞)、享年52。

→う、あ行
明石 元二郎(あかし もとじろう)

1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日
明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将男爵。第7代台湾総督。
福岡藩出身。陸士(旧陸士6期)・陸大(5期)。

1902年にロシア帝国公使館付陸軍武官になる。当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力もあり、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などを入手する。

明治37年、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石は以後この地を本拠として活動する。明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる工作を行った。

明治43年7月、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めた。大正7年7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任1年4か月の大正8年10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を患て郷里の福岡で死去した。満55歳だった。

→う、あ行
大迫 尚道(おおさこ なおみち)

嘉永7年7月25日(1854年9月6日) - 昭和9年(1934年)9月12日
日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。野砲兵監・第18師団長・第4師団長・軍事参議官を歴任し、陸軍大将に至る。

1875年12月陸軍士官学校(旧2期)に入校。在校中に起った西南戦争では征討軍団付となり従軍する。1894年8月には日清戦争に第1軍参謀として出征する。1904年9月から日露戦争に野砲兵第2旅団長として出征して旅順攻囲戦に参加、攻囲戦途上より第2軍参謀長に転じる。

1919年7月、後備役編入。退役後は教化団体「大日本救世団」を組織し、愛国思想の鼓吹に努めるほか、大正9年の東京市電ストライキの仲裁に当たり、免職になった職員の多くを明治神宮造営事業に斡旋するなど武人一辺倒ではない多彩な活動をみせた。

→ち
チト 四式中戦車

大日本帝国陸軍の中戦車である。昭和16年度研究計画で研究が着手され、1942年9月、完全な新規車輌として、陸軍兵器行政本部開発方針により開発が決定された。特筆すべき点は、最初から対戦車戦闘を想定してつくられた本格的な戦車だったことである。終戦までに完成した車輌は試作車2輌であった。

→と
土井 市之進(どい いちのしん)

1867年1月10日(慶応2年12月5日) - 1949年(昭和24年)3月18日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。山口県阿武郡萩町長。陸士(旧11期)。

1903年12月、参謀本部付として清国に派遣され、1904年1月から同年5月にかけて僧侶に変装して遼陽で情報収集を行った。同年4月、その功績により個人感状を授与された。同年7月、満州軍司令部付となり、同年10月、歩兵少佐に昇進し満州で諜報活動に従事した。

1916年4月、支那駐屯軍司令部付となりパプチャプ事件(満蒙独立運動)に参加。1918年7月、陸軍少将に進級し待命となる。1919年1月、予備役に編入された。1920年10月から1922年8月まで召集され、浦塩派遣軍司令部嘱託としてシベリア出兵に出動した。その後、1925年5月まで南満州鉄道嘱託としてハルビン札免公司理事を務めた。1925年10月から1927年9月まで、山口県萩町長に在任した。

→し
下元 熊弥(しももと くまや)

1882年(明治15年)6月2日 - 1945年(昭和20年)9月21日
日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。

高知県出身。海南中学、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。1904年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第37連隊付となり日露戦争に従軍。1911年11月、陸軍大学校(23期)を卒業。

1925年5月、陸軍歩兵学校教官に就任し、歩兵第5連隊長、歩兵学校教官を経て、1930年8月、陸軍少将に進級し歩兵第24旅団長となる。1932年2月、第一次上海事変勃発により動員され、混成第24旅団長として出征。1934年8月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に就任。1935年12月、第8師団長に親補された。

1937年8月、予備役に編入されたが、同月に召集され第108師団長に就任。日中戦争に出征し、石家荘会戦等に参戦した。1938年7月に召集解除された。終戦後の1945年9月に東京で自決した。

→や
薬丸 兼教(やくまる かねのり)

生年不詳 - 1945年(昭和20年)6月23日
日本陸軍軍人であり剣術家。薬丸自顕流第十二代宗家薬丸兼吉の子。最終階級は陸軍中佐。

陸軍士官学校第48期卒。1943年、陸軍大学校(第57期)卒業。陸士では昭和天皇の弟である三笠宮と同期だった。その後、沖縄第32軍司令部情報将校として牛島満司令官を補佐した。1945年6月18日、ゲリラ戦指揮の命を受け司令部を出立。その後の消息は不明であり、戦死したと推定されている。

