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からし種コミュの「力の源」使徒の働き9:1〜19

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昨日、礼拝メッセージをしましたので、載せます。

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「力の源」使徒の働き9:1〜19
 

 まず、一つの質問をしたいと思います。
 「あなたがイエスさまと出会ったときどうでしたか?」

 それは、一人一人違います。
パウロみたいに天から光が〜!なんてことは少ないと思います。
自分の疑問に思っていたことが解決されたような、誰も満たしてくれなかった心の穴が満たされたような感じがしたかもしれません。
また、昔からあたりまえのように信じているという人もいます。
一人一人違いますね。
神さまはベストタイミングで一人一人と出会ってくださるのです。

 それでは今はどうですか?
あなたと主イエスさまとの関係です。
仲良しですか?ラブラブですか?それとも、ケンカ中ですか?

 私は、キャンプで初めて神様に自分の気持ちを正直に打ち明けたときに心に変化が起こりました。(「神様なんて大嫌い」)
その時に決心したことがあるんです。
それは、「神様に出会った日を昨日のことのように思い出そう」ということです。
どんな心の状態であっても、神様が分かってくれないことなんて一つもないんだから、良い子ぶらないで正直になろう。ということです。
それから4年たちますが、毎日その原点に帰るようにしています。
疲れた時は疲れた。嫌なことはイヤ。
イライラするときはそれも隠さずに神様にぶつける。
そうすると心がスッキリしてきて、神様の語りかけに素直になれるのです。
だからそれが私の力の源です。

 とにかく、キリストと出会うことは人生で一番ハッピーなことです。
でも、人生生きていると、いつもいつも神様を感じて満たされて満足し続けることは難しいことです。
イエスさまを信じてから、人生が変わって、もう今までの自分ではない!という気分でいつまでもいることができないのです。
時には、悩んで「神様なんでですか?」と不満を言いたくなったり、失敗を繰り返して「やっぱり自分は変わってない」と意気消沈する時もあるのです。
せっかくした決心が続かない時、私たちは自分自身にうんざりするのです。

 今日読んだ聖書箇所では、サウロという人物が出てきました。
サウロはクリスチャンを迫害して殺していた人です。
でも、そんなサウロが、ある時キリストに出会ったという箇所です。
1節では、このサウロは「主の弟子たちに対するおびやかしと殺害の意に燃えて」いたとあります。
かなりの殺戮者です。
並大抵の人殺しではなさそうです。
しかも、サウロはクリスチャンを見つけたら殺しても良いと上からの命令が出ていたのです。
これは、大変なことです。
日本でもクリスチャンが殺されたことが、昔はたくさんありましたが、今はそんなことはありませんね。
どうですか?クリスチャンが殺される時代にみなさんが生きていたら。
クリスチャンだと名乗れますか?

 そして、ある時、サウロは劇的に主と出会うのです。
3節で、「道を進んでいって、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした」とあります。(〜5節まで読む)
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。
なんだか心が締め付けられるような主のことばですね。
「サウロ、サウロ。どうして、わたしを迫害するのか。わたしが本当の神、主だよ。あなたが殺してきた人たちの主なんだよ。」というイエスさまの訴えです。

 サウロはどんなにショックを受けたでしょうか。
自分で「主よ」と呼んだお方、神様の子どもたちを殺してきたのです。
自分が正しいと思ってやっていたことが間違いだったのです。
しかも、人殺しという取り返しのつかないことをしてきたのです。
このとき、サウロはこの時、真の神様を知ったのと同時に、自分の「罪」を悟ったのです。真理の光に照らされて、自分の罪が明らかになったのです。(6~9節)。

 ここで、この箇所でもう一人の重要な人物が登場します。
それは、誰ですか?アナニヤですね。(10~12節)
最初、主の語りかけに対して「主よ。ここにおります。」と答えました。
「主よ。ここにおります。」他の個所でも見たことありませんか?(イザヤや、サムエル)
かっこいい言葉ですよね。
アナニヤは、ここぞとばかりに決め台詞を言ったのです。
アナニヤは評判のよい、立派な預言者でしたから、「主のおっしゃられることなら何でも☆」という思いで返事をしたことでしょう。

