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明治の仏教者が好き!コミュの太田悟道師

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圓福寺の中興の祖、太田悟道師についてです。
蛸藥師にあった圓福寺と愛知県岡崎市岩津町にある妙心寺を
寺号交換するにあたり、活躍した中興上人でございます。

引用は浄土宗西山深草派宗務所刊
山崎亮叡師著稲田順学師他改訂『深草史(改訂版)』
明治四十五年初版、昭和五十五年改訂
からです。

『深草史』より
深草山真宗院圓福寺第63世
転地中興廓空悟道上人。字はえい(日+英)然、また大乘と號す。
姓は太田氏、三河碧海中嶋の人。父は幸助、文政十丁亥年、
十二月一日を以て誕す。十三歳にして眞如寺に入り、
其二十六世青空に就て得度し、錫を廬山に掛け、
諦空上人に嗣法す。始め光明院に住し、友国の慈光院に移る。
此間滿国寺音空和尚に就て自他の章疏を研鑽す。
頗る利発にして一聞千悟の質あり。
特に弁論に長し。常に侠気を負びて公私の間に來往し、
能くはん(虫+番)根錯節を折いて、
人の危急を救ふ。
其胸襟の宏量と先見の明とは往々人をして舌を捲かしむ。

後十九年を経て、川口常光寺に転じ、維新の変動に際して、
雲蒸龍變各宗の大徳と教法維時にしんすいして、
或いは七宗合議の役員となり、或いは教道取締となり、
或いは議員議長学校設立教職員等、常に数職を兼帯して、
嘗て一日の閑あることなし。

明治十二年眞如寺に転し、尋ひて十四年四月二十六日、
特例を以て一派公衆の懇請を容れて本山(圓福寺)に昇進せらるる。
爾後再興せんと欲すと雖とも現境内地狭小にして、
諸堂建立の餘地なきを以て門末及び、一般寺院と熟議の上、
妙心寺と転地交換することを決し、
明治十六年五月三日官の許可を得て、
十月中現地に移転し、諸堂を増営し学林を新築し、
略全備するを得たり。

後明治二十七年十二月龍泉寺に勇退せらるるも故ありて再住し、
復龍泉寺に遁れ、同三十年十一月七日、
偶々閑居の地に講説を請ふものありて正しく見臺に向かい講説せんとして、
合掌十四行の偈を誦し、眠るが如く、坐化せられたり。
時に享齢七十夏臈五十八

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