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今村均コミュの今村均mixi資料室

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今村均に関する動画や画像を紹介していきたいと思います。

▼年譜▼
1886年(明治19年)6月28日
 宮城県仙台区で生まれる。
1905年(明治38年)7月
 士官候補生。
1907年(明治40年)5月31日
 陸軍士官学校卒業(19期)、見習士官。
1907年(明治40年)12月26日
 陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊附。
1910年(明治43年)11月
 陸軍歩兵中尉に進級。
1915年(大正4年)12月11日
 陸軍大学校卒業(27期首席)。
1916年(大正5年)8月
 陸軍省軍務局附(歩兵課)。
1917年(大正6年)5月
 陸軍歩兵大尉に進級。陸軍省軍務局課員。
1918年(大正7年)4月
 イギリス大使館附武官補佐官。
1921年(大正10年)8月
 参謀本部部員。
1922年(大正11年)8月
 陸軍歩兵少佐に進級。
1923年(大正12年)4月
 上原勇作元帥附副官(兼任)。
1926年(大正15年)8月
 陸軍歩兵中佐に進級。歩兵第74連隊附。
1927年(昭和2年)4月
 インド駐箚武官。
1927年(昭和2年)11月
  陸軍省軍務局課員。
1930年(昭和5年)8月
 陸軍歩兵大佐に進級。陸軍省軍務局徴募課長。
1931年(昭和6年)8月
 参謀本部作戦課長
1932年(昭和7年)4月
 歩兵第57連隊長。
1933年(昭和8年)8月
 陸軍習志野学校幹事。
1935年(昭和10年)3月
 陸軍少将に進級。歩兵第40旅団長。
1936年(昭和11年)3月
 関東軍参謀副長・兼 駐満州国大使館附武官。
1937年(昭和12年)8月
 陸軍歩兵学校幹事。
1938年(昭和13年)1月
 陸軍省兵務局長。
1938年(昭和13年)3月
 陸軍中将に進級。
1938年(昭和13年)11月
 第5師団長に親補される。
1940年(昭和15年)3月
 教育総監部本部長。
1941年(昭和16年)6月
 第23軍司令官に親補される。
1941年(昭和16年)11月
 第16軍司令官に親補される。
1942年(昭和17年)11月
 第8方面軍司令官に親補される。
1943年(昭和18年)5月1日
 陸軍大将に親任される。
1946年(昭和21年)4月
 ラバウル戦犯者収容所に入所。
1947年(昭和22年)5月
 オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮10年)。
 ジャワ島移送。
1949年(昭和24年)12月
 オランダ、インド軍による軍事裁判判決(無罪)。
1950年(昭和25年)1月
 インドネシアから帰国。
1950年(昭和25年)2月
 マヌス島で服役する事を申出。
1950年(昭和25年)3月
 マヌス島服役
1953年(昭和28年)8月
 マヌス島刑務所閉鎖に伴い巣鴨拘置所に移る。
1954年(昭和29年)11月
 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。
1955年(昭和30年)9月24日
 防衛庁顧問に就任。
1968年(昭和43年)10月4日
 死去。82歳没。

コメント(30)

陸軍大将 今村均
1945(昭和20年)9月、第8方面軍・今村司令官は、ラバウル沖の空母飛行甲板にて、オーストラリア軍(連合国)に対し降伏文書に調印する。(無音)


↑しょっぱなから何ですが、Youtube以外のサイトで見れない仕様なんですね。
「YouTubeで見る」をクリックしてご覧ください。
陸軍大将 今村均
1942(昭和17年)、蘭印作戦を成功させ、凱旋帰国した時の映像か。(無音)


↑これも[1]と同じですので、「YouTubeで見る」をクリックしてご覧ください。
貴重な映像だと思います。
ゆっくり解説 今村閣下リニューアル


【すごい日本人】今村均大将
ラバウルを死守しマッカーサーに「真の武士道に触れた」と評された名将!


秘境! パプアニューギニア ラバウルの自然 [Beautiful Nature in Rabaul]


星はめぐれど(マヌス島抑留)
藤山一郎 海上自衛隊東京音楽隊


今村均の動画ですが、まだあるみたいですね。
せっかくなので引続き紹介したいと思います。
BC級戦犯の処刑記録

BC級戦犯ということで今村均も無関係ではないので、資料としてアップしておきます。


↑[11]、「YouTubeで見る」をクリックするとご覧いただけます。
蘭印作戦を地図で丁寧に解説する動画がありましたので、次からアップします。
4つの動画があるようです。
【地図で見る太平洋戦争】 蘭印作戦 1/4 (日本語字幕付)