しかし、その命令というのはアナニヤにとって過酷なものでした。
主は明確にアナニヤに「サウロのところに行きなさい」と告げられました。
アナニヤは困りました。
サウロという人物のことは、クリスチャン殺しのサウロとして、すっかり有名でした。
クリスチャンたちにとってサウロは天敵でした。
神様は、アナニヤに、「そのサウロの所に行け」というのです!
しかも、それだけでなく、このサウロにはすでに、主から「アナニヤという者が入ってきて、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになる」と言ってしまっているという状況です。
もうすでにアポとったから。という状況です。
アナニヤはどう思ったでしょうか。
「え〜そんな勝手に話を進めないでよ〜;」という思いもあったでしょう。
13節でアナニヤは「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。」と神様に訴えました。
「アナニヤは殺されるかもしれないという状況に置かれたのです。

 皆さんだったらどうですか?
自分が、殺されるかもしれない所にわざわざ出て行きたいですか?
「できれば、行かなくて済むようにしたい。」誰もがそう思うと思います。

 例えば、「自分の苦手なタイプの人の所に行きなさい。そして、その人を愛しなさい。」と神様から言われたとします。
あなたはどうしますか?快く「OK!」と答えて、実際に喜んで行動できますか?
 また、進路を考えて祈っている兄弟姉妹方もいますけど、それが自分の行きたくない所だったらどうしますか?
 アフガニスタンとか… 今、もしかしたら神様に「ちょっと待ってください」と言っている状態ですか?

 神様に従いたくないとき、その理由は、たいてい自分を守るためのものです。
人の目が、人の評価が気になる。ということです。
人が自分の決断に何と言うか。
私たち人間は、これをしたら自分がどうなるか、自分は人にどう見られるのかと、自分を第1にしてしまうことが多いのです。
進路を考える時も、伝道する時も、物を買うときでさえ、人はこれが自分にどういう影響を及ぼすかということにしか関心がないのです。

 それは、たいてい「感情」や「気分」で決められます。
何が自分にとって気持がよくなるか、何を選べば自分の気分が良くなるのか、が判断基準になります。

それは、現代の日本社会と言えるでしょう。
今の日本社会は気分社会です。
好きなように、また好きな時間に食べて、寝たり、遊んだりします。
それは一見自由に見えます。
本当にそれが自由だと思いますか? 
それは自由に見えて、実はしばられているのです。
自分という狭い範囲の中に生きているのです。
目標がない生き方なのです。
本当は、神様は一人ひとりに世界を変えるほどの計画を立ててくださっているのに、それにもかかわらず、人間は自分の目先の喜びのために物事を選ぶのです。 

真の自由とは何だと思いますか?
聖書では、「真理はあなたがたを自由にします(ヨハネ8:32)」と書いてあります。
真理とは、この聖書です。
聖書のみことばには、従う時に困難なこともあります。
でも、それに自分を捨てて従ったときに、自分の生きていた範囲を超えて、世界が新しくなり、そこにこそ本当の満足があるのです。
今まで、自分では満たす事の出来なかった心の穴が埋められていくのです。

今、心に満たされない思いはありますか? 
この世の中に絶望していませんか? 
自分は何で生きているのか判らない人はいますか? 
なぜ自分はこのように苦しんで生きなければならないのかと思っていませんか? 
自分には価値がないと決めつけてはいませんか? 
自分は同じ失敗ばかりをしてどうしようもない存在だと思っていませんか? 

もし、そのような思いがあるのなら、それは、自分の範囲の中に生きているからです。
しかし、聖書のみことばに従う時に、自分という狭い世界から飛び出して、無限の喜びに満たされるのです。
イエスさまの十字架が、それを可能にしてくださったのです。
また、聖霊によって私たちはそれを知ることができます。

「気分に従うこと」の反対は「聖霊に従うこと」と言えます。
聖霊は、聖書のみことばに従う力を与えてくださいます。 
勝利者とは、自分の思いより、聖霊の導きに従った人のことです。 
勝利者は、自分の感情や気分を、聖霊によって制する人です。

?コリント9:26~27前半「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。」

「自分のからだを打ちたたいて」なんてキビし〜…と思うかもしれません。
「聖書に書いてあることとかって、共感するし、すごいと思うけど、そこまでできない…?」
もちろん、自分にはできません。
聖霊の力によってすることができるのです。

