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photo&Bar naguneコミュの現在開催中の写真展

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管理人です。

ただいま開催中の写真展はnoyanさんによる「細腕繁盛記2」で4月12日 まで展示されています。

noyanさん1961年4月18日兵庫県神戸市中央区(旧生田区)生まれ。
現在新宿に在住されています。ちなみにこの写真は新宿歌舞伎町の上海小吃のレイコさんなんだそうです。

http://blogs.yahoo.co.jp:80/kiyan_noyanでブログも見ることができます。みなさん、ぜひチェケラッチョしてください

コメント(4)

現在開催中の写真展は安海龍(アン・ヘリョン)さんが企画・構成された石任生(ソク・イブセン)さんの『北朝鮮の日常』の日常です。


石さんは1990年代後半から7年の間北朝鮮に留まりながら,北朝鮮の普通の人々が生活する姿に深い関心を持って北朝鮮の日常を撮影された方です。


安さんは戦争中の日本軍による強制連行・強制労働、サハリン残留朝鮮人、日本軍「慰安婦」、韓国の米軍基地問題など広く手がける映像ジャーナリストで、『オレの心は負けてないー在日朝鮮人慰安婦宋神道のたたかい』、『沈黙の叫び』、『北から来た少女』(NHK ETV特集)、『1万人のリストラ』(NHK ETV特集)など多数のドキュメンタリー作品を出されています。


私自身は正直なところ、こうした政治問題に疎い浅学菲才の身ですが、写真からにじみ出る北朝鮮の方の強さに思わず見入ってしまいます。新宿の魔所・ゴールデン街にお立ち寄りの際は、ぜひ、いらっしゃってください。

また、こちらに石さんの文章を掲載させていただきます。長文につき、2つに分けて、となります。どうかご容赦を

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 北朝鮮の人々の暮らし

   文 石任生 

北朝鮮の核開発が明らかになったことによって始まった米朝の衝突。戦争勃発直前にまで至ったこの危機の状況の中、北朝鮮と米国は退屈な交渉を続け、一九九四年、ジュネーブで合意に至った。北朝鮮が核開発を中止する代わり、米国は北朝鮮に電力生産のための軽水炉建設を約束した。軽水炉建設のために、国際的な協議機関であるKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)が結成された。私は軽水炉が建設される北朝鮮の琴湖(クモ)地区で、建設過程の記録を担当するカメラマンになった。

北朝鮮の琴湖への赴任を控え、期待と緊張、そして震えと不安が複雑に絡み合いながら心身に巻きついた。軽水炉建設を担当する技術陣とともに到着した琴湖地区。生まれて初めて踏みしめる北朝鮮の大地であった。軽水炉が建設される琴湖地区では北朝鮮住民との接触や移動が徹底して統制されていた。私たちは鉄条網が張り巡らされた琴湖地区の中だけで生活することができ、外部に出る場合は二人以上の「案内員」がいつも同行した。

軽水炉建設が始まった。しかし、私たちは琴湖地区という「島」で暮らし続けるしかなかった。この生活は軽水炉建設が中断になるまで七年間続いた。長い収用所生活だった。写真で建設過程を記録することが担当だった私は、このときが北朝鮮を撮影することができる絶好の機会であり、再びこのような機会は訪れないだろうと直感していた。

続きです

そして、チャンスをみつけて徹底して北朝鮮の生活を写真におさめようとと誓った。退屈で食傷気味の内容も多かったが、北朝鮮の中央放送と労働新聞を読みふけった。北朝鮮の国語辞典を手に入れ、分からない単語を確認した。まるで、未知の言語を勉強していくかのように。

しかし、このような誓いと努力にもかかわらず、北朝鮮の実状にアプローチするのは決してやさしいことではないということをすぐに実感した。琴湖地区から鉄条網の外への写真撮影は徹底的に統制された。それだけでなく、琴湖地区の中でも、北朝鮮の人々を撮影することは許されなかった。うまい具合に写真が撮れたとしても、北朝鮮人々の目にとまると、すぐにフィルムを没収された。撮影はいつもゼロの状態になった。

それでも私も諦めなかった。カメラのファインダーを覗かないで撮影する方法を自ら体得した。琴湖地区の外部へ出かける機会があれば、いつも何台ものカメラを持って出かけた。 同行した案内員の注意が散漫になった隙を見計らい、一枚二枚と写真を撮った。その瞬間瞬間は冷汗が流れる緊張の連続だった。

カメラのファインダーを通じてアングルを確認するのはほぼ不可能だった。なんとかして撮影したフィルムを現像し、そこに込められている北朝鮮人々の生活像を探し出す作業をあらためて行わなければならなかった。シャッターは押していたけれども、写真として使えるような場面が込められていないことも数え切れなかった。退屈な徒労の作業を粘り強く続けた。農村生活を経験していたおかげで、北朝鮮の農村の日常を見て、その内容を判断するのは難しくなかった。しかし、五〇年余りの歳月で異なってしまった言語の内容と社会構造を理解するために、我々に同行した北朝鮮の人々に数え切れないほど質問しながら、撮りためた写真が意味するものを自分の頭のなかで何度も確認しなければならなかった。

私が北朝鮮に滞在していた時間は、北朝鮮が自ら「苦難の行軍」と呼ぶほど、深刻な食糧難が北朝鮮全域を襲っていた時期だった。貧しい農村で生まれ育った私が経験した一九五〇〜六〇年代の農村の姿が、再び私の目の前に広がっていた。貧しさとひもじさの記憶が甦った。幼いころに貧困を経験していた私から見ても、北朝鮮の実状は、あまりにも衝撃的で悲惨であった。

私が撮影した北朝鮮の風景と人々の姿は、北朝鮮の現実を映す、ごく一部分に過ぎない。 北朝鮮で私たちが通った道は、政府によって管理された模範の村であり、道であった。しかし、私の目にはそれさえも大変だった過去を反芻させるに充分であった。そこには、苦難の時をなんとか生きる、北朝鮮の人々の表情があった。この表情と風景は、北朝鮮当局の許諾を受けてフィルムに込められたものではない。だから、自分にとっても危険な仕事だったが、これらの写真が現在の北朝鮮の暮らしを映していると信じていたので、厳しい監視と統制をかいくぐって続けることができた。

私の写真は、困難な時期を自ら経験した私が、北朝鮮の人々に抱く憐憫の心情の現れかもしれない。私の写真は、南北分断による断絶がもたらした異質感を多少でも回復し、韓国の人々に北朝鮮の人々の生活の真実を少しでも伝えたいがために行なった、観察と探求の小さな努力の結果だ。北朝鮮の人々に対する憐憫は、もしかしたら北朝鮮の指導者に対する小さな「怒り」につながっているかもしれない。しかし、それだけではない。写真の中に映された北朝鮮の人々の生活の姿からは、同じ民族だからこそ感じることができる、根気づよい暮らしに対する愛着を読むことができる。分断という冷酷な現実を越え、写真を通じて、心と心が通じ合っていることを示すことが私の願いだ。
■黒柳陽二郎写真展 「N35°41/E139°42」
会期 2008年10月20日(月)-11月1日(土)
会場 G街nagune
http://www.nagune.jp/gallery/081020.html

歌舞伎町の街並みの写真展です。
同じテーマで、新宿眼科画廊でも写真展が
同時開催をされていますので、こちらもぜひどうぞ。

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