薬丸自顕流宗家の家柄に産まれた為、幼い頃から修行を重ねた結果、常人以上の筋力と腕力を持っていたという。士官学校教官の時の渾名は『一発パン』。これは兼教から平手打ちを食らった生徒が、あまりの力に吹っ飛んで倒れた事から付けられたという。

→り、ら行


※陸軍士官学校予科卒業時
遼陽会戦(りょうようかいせん)

1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。日露両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。

遼陽会戦は日本軍の遼陽入城に終わったが、クロパトキンは戦略的後退であると主張し、両軍が勝利宣言を行う。死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上にのぼった。日本軍では、8月31日に遼陽会戦の首山堡争奪において、歩兵第34連隊の関谷銘次郎連隊長、橘周太第1大隊長(少佐)が戦死した。橘少佐は、海軍における旅順口閉塞作戦において戦死した広瀬武夫少佐とならび、戦後に軍神とされた。

戦争:日露戦争
時 :1904年8月24日 - 9月4日
場所:中国遼寧省遼陽付近
結果:日本軍の勝利

→う、あ行
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ)

安政2年6月20日(1855年8月2日) - 1931年(昭和6年)9月2日
日本陸軍の軍人。教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。

弘前藩士の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年10月陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入る。1877年の西南戦争に出征し、負傷。広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に就任後、1894年6月から日清戦争に出征。同年中に中佐に進級し第5師団副官を命ぜられる。1895年3月歩兵第21連隊長に就任し、同年7月戦役から帰還する。1901年5月陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。1904年6月から日露戦争に出征し、1905年3月から第3軍参謀長に移り、1906年1月帰還する。

戦後は第17師団長、第4師団長、第1師団長を歴任する。1915年12月には陸軍三長官の一角、教育総監に就任。1920年6月後備役編入となる。

一戸の武名を一躍世に知らしめたのが日露戦争での旅順攻囲戦である。歩兵第6旅団長として参加した彼は第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し占領に成功。日本軍で唯一目標の占領に成功した。続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。

→え

エニウェトクの戦い

太平洋戦争中の1944年2月18日から2月23日にかけて戦われた、日本軍とアメリカ軍のマーシャル諸島エニウェトク環礁を巡る戦い。アメリカ軍の作戦名はキャッチポール作戦 (Operation Catchpole)。一連のギルバート・マーシャル諸島の戦いにおいて事実上最後となる主要な戦闘であり、この戦いと支援作戦であるトラック島空襲以後、マリアナ諸島より東の地域から日本の航空兵力と重要拠点としての価値が一掃される事となった。

日本軍兵力は、満洲から移駐してきた陸軍の海上機動第一旅団主力(指揮・西田祥実 少将)2,763名、海軍の第61警備隊分遣隊・第952航空隊199名、ほか軍属などを合わせて3,560名。アメリカ軍上陸部隊は、海兵隊5,820名、陸軍4,556名の10,376名だった。日本軍は約50〜60人の捕虜を除いて全滅。アメリカ軍の損害は戦死および行方不明195名、負傷521名だった。

戦争:太平洋戦争
時 :1944年2月17日-2月18日
場所:エニウェトク環礁
結果:アメリカ軍の勝利

→く


※上陸するアメリカ軍部隊
葛目 直幸(くずめ なおゆき)

1890年(明治23年)10月10日 - 1944年(昭和19年)7月2日
高知県出身。日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功二級。

1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。歩兵第22連隊附としてシベリア出兵に従軍。内地帰還後の同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付に転じる。1931年8月、歩兵少佐に昇進し独立守備歩兵第3大隊付となる。1939年8月、歩兵大佐に進級し丸亀連隊区司令官に就任。1941年4月、連隊区名称の変更に伴い高松連隊区司令官となる。

1941年7月、歩兵第222連隊長に発令され日中戦争に出征。1943年10月、南方に転用され太平洋戦争に出征。ビアク島の戦いに参戦し、1か月以上の激戦を行い、その善線ぶりにマッカーサーを苦しめたが、1944年7月、戦闘継続を断念して自決し、同日、陸軍中将に2階級特進した。同年8月、南方軍総司令官、第2軍司令官より個人感状を授与された。

→き、ぎ


※(左)葛目直幸
 (中)ビアク島の戦い 日本軍の司令部が置かれていた西洞窟の入口
「キ一〇九」(き ひゃくきゅう)搭載砲

八八式七糎野戦高射砲をベースに開発した口径75mmの航空機搭載砲であり、実際に整備された日本陸海軍の航空機の武装の中では口径威力ともに最大であった。射撃の反動は約4t以上。携行弾数は弾倉内に15発である。装填は乗員による手動だった。

本砲はアメリカ軍のB-29を撃墜するために開発された砲で、四式重爆撃機「飛龍」を改造し特殊防空戦闘機としたキ109の胴体軸線上に装備された。このためキ109は左副操縦席を撤去している。本砲の目的は体当たり戦法に替わるものとして、B-29の有効射程外から砲撃を加えて撃墜することであり、射程1,000m以内で必中を目指していた。しかし射距離修正のための照準具や信管の調整、エンジンの高空性能に問題があり、B-29迎撃には期待したほどの成果は上げられなかった。総生産数は終戦までに22機とされる。

→う、あ行


※(左)キ109 機首先端は75mm砲の砲身
 (右)原型となった八八式七糎野戦高射砲
後宮 淳(うしろく じゅん)

1884年(明治17)9月28日〜1973年(昭和48)11月24日
京都府出身。日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。

大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業(同期に東条英機、前田利為)、翌月、歩兵少尉任官。歩兵第38連隊付、陸士生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業した。

1935年8月に陸軍省人事局長に就任。翌1936年の二・二六事件勃発を受けて、寺内寿一陸相のもと、その後の粛軍人事に当たる。1937年3月には同軍務局長に転ずる。同年7月の支那事変に当たってはいわゆる不拡大派に属したが、省内を纏めることは出来ず紛糾を招いた。その後は第26師団長、第4軍司令官、南支那方面軍司令官、支那派遣軍総参謀長を歴任。

1944年2月、軍事参議官兼参謀次長に就任。東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長を兼任した際に、陸士同期で幼年学校以来の友である後宮を第一次長(作戦担当)に起用したものである。参謀次長就任時にはすでに陸軍大将であったが、この事例は陸海軍を通じてきわめて異例である。同年7月の東條退陣後は第3方面軍司令官となり、在任中に終戦を奉天で迎えた。

1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し後宮を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)したが、シベリア抑留中であったため不起訴となった。1956年12月26日に復員した。1963年から1968年まで日本郷友連盟会長の職に在った[1]。1971年からは日本軍装研究会の初代会長を務め、在任中の1973年(昭和48年)に死去した。

→じ、し
試製自動小銃甲号(しせいじどうしょうじゅうこうごう)

1930年代に大日本帝国で開発された自動小銃である。1921年(大正9年)7月に定められた陸軍技術本部兵器研究方針による歩兵兵器開発計画により、歩兵銃、機関銃、狙撃銃などと共に開発が決定されたが、十一年式軽機関銃の改修や航空機用機関銃などの開発が優先されたため、開発開始は1932年(昭和7年)にまでずれ込んだ。 その後は開発が進められたものの、1938年(昭和13年)に国家総動員法が施行され、三八式歩兵銃の緊急増産に追われる事になったため、自動小銃の生産は中止された。

→こ、ご


※スプリングフィールド造兵廠博物館に保管される試製自動小銃甲号
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)

支那事変(日中戦争)初期の1938年6月に、国民革命軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした焦土作戦である。漢人の蒋介石軍が黄河の堤防を爆破して黄河を氾濫させ犠牲者は数百万人に達し、中国人住民を苦しめた。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国語では花園口決堤事件と呼ばれる。

