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ラブリィ創価学会コミュの本門戒壇の大御本尊は大聖人滅後に模刻されたという証拠の数々

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退席寺派(すでに広宣流布からリタイアしたのでこう呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を持っていることを主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日犬(法華経の行者の集いにキャンキャン吠えるだけの畜生界なのでこう呼びます)自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を河辺慈篤に垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
なお、それぞれの主張の根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただいています。

◎日犬が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという板本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのですが、宗旨が根本からひっくり返り、退席痔派の存在意義が消滅する(文字どおり日蓮消宗になる)ので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がないのです。
このため邪宗門の言い訳文書を見ると、
「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」
と、とにかく鑑定調査の類は頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にしながら、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

? 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
? 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ
? それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!
と責め続けましょう!
学会総体としても、今は古参の学会員のことを考えて、従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからであって、上記?、?によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。それまでは、歴史的な事実に基づいて、確実に外堀を埋めていくのが、一閻浮提広宣流布を目指し続ける本化地涌の菩薩としての使命です!


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しかない(是2)

大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。
これに対して、根拠もなく「書かなかっただけだ」などというお馬鹿がいたら、
? 大事なものを記録していなかったという証拠を示せ
? 300年も経って日主が書いた途端に山ほどの記録が公表され始めている。これが大事なものの場合の常識である。
と攻めましょう。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベース化され、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に戒壇の大御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したために、静岡在住の金原氏が入手することとなり、写されたその写真と、すでに公開されていた日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。
この事実は、阿部(日犬)が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に裏付け、証明するものです。
阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしたそうですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、突然弱気になって「私は教学は苦手で」「私の信仰です」と、教学がまったく無いシンショウは、自分は「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したというのです。本当にお粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などという誹謗は真っ赤なウソだというのが明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
そこで戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に位置し、模刻の際に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
これらのことを確認して明らかなことは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者についての書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は極めて明確な変遷があります。

? 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
? 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
? 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊に記載されているのです。
ここでもまた日犬が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、
「板本尊の事也、今当山に在る也」
と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり退席寺派は邪教だったのです。

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