DSM-IV 300.12 解離性健忘の診断基準 A. 優勢な障害は、重要な個人的情報で、通常外傷的またはストレスの強い性質を持つものの想起が不可能になり、それがあまりにも広範囲にわたるため通常の物忘れでは説明できないような、1つまたはそれ以上のエピソードである。 B. この障害は解離性同一性障害、解離性とん走、外傷性ストレス障害、急性ストレス障害、または身体化障害の経過中にのみ起こるものではなく、物質(例:乱用薬物、投薬)または神経疾患またはその他の一般身体疾患(例:頭部外傷による健忘障害)の直接的な生理学的作用によるものではない。 C. その障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的、または他の重要な領域の機能における障害を引き起こしている。
B. 歴史 解離性健忘、解離性遁走はヒステリー症状の一つとして19世紀末から20世紀初頭にかけてCharcotやJanetらによる記載が認められる。初めての統計学的な研究はAbelesとSchilder(1935)によるものであり、彼らはベルビュー病院精神科に入院した全患者のうち63例すなわち0.26%が心因性健忘であったと報告している。またStengell(1941)は25例の遁走患者を調査しそのうち40%はてんかんに関係しており、遁走に合併してアルコールや脳器質性障害、気分障害などを併発していることを指摘した。 本邦では1950年、谷らの報告を初めとして、その後塩入らによって初めて全生活史健忘と名付けられたからは徐々に証例数が増えていき、これまでに70例ほどの報告がある。
C. 疫学 解離性健忘の有病率については不明である。しかし、解離性遁走の有病率は0.2%とされている。解離性健忘は男性よりも女性に多く、高齢者よりも若年成人に起こりやすいと考えられている。また、ストレス状況下や外傷的な状況で起こるといわれており、戦争や災害下で発生率が増加する。配偶者の虐待や幼児虐待など家庭に問題のある解離性健忘の数はおそらく一定していると考えられている。我が国では全生活史健忘が多く、多重人格障害が少ないのに対して、北アメリカでは全く反対の現象が見られ、解離性障害といえば多重人格障害やその辺縁の障害を示し、解離性健忘は古典的な解離性障害といわれるほどである。
D. 症状と経過 解離性健忘は通常は単一エピソードであり、エピソードの記憶の選択的な障害であり、個人的な情報に関する記憶を想起できないものをいう。持続時間は解離の程度や範囲によって異なり、数時間から数ヶ月であるが、時には年単位のものもある。解離性遁走の場合には新しい同一性のまま、新しい名前、新しい住所で日常生活の複雑な業務を遂行していることもある。高橋らは健忘が長期化する要因として、(1)強い希死念虜、(2)遁走もともないその持続も長い、(3)健忘時に一過性の性格変化を認める、(4)部分的な新たな同一性の獲得、(5)生活史上の持続する強い葛藤状況、(6)保護された時点で家族の所在が不明、の六つを挙げている。解離性健忘に伴う感情状態としては、落ち着いた対応、不安や困惑、苦悩など多様であるが、強い抑うつ気分は少ないと考えられている。随伴症状としては、頭痛、胸内苦悶、難聴、下痢などの身体症状や、失声、失立、失歩、視野狭窄、知覚異常などの転換症状、そして離人症などを伴うことがある。 全生活史健忘はほぼ一定に推移し、(1)意識水準の低下を認め、しばしば遁走を認めるという先行する意識障害期(2)活動性が低下した受動的態度が目立ち、生活史のみならず一般知識の障害も認められるといった無知受動期(3)次第に一部の記憶を取り戻す時期(4)健忘に対して無関心を示すという独自の態度を取る情緒安定期(5)回復後に生じる不機嫌抑うつ期の5期の臨床経過に分類されるという山田らの指摘が一般的なモデルとされてきた。大矢らは8症例の検討をもとに全生活史健忘は山田らの臨床経過に沿うものと、臨床経過が複雑で不安定に推移するものとに二分できると述べ、前者を全生活史健忘の単純経過型、後者を不安定経過型とする類型化を提唱している。 高橋らは従来の文献報告から全生活史健忘の一般的な特徴を以下のようにまとめている。 1)後発年齢は10代後半から20代の比較的若い年齢層で、男女比は2:1である。 2)表面的には対人交流が多く明るく親しげに振る舞うが、適切に自己主張することが出来ない。受動的で、現実の問題を合理的に解決できず、容易に現実逃避的、抑うつ的あるいは自己破壊的になるといった病前性格を認める。一見仕事熱心で社会適応がよく、特に大きな問題がないと思われる症例でも、表面的な対人関係にとどまり、社会的に孤立してる事が多い。顕揚性性格傾向や虚言癖を指摘する報告もある。 3)知能は平均以上の例が多い。 