日本陸海軍によるオランダ領東インド攻略作戦について
開戦経緯から1942年1月13日までの動きを地図を使って時系列で解説しました。

0:00 カムラン協定による蘭印攻略日程の繰り上げ
7:41 蘭印の戦略資源について
12:00 陸軍の蘭印攻略準備 (独立工兵第25連隊と第1挺進団)
14:57 ABDACOM創設までの経緯
17:07 連合国側の戦力 (バッファロー、ハリケーン、P-40)
25:38 海軍第11航空艦隊の戦力
29:43 B-17による重巡「妙高」撃破
31:21 蘭印の雨季と航空機運用への悪影響
35:35 タラカン・メナド攻略の開始
43:40 アメリカ極東空軍、増援の重爆撃機(B-17、LB-30)のフェリー飛行
47:05 アメリカ極東空軍、増援のP-40、オーストラリアに到着


【地図で見る太平洋戦争】 蘭印作戦 2/4 (日本語字幕付)

日本陸海軍によるオランダ領東インド攻略作戦について
1942年1月14日から2月2日までの経緯を地図を使って時系列で解説しました。

0:00 第19爆撃航空群のB-17によるマレー半島への攻撃
2:00 ABDACOM正式発足 (その戦略面、戦術面での問題)
7:09 アメリカ極東空軍P-40部隊のジャワ島への移動開始
14:55 ケンダリー・バリクパパン攻略開始
18:45 南海支隊のラバウル攻略
23:43 バリクパパン沖海戦
28:00 ケンダリーの占領とその意義
34:46 飛行場のコンディション不良に苦しむ第22航空戦隊
35:43 イギリス空軍増援ハリケーンの到着
36:52 バリクパパンへの零戦の進出


【地図で見る太平洋戦争】 蘭印作戦 3/4 (日本語字幕付)

日本陸海軍によるオランダ領東インド攻略作戦について
1942年2月3日から2月17日までの動きを地図を使って時系列で解説しました。

0:00 海軍第11航空艦隊による西部ジャワへの航空撃滅戦開始
4:49 ジャワ沖海戦
12:49 陸軍第3飛行集団によるスマトラ島パレンバンへの航空撃滅戦開始
14:38 アメリカ極東空軍P-40部隊のフェリーフライトによる損耗
16:36 未舗装の滑走路での高翼面荷重機の運用の難しさ
17:46 マーストンマットについて
18:56 ATC(アメリカ陸軍航空軍航空輸送司令部)について
21:23 台南航空隊、新郷大尉らによるB-17撃墜
26:00 パレンバン攻略作戦開始
31:38 第1挺進団挺進第2連隊によるパレンバン空挺降下
36:45 ガスパル海峡の戦い(海軍航空隊によるABDA艦隊爆撃)
38:20 蘭印作戦で陸攻の艦船攻撃が不調だった理由


【地図で見る太平洋戦争】 蘭印作戦 4/4 (日本語字幕付)

日本陸海軍によるオランダ領東インド攻略作戦について
1942年2月18日からジャワ島の戦い終了までの動きを地図を使って時系列で解説しました。

0:00 バリ島攻略船団の出撃
3:14 ABDA艦隊出撃
4:53 機動部隊と第11航空艦隊によるダーウィン空襲 (赤城・加賀・蒼龍・飛龍)
9:12 双方の航空部隊の機種誤認について(ハリケーン→スピットファイア、一式戦→零戦)
11:09 バリ島沖海戦
14:35 チモール島攻略
25:32 ABDACOM解散(東南アジアの早期全面喪失の理由)
28:24 ABDA艦隊出撃
29:42 ラングレー沈没
31:47 スラバヤ沖海戦(デ・ロイテル、ジャワの沈没)
43:53 連合国艦船の脱出
45:44 バタビア沖海戦(ヒューストン、パースの沈没)
48:13 日本軍各部隊のジャワ島一斉上陸
50:25 エクセターの沈没
53:12 エドサルの沈没
59:14 蘭印陸軍航空隊、最後の出撃
01:03:13 アメリカ潜水艦部隊の不振について
01:07:40 零戦の長大な航続力と着陸の容易さ


今村均の生涯を振り返りながら、動画や各種資料などを探してみたいと思います。

今村 均(いまむら ひとし)
1886年(明治19年)6月28日、宮城県仙台区に父・虎尾と母・きよみの息子として生まれる。

1891年(明治24年)父(裁判官)の転任に伴い、甲府市立琢美小学校(現・富士川小学校)及び山梨県立甲府中学校(現・甲府第一高等学校)に一年間学ぶ。

1900年(明治33年)父の転任に伴い、新潟県立新発田中学校(現・新発田高等学校)に転入、首席で卒業した。

当時の制度だと、旧制中学校の入学資格は尋常小学校を卒業していることなので、入学時の年齢は通常だと13歳、修業年限は5年間で修業年限なので17歳で卒業です。今村均の場合、卒業は1904年(明治37年)3月になるはずなんですが、正しいのかな?

詳しい方がいらっしゃったらご教示ください。

さて、今村が入学した山梨県立甲府第一高等学校と新潟県立新発田高等学校ですが、どちらのWikipediaとも著名な出身者として、今村均の名前が載っています。

【参考サイト】
山梨県立甲府第一高等学校-wiki
https://bit.ly/42iURas
新潟県立新発田高等学校-wiki
https://bit.ly/3HHOIfG
次に、新潟県立新発田高等学校の校歌ムービーをアップします。

明治34年(1901年)10月5日の制定なので、今村均も歌ったと思われます。
校歌は当時流行した軍歌「勇敢なる水兵」の曲を使った替え歌で、十番まであるそうです。
【18】の続きです。

今村均は新発田中学校を卒業すると、陸軍士官学校に進学するのですが、その間の時系列を詳しく記したサイトがあります。そのサイトを参考に進めていきます。
【参考サイト】
陸海軍けんか列伝 今村均陸軍大将
https://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/877c8b070bbd5164c71dd4d22ddf313a

1904年(明治37年)2月、日露戦争勃発。

1904年(明治37年)3月、今村均は新発田中学を首席で卒業。数日後、父、虎尾に進学の相談をした。「一高から東京帝大へ進んで法律を学ぶか、または東京高商で経済を学びたい」と述べる均に、父は反対しなかったようである。

1904年(明治37年)4月、均は東京に出て父の異母弟の家に身を寄せ、第一高等学校(現在の東大の前身)を志望して勉強に励んでいた。

1904年(明治37年)5月28日、「父危篤、すぐ帰れ」の電報が届いた。均は急いで家に帰り着いたが、父の虎尾は死去していた。

今村家は、均の他に7人のこどもがおり、一番下はまだ4歳だった。陸軍将校の娘でもある母きよみは、均に学費のいらない陸軍士官学校への入学を強く勧めた。さらに陸軍士官学校の入学願書はすでに出しておいたとも言ってきた。均は軍人になるなど思いもよらなかったし、自分の性格が軍人に向いているとも思わなかったので悩んだ。

そうしたうちに、1904年(明治37年)11月3日、青山の練兵場で観兵式が挙行され、明治天皇の行列が儀仗隊に守られ、臨場してきた。群衆は万歳万歳と叫びながら行列に押寄せた。今村均も群衆の中にいた。観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した均は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打った。

1905年(明治38年)7月、陸軍士官学校に第19期生として入校。
1907年(明治40年)5月31日、陸士19期を1053名中54番の成績で卒業。
同年6月、仙台の第2師団歩兵第4連隊附の見習士官に、
同年12月26日、陸軍歩兵少尉に任官した。


※今村が軍人人生をスタートさせた歩兵第4連隊旧兵舎
 現在は仙台市歴史民俗資料館となっている
次は、陸軍士官学校の動画をいくつか紹介します。

さすがに明治期のものはありません。
昭和の時代なので施設などは今村均の頃とは違いますが、雰囲気を感じていただければと思います。
軍事解説「陸軍士官学校」
梅津美治郎・辻政信・瀬島龍三たちの母校


次に紹介するのは、ちょっと風変わりで面白そうな動画です。
陸軍士官学校の問題・地歴編(昭和6年版)[ゆっくり解説]

<動画説明>
陸軍士官学校(略して陸士)の問題は他に国語、数学、英語、物理、化学があります。最年少の入学年齢は16歳なので、今で言うと高校1年生が受けるような試験でした。1920年から1937年までの陸士では予科と本科に分かれていて、この問題は予科に入学するためのものです。試験を突破して予科に入り、所定の教育と隊付勤務をすれば本科まで進めます。その本科を卒業して見習い士官になり、それから三カ月すると少尉に任官されます。ちなみに、陸軍大学校はこれより上の学校で、高級将校や参謀を養成するための学校になります。


次は、卒業アルバムを紹介します。

陸軍士官学校・第56期生の卒業アルバムを動画にしたものです。
陸士56期生は1942年12月卒業、1943年5月陸軍少尉に任官。大部分が第一線へ送られ、卒業生1672名のうち、戦没者1003名でした。
陸軍士官学校 第56期生 卒業アルバムより 第1部


「戦史研究センター史料室所蔵の貴重史料から陸軍大将今村均を見る!」というムービーがアップされているので紹介します。↓
防衛研究所戦史研究センター史料室 所蔵史料紹介 陸軍大将 今村均
防衛省 防衛研究所 公式チャンネル 2023/04/25


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