場所:中国河南省
日付:1938年6月
概要:焦土作戦
死亡者:不明
被害者:数百万人

→い、あ行


※被災地における日本軍の救助行為をアピールする新聞記事
石原 莞爾(いしわら かんじ)
1889年(明治22年)1月18日 - 1949年(昭和24年)8月15日

日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。

帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。

陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満洲国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議随員も経験した。東亜連盟も指導し、予備役編入後は立命館大学国防学研究所所長も務めた。

→じ、し
試製七糎半対戦車自走砲 ナト(しせいななセンチはんたいせんしゃじそうほう ナト)

太平洋戦争期における大日本帝国陸軍の装甲戦闘車両である。既存の弱火力の日本軍対戦車砲から脱却し、アメリカ軍戦車が持つ装甲を撃ち抜くために作られた。

昭和17年2月、75mm級の対戦車砲の整備が構想され、昭和18年2月に研究開始。昭和19年7月、試作砲2門が試験を行った。昭和20年1月、四式中型装軌貨車を使用した車体が完成。同年5月、新砲搭載の自走砲は伊良湖射場で射撃試験を実施したが問題が多く、最終的に試験に成功したのは終戦1ヵ月前の昭和20年7月10日であった。量産は同年8月から相模造兵廠で行われる予定で、すでに70輌が生産に着手されていた。うち30輌が工程70%に達していた。

→と
土肥原 賢二(どひはら けんじ)
1883年(明治16年)8月8日 - 1948年(昭和23年)12月23日

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校(16期)卒業、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校(24期)卒業。

謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たす。 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑される。

→じ、し
十一年式軽機関銃(じゅういちねんしきけいきかんじゅう)

日本で1910年代から1920年代前期にかけて開発・採用された軽機関銃。日本軍が初めて制式採用した軽機関銃であり、1941年(昭和16年)までに計約29,000挺が生産された。

村田経芳・有坂成章と並んで日本を代表する銃器設計者である南部麒次郎により、1922年(大正11年)に完成し制式採用。翌1923年(大正12年)春から部隊配備され(当時において陸軍での軽機の配備は諸外国に比べても早い)、初陣は1931年(昭和6年)の満州事変であった。

1930年代後半、後続軽機たる九六式軽機関銃の採用・改編により十一年式軽機は徐々に第一線から退くことになり、また太平洋戦争前中期頃には使用実包を7.7mm弾に変更した更なる後続軽機九九式軽機関銃の登場により、完全に主力の座をこれらに明け渡した。

「じゅういちねんしきけいきかんじゅう」
 ↓
「じゅういち」
 ↓
「ち」


※十一年式軽機関銃と弾薬箱
青島の戦い(チンタオのたたかい)
1914年(大正3年)10月31日 - 11月7日

第一次世界大戦中の1914年に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリスの連合軍が攻略した戦闘である。日本の戦争で最初に航空機が投入された戦いであり、航空機同士の空中戦や都市への爆撃も実施され、飛行機に対抗する高射砲も運用された。

日本陸軍部隊の指揮官・神尾光臣中将は大量の装備の上陸や輸送路の確保に慎重を期し、山東半島上陸から青島砲撃までに2か月もの時間を要したものの、砲撃後1週間で決着がついた。国民に「弱いドイツ軍相手にだらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからは「神尾の慎重作戦」と揶揄されたが、結果的にこの戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や装備の十分な確保により断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるものである。

→お、あ行


※青島の戦いでドイツ軍を攻撃する日本兵
乙式一型偵察機

日本の陸軍偵察機。フランスのサルムソン2のノックダウン生産機。

1919年(大正8年)に来日したフォール教育団の教材用としてまず29機が輸入され、陸軍にサ式二型偵察機として制式採用、1921年(大正10年)には51機を輸入し乙式一型偵察機と改称した。同時に陸軍では本機の国産化に着手し、修理という名目で1920年(大正9年)末に国産1号機を完成させた。その後航空補給部で約300機の生産を行った。

また飛行機分野への進出を狙っていた川崎造船所飛行機部(現:川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)もエンジン、機体両方のライセンスを取得し、陸軍からの国産化の指示を受けて1922年(大正11年)に試作機2機を完成させた。その後1927年までに約300機生産した。この機体が川崎における最初の量産機となった。

