ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

マッチョドラゴン(プロレス談義)コミュの大木金太郎氏逝く

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
1958年に、同郷の英雄力道山に憧れて漁船で日本に密入国し、プロレス入りのチャンスをうかがっていたが、1959年に入管法違反で逮捕される。力道山が同郷のよしみで身元引受人となり釈放され、「日本プロレス」に入門し同年11月にプロレスデビュー。翌年にはジャイアント馬場とアントニオ猪木が入門・デビューし、「若手三羽烏」と称された。

1963年にアメリカ武者修行に旅立ち、ミスター・モトとのタッグチームでWWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍したが、同年12月8日に力道山が刺され12月15日に死亡した事で、力道山を心の拠り所にしていた大木は居場所がなくなり、韓国へ一旦帰国した。韓国では「大韓プロレス」のエースとして、様々な企画を成功させ韓国プロレス界の発展に尽力した。

その後豊登が「東京プロレス」を旗揚げし、アントニオ猪木も「日本プロレス」を去ったため、「日本プロレス」はその穴埋めに大木を韓国から呼び戻すと、「金剛山金太郎」のリングネームで売り出そうとしたが失敗。「大木金太郎」へと戻り「日本プロレス」No.2のレスラーとして活躍していたが、東京プロレスは崩壊しアントニオ猪木が出戻り、再び馬場・猪木の陰に隠れた存在となった。

1967年6月に、韓国のソウルでマーク・ルーインからWWA世界ヘビー級王座を獲得し名実共に韓国プロレス界のトップに立ったが、短期間でタイトルを奪回されている。この頃「二代目力道山襲名」「国際プロレス移籍」という話もあったがいずれも実現しなかった。

上田馬之助の密告事件を発端に猪木・馬場と次々に「日本プロレス」を退団し、それぞれが新団体を創立したことにより、遂に「日本プロレス」No.1の地位を獲得し、1972年12月にボボ・ブラジルと「頭突き世界一決定戦」を行い敗れるが、3日後の再戦で勝利しインターナショナル・ヘビー級王座を獲得する。しかし、馬場と猪木の抜けた穴は大きく「日本プロレス」の人気は急激に凋落。坂口征二が「新日本プロレス」との合併を模索するが大木はこれに反対、坂口の退団を招き「日本プロレス」は1973年4月に崩壊した。

1973年の「日本プロレス」崩壊後は一旦他の「日本プロレス」選手とともに「全日本プロレス」に入団するが、実質上吸収合併でありマッチメークで冷遇されたことから退団。その後「新日本プロレス」に参戦して猪木とのシングル戦を行い、また坂口と日本プロレス史に残る壮絶なセメント・マッチを展開する。1975年以降は馬場とのシングル戦やタイガー戸口(キム・ドク)とタッグを組んでのインター・タッグ王座獲得、1977年12月には「世界オープンタッグ選手権」に参加する等「全日本プロレス」を主戦場とするようになる。1978年と1979年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも連続して参加している。その後「国際プロレス」にも参戦してインターヘビーの防衛戦を行うが、その後「全日本プロレス」に戻る。1982年の阿修羅・原戦を最後に、首の持病が悪化し事実上の引退となった。


[編集] 「引退セレモニー」とその後
1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われた。

車椅子姿で花道を入場してきたが、リング・インの際は気丈に立ち上がり、ルー・テーズと共にリング内に進むと四方へ頭を下げ、ファンの声援を受けると「(感激で)胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流した。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣した。リングを降りる間際ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングをあとにした。

自宅が火事で全焼してしまい、持っていた過去のビデオや資料がすべて焼失してしまった。その後、日本のプロレスファンから、自身の試合を収録したビデオを贈られた際には感激したそうである。

2005年9月の「月刊朝鮮」によると、ソウル市内の病院に入院中で、頭突きの後遺症による脳血管疾患と高血圧・心不全・下肢浮腫を患っている状態であったという。体重は78kgほどまで落ち、10年前に再婚した夫人が看病に当たっていると韓国国内に報じられた[1]。

2006年9月9日、韓国ソウルのソウル蚕室総合体育館で開かれた「世界プロレスリング協会(WWA)2006ソウル大会」に、数少なき後輩たちのファイトを見守るために姿を現した。車椅子に乗った大木ことキムイルが現われると、2000人あまりの観衆たちは熱い拍手を送り、彼の名前を連呼した。痛風にもかかって体の調子が相変わらずよくはないが、「今大会のような世界的大会が今後も開催されるように、韓国プロレスの発展のお手助けになりたい。多くの方々が心配してくれたお陰で健康状態がよくなった。熱心に後輩たちを後援するつもりだ。今後もファンがプロレスに多くの声援を送ってくだされば良いと思う」とのメッセージを残した。

2006年10月26日、ソウル 乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。享年77[2]。

TV番組の企画でアントニオ猪木が病床の大木を訪問している。ちなみに猪木のデビュー戦の相手は大木である。大木の勝利で猪木はデビュー戦は負けている。

[編集] 獲得タイトル
WWAヘビー級世界王座
WWA世界タッグ王座
インターナショナル・ヘビー級王座
インターナショナル・タッグ王座
極東ヘビー級王座
アジアヘビー級王座
アジアタッグ王座

[編集] 得意技
ヘッドバット:大木は石頭として知られ、ヘッドバットと言うより「頭突き」と言った方が当てはまる。片手で相手の頭を鷲掴みにし一本足の体勢から投球フォームのように繰り出す独特の頭突きスタイルは「原爆頭突き」と呼ばれ、藤原喜明にも受け継がれている。
1970年代後半は交通事故に遭い、一命は取り留めたもののかなりの重症であり、しかも頭の中にまでガラスの破片が入り込む程であった。それでもリングに上がり得意の頭突きを見せたが、大木は頭突きを続けながら、その頭の内部に入り込んだガラスの為流血をしたにもかかわらず、それでも頭突きを止めなかった。
国際プロレスのリングではよく”X固め”を得意技としていた。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

マッチョドラゴン(プロレス談義) 更新情報

マッチョドラゴン(プロレス談義)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング