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邪馬台国大研究コミュの邪馬台国 山陰説

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はじめまして。コミュニティに参加させて頂きました。

邪馬台国は、近畿説と九州説の2つが議論されているようですが、数年前から山陰説も出てきています。

田中文也という方が説いています。
たまたま、山陰に住む方から田中文也さんの著書を頂き読んでいるところです。

なんでも、この秋には、境港市あたりで、「邪馬台国の起源」についてカンファレンスを開催するようです。近畿説、九州説、そして山陰説の熱い議論が展開されるとのことです。


コメント(13)

 歴史学者の岡田英弘が近畿でもなく九州でもなく、中国地方あたりではとどこかで言っていたような。改めて調べてみます。
>近畿でもなく九州でもなく、中国地方あたりではと

中国地方は、近畿と九州を繋ぐラインの上です。
山陰は、少し北側(数100km)のラインです。
 そうですね。

 岡田英弘『日本史の誕生』(ちくま文庫)にありました。瀬戸内海の西のあたりかなとか、そのまえに東のあたりとも言っていたような。
田中文也さんは、「古事記」、「日本書紀」、そして、「出雲の国の風土記」を横串にして、日本国家の創成期を類推しています。

日本の古代は、文字が無いことと、建造物が木造のため現代に残っていないのがネックなんですね。エジプトなどは、石の建造物でしたから今でも残っていますし、文字もしかりです。
私も、田中文也さんから著書を頂きました。田中さんとは宇佐神宮の講演会で
一緒に喋ったことがあります。

山陰に、古代、一大文化圏があったのは私も賛同します。むしろ日本海側が
古代には「表日本」だったのです。

しかし、それと「邪馬台国」は別です。邪馬台国と同時期に、古代王国があった
可能性は高いですが、邪馬台国では無いでしょう。
文献学、考古学の成果は、明らかに邪馬台国=北九州を示しています。

ま、山陰=邪馬台国としたほうが人目は引きますがね。

筑前さん

9月9日、鳥取県伯耆町で開催されている講座で、田中先生にお会い、講義をお聴きしました。いろいろ資料も頂戴し、勉強していく予定です。
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1582417443&owner_id=2858044
講座は、合計4回開催されるとのことです。

これからもいろいろ教えてください。

ちなみに、『古代史(邪馬台国)サミット』が、11月27日に決まったとのことです。

吉備も
そしてとりわけ出雲も古代において一大文化圏。特に出雲は事代主の娘と孫で初代から4代までの天皇の皇后であり、ということは神話とおりなら、天皇家には大国主の血が入っている。
しかし邪馬台国現象というのは別だと思います。伊都国に一大卒を置き、九州北岸に目を光らせた権力が、3世紀に出雲や近畿にいるということは可能なのか?そうであれば相当広域の権力であるし、はるかかなたに一大卒を置ける余裕のある権力が、狗奴国という勢力と死命を決する争いを長期にしたりしないでしょう。西日本すべてを制している邪馬台国をだれが脅威を与えるというのでしょうか。

ローマ帝国の遺跡を見ながら首都はどこかと考えると、黒海沿岸もエジプトも、エルサレムも、ギリシャも、スペインもみんなそうれらしく見えるのと同じ現象だと思います。ローマ帝国はローマが首都だけどしらなかったら、地中海沿岸のどこもが首都に思えてくると思います。
吉備も
そしてとりわけ出雲も古代において一大文化圏。特に出雲は事代主の娘と孫で初代から4代までの天皇の皇后であり、ということは神話とおりなら、天皇家には大国主の血が入っている。
しかし邪馬台国現象というのは別だと思います。伊都国に一大卒を置き、九州北岸に目を光らせた権力が、3世紀に出雲や近畿にいるということは可能なのか?そうであれば相当広域の権力であるし、はるかかなたに一大卒を置ける余裕のある権力が、狗奴国という勢力と死命を決する争いを長期にしたりしないでしょう。西日本すべてを制している邪馬台国をだれが脅威を与えるというのでしょうか。

ローマ帝国の遺跡を見ながら首都はどこかと考えると、黒海沿岸もエジプトも、エルサレムも、ギリシャも、スペインもみんなそうれらしく見えるのと同じ現象だと思います。ローマ帝国はローマが首都だけどしらなかったら、地中海沿岸のどこもが首都に思えてくると思います。
出雲は隠岐の島という大黒曜石産地の門前町だったと思ってます。ここの黒曜石はウラジオストックまで。
隠岐の島に行けるのは出雲民だけで神事のようにそれを出雲まで運んでくる。
そして聖なる隠岐の島には他者はいかない。
でもって全国からいちどだけ神在り月にあつまり黒曜石を媒介に大物々交換大会があったのだと思います。
諏訪の神様は免除されていて諏訪にも其の時期神がいるから諏訪でmお神在り月と言う。これは諏訪にも黒曜石があるからだと思います。
いずれにしても、この黒曜石本位制的な交易体制こそ出雲勢力ということでしょう。
するとここには一定の権力が、隠岐の島を守備し、交易の采配を振るう権力があったわけです。

もちろん私見ですが邪馬台国の権力構造とは似ていないと思うのでここは邪馬台国ではないと思います。
また余談ですが国譲りはこの神あり月にみな豪族が集まってるときにやったと考えます。
皆の前で大国主が譲ったら、みな従いますよね。

またたけみなかたはは、もともと諏訪の神様で。こんなのはおかしいと起こって帰っただけではないのかというのが深層ではないか・それでおいかけて諏訪ににそのままいてほしいと頼んだのではないか。影響が大きいから。
なんといってもこの時代は諏訪と越と出雲が中心。
諏訪から越へ。その間には穂高や安積族がたてた安積のがあり、ぬなかわ姫の姫川を下り越へ行きます。黒曜石は神津島のもあり、国東半島の姫島、など当時黒曜石こを文明と権力の中枢。
やがて黒曜石から銅、鉄に移っても道や往来などインフラは縄文時代のものがそのまま利用できたような気がします。
北海道は遠軽白滝村産の湧別技法で作成された「石器」が、日本中はおろか、大陸でも発見された一大ブランドだったという資料もありますしね。

いまでいうゾーリンゲンみたいなものですかね?

縄文時代のインフラがそのまま利用できたに一票投じます。
>>[11] ありがとうございます。神津島の黒曜石が本州で見つかったり、隠岐の島の黒曜石がウラジオストックで見つかったりと、当時は黒曜石は鉄器の枠割を果たすから、できるだけ良質な黒曜石が相当な距離を交易されていたのでしょうね。すると神津島、諏訪、隠岐の島、半島、ウラジオストックっと、間接的にでもこの範囲が一大交易圏ということです。縄文時代に。
それは感動的ですね。その後弥生になったときこの範囲を移動するのはとっくの昔に交通網があったということですね。
そういえばある時期、寒冷化したときでしょうか。東日本から西日本に向けて大変な人口移動があったという研究がありますね。三内丸山遺跡が寒冷化で栗が育たなくなったころです。
そうするとなんだか私たちは東日本の縄文文化圏と弥生を断絶で考えがちですが、記録も遺跡もないが相当に関係があるのかもしれません
近畿と九州の間の出雲。
対馬海流で半島とも繋がりますね。
米子に三年おりましたが風景ガやはり普通の地域と、違ってました。古代文化は間違いなくあったでしょう。邪馬台国との絡みを考えると、行程を見たりとか必要ですが、その点は、近畿説も遺跡以外あまり納得できません。
出雲が邪馬台国ならばどういうことになるか?その考え方は面白いです。

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