4)慢性の持続葛藤状況ともいうべき、特有の準備状態(家庭内の不和、貧困、経済的な問題、失業、犯罪、性的な問題、進学の問題、失恋、離婚、病気、怪我、近親者の死、社会適応不良など)を認める。 5)慢性の持続葛藤状況こそが、全生活史健忘の発生に重要で、健忘発生の直接の契機は必ずしも特定できるできるものではなく、ごく些細な出来事であることも多い。 6)多くの例で遁走を認める。 7)自己の健忘に対し無関心な独特の態度をとることが多い。 8)典型例では、短時間に自然回復する傾向がある。大多数が数ヶ月以内に回復する。 9)健忘出現前、あるいは健忘からの回復前後に抑うつ状態を呈することが多い。 10)麻酔面接や催眠で、事実と一致せずいちじるしく歪曲された供述を得ることがある。 11)知覚異常、失立、失歩、視野狭窄、失神、めまいといったさまざまな転換症状を合併することがある。頭痛や離人症も認める。 12)次のような病像の変換をたどる。 a) 先行する意識障害期(しばしば遁走を認める) b) 無知受動期(活動性の低下と受動的態度が前景に立ち、一般的知識についての健忘も認める) c) 次第に生活史以外の日常知識を取り戻す時期 d) 特有の情緒安定期 e) 回復前後の不機嫌抑うつ期
E. 診断と鑑別診断 解離性健忘の診断については鑑別診断が重要であり、痴呆やせん妄、脳損傷、脳震盪後の健忘などの器質的疾患を除外しなければならない。器質的疾患の原因疾患として、てんかん、脳血管障害、アルコール、薬物乱用が挙げられる。機能性疾患としては、統合失調症や気分障害が挙げられるが、特に躁病の場合にはしばしば放浪が認められ、解離性遁走との鑑別が必要になってくる。また、詐病や反社会性人格障害の患者における二次的疾病利得によって起こるものを鑑別することも必要であり、これらの他の疾患が否定された上で、下記の診断基準を満たすものを解離性健忘と診断する。 DSM-III-Rでは心因性健忘と呼ばれていたが、DSM-IVでは解離性健忘と訂正され「DSM-IV 300.12 解離性健忘の診断基準」に示す診断基準が定められた。
F. 治療 解離性健忘の治療において健忘発症の契機となった出来事は単なる刺激であり、表面的な誘因の背後に隠れている深い葛藤があることを忘れてはならない。健忘症状は破局的な体験からの防衛の一つであるため、表面的には不安・焦燥感や抑うつ気分、希死念虜を認めない事が多い。そのため、安易に記憶の回復を図ることは患者の防衛を崩し、患者を無防備のまま苦痛に満ちた現実に引き戻すことになりかねない。それは非治療的であり、再び外傷体験となり、潜在していた抑うつ気分を深刻化させ自殺へと追い込む危険性も高くなると考えられている。治療の目的としては失われた記憶の回復と健忘の要因となった心的外傷からの回復が考えられる。そのためにはまず、失われた記憶が何なのかを詳細に問診することが重要である。患者の生活史や現在の生活状況を詳しく聞き、何をどの程度忘れており、健忘していることでどのようなことに困っているのかを検索していく。その際、記憶が断片的に夢に現れることもあるため夢の話題をきっかけに自由連想してもらうことで重要な情報源を得ることもある。記憶の欠落に関して患者は不安を感じ苦悩することもあるが、多くは「麗しき無関心」を示す。 一般的には、保護的で指示的な態度をとりながら家族との接触を図るという環境調整に重点をおくことで、記憶の回復そのものは比較的円滑に得られることが多い。その上で、ステレオタイプで柔軟性を欠き、逃避に傾きやすいといった性格傾向への精神療法が必要となってくるが、多くの場合記憶を回復した時点で治療動機を失い治療の場を離れてしまうことがある。そう言ったことが起こらないように、当初から記憶の回復だけが治療の目的ではないことを十分に話し合っておく必要がある。 健忘認める間は、患者が心身の消耗を癒し現実に直面して受容するまでの猶予期間であるという視点が必要であり、無理な記憶の回復を図らないことが求められる。 その他に催眠や電気けいれん療法(electroconvulsive therapy;ECT)やバルビタール系薬物の静脈注射を用いた面接などの治療法が一般的に報告されている。これまで安易に麻酔面接や催眠療法などで記憶の回復を図ることは、患者の防衛を崩すことであり、患者を無防備のまま、苦痛に満ちた現実に引き戻すため自殺の危険性を高めると考えられてきた。しかし、麻酔面接はその効果が劇的なことが多く、麻酔面接の効用と限界を患者に充分説明するとともに、記憶の再生だけにとどまらず、記憶回復後の環境調整を心がければ、薬物面接は全生活史健忘の有力な治療法となると考えられる。以下に遁走を伴った解離性健忘患者に対して薬物面接を施行した症例を提示する。