日本における総生産機数は約900機にもなり、当時としては記録的な生産数であった。

1928年(昭和3年)に八八式偵察機が登場するまで主力偵察機として活躍し、1933年(昭和8年)頃まで前線部隊で使用された。満州事変、第一次上海事変にも一部の機体が参加している。第一線を退いた後は多数の機体が民間に払い下げられ、飛行学校や新聞社等で愛用された。

→た
太原作戦(たいげんさくせん)

日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)9月から11月までの間、日本の北支方面軍及び関東軍部隊によって行われた、山西省太原への進攻作戦である。太原攻略戦、山西作戦(さんせいさくせん)などとも呼ばれる。中国側呼称は太原会戦。

戦争:日中戦争
時 :1937年(昭和12年)9月下旬-11月8日
場所:山西省北部、太原周辺
結果:日本軍の勝利(太原の占領)

→げ、け


※軍旗 太原入城(歩兵第30連隊)
軽迫撃砲(けいはくげきほう)

日本で開発された口径75mmの迫撃砲。大日本帝国陸軍は歩兵連隊に配備し、青島攻略戦やシベリア出兵で実戦に投入された。また、ジャパニーズ・モーター(Japanese Mortar)の名称で、第一次世界大戦においてオーストラリア軍が使用した。

→う、あ行


※旧日本陸軍 九七式軽迫撃砲(入間基地)
チャールズ・アンドリュー・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)
1892年3月8日〜1972年10月25日

アメリカ陸軍の軍人。最終階級は少将。

第二次世界大戦ではダグラス・マッカーサー側近の情報参謀で、占領下では連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長として対日謀略や検閲を担当するなど、占領政策遂行のうえで重大な役割を果たした。一方、法の支配を尊重する保守主義者としても知られ、東京裁判に対しては、敗戦国の指導者だけを裁くため法の支配を恣意的に歪めるとして不信感を表している。

1948年には対日理事会ソ連代表が、日本海海戦の意趣返しとして戦艦三笠の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは大日本帝国時代の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止。結果、三笠の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた三笠保存にとっては恩人といえる。

→び、ひ
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)
1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日

日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。

第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。

内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下し、「東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)」と名乗った。歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日)。また、元陸海軍大将では最後の存命者でもあった。

→こ、ご
黒溝台会戦(こっこうだい かいせん)

日露戦争中の1905年1月25日〜1月29日にロシア満洲軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘。ロシア側の奇襲により始まり、兵力で劣勢だった日本軍は緒戦こそ苦戦したものの、結果的には日本の辛勝に終わった。欧米陸軍では、ロシア陸軍の作戦目標が沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘とも言う。

戦争:日露戦争
時 :1905年1月25日 - 1月29日
場所:黒溝台・沈旦堡、奉天西方
結果:日本軍の勝利

→い、あ行


※黒溝台会戦での臨時立見軍司令部
イ式小銃(イしきしょうじゅう)

1938年(昭和13年)に大日本帝国陸軍がイタリアから購入・輸入し、1940年(昭和15年)に準制式制定したボルトアクション式小銃。英語圏ではType I rifleなどと呼称される。

1937年(昭和12年)の日独伊防共協定成立を記念し同年にイタリアと契約を結び、翌1938年に約60,000挺を購入、イ式小銃として1940年に準制式化した物である。この事業は1937年に日中戦争が始まり小銃の需要が高まったことと、新たな同盟国への政治的配慮が購入の理由であった。

イ式小銃は陸軍が購入・輸入した小銃ではあったが、実物が届いてみると、ボルトが脆弱で前線での激しい使用に耐えられないと判断され、陸軍では使用されず、一部が学校教練や青年学校の教錬銃として貸与されたほか、ほとんどが海軍に供与・譲渡され、主に海軍陸戦隊が装備し太平洋戦争で使用されている。これは海軍陸戦隊はごく一部の優良装備部隊を除き、慢性的な小火器不足であったことによる。

→う、あ行

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