聖霊の力とはどんなものなのでしょう?
なんだか力がみなぎって、聖書のみことばに従う気持ちばかりが溢れて、心が燃えるような気もちになることでしょうか? 
そういうときも、確かにありますね。 
しかし、たいてい聖霊の力は静かに、でも確かに、力強く私たちを押しだします。

教会に来て、やる気が出てくる感じになることはよくあることです。
しかし、やる気がなくなったときどうしますか? 
やる気というのは気分です。
一時的なものなのです。
やる気がなくなった時は、何が自分を押し出してくれるのでしょうか? 
例えば、毎日聖書を読むと決めたとします。
決めた瞬間はやる気があります。
続けようと思います。
何日かは続くのです。
しかし、生活が忙しくなってくるとどうでしょう。
「今日は勘弁して」という気持ちになります。
みなさんならどうしますか?
祈りや、日記をつけるとか、ゴミを拾うとか、手伝いをするとか…いろいろな決断がありますが、やる気が起きなくなった時、どうしますか? 
そのやる気がなくなった時、決断が、自分の習慣になるかそうでなくなるかが決まる時だと思います。
あなたのやる気は、何に支えられているのでしょうか?

ヤコブは、「祝福してくださらなければあなたを離しません」と神様に向かって訴えた人です。(創世記)
私もよく、このように祈りました。「今、ぶっちゃけ、疲れて聖書を読みたくないけど、読みます。だから、祝福してくれなければ困りますから!」
そうして、聖書をなんとしてもそれを続けようとしているうちに、自分に打ち勝つことに慣れてくるのです。
それが習慣になってくるのです。
習慣になるということは、「これがないと始まらない、落ち着かない」ということです。
しぶとさを神様は求めておられます。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」というみことばがあります。
これは、本当は直訳すると「求め続けなさい。そうすれば与えられます。」ということなのです。
一回求めるものが与えられるのではありません。
諦めそうになっても、諦めず、しぶとくしぶとく神様に訴え続けるものが与えられるのです。
神様は私たちを試されます。
「本当に、それを求めているのか?」
本当に、あなたはわたしの示す道に進みたいのか。
「本気?マジ?」
御心に適う願いは聖霊が忘れさせません。

アナニヤの決断は命がけの決断です。
クリスチャン殺しのサウロが、主の選びの器となることをただただ信じるしかありません。
たとえ、命を落としたとしても、かまわない。
アナニヤの頭の中には、いろいろな思いが巡っていたでしょう。
「死にたくない」「行きたくない」「ぶっちゃけやだな」・・・。
現にアナニヤは訴えていますね。
「神様?あなた知ってるんですか?サウロってやつぁクリスチャンを捕まえる権利をもっているんですよ?!」
評判のいい預言者と言われていたアナニヤは、このように神様に口答えしました。
しかし、神様のその質問への答えはただ「行け」でした。
答えになってないじゃん!
とにかく、アナニヤはすべての自分のための思いを捨てて、ただ主の「行きなさい。」というシンプルな命令に従いました。

そして、主がおっしゃったとおり、家に入りました。
おお、目の前には殺戮者サウロ・・・
アナニヤの仲間であるクリスチャンをなんの情けもなしに殺したサウロ・・・
本来なら憎しみが湧いてくるところ・・・
もしかしたら、自分もいきなり捕まえられるかもしれない・・・・・
アナニヤに緊張感が走りました。

みなさんならどんな思いになるでしょうか。
自分の世界で一番好きになれない人、許せない人を目の前にして、あなたは何をしますか?

アナニヤはどうしたでしょうか? 
彼は、その憎むべき殺害者サウロに向かって、「兄弟サウロ」と言いました!
なんという愛でしょうか!
殺戮者に向かって、「兄弟!」と親しく呼びかけたのです。
「主があなたを招いたのだから、私もあなたを招きます!
あなたが今まで何をしてきたか私は責めません!
あなたのことを神様が選んだのですから、私もあなたを喜んで家族として受け入れます!」
というアナニヤの信仰告白でしょう。

「許し」と言えば、私は最近ある人を許しました。
私は寮生活をしています。
行きつけの八百屋さんがあります。
一ヶ月くらい前のことでした。
その日はいつもより多く野菜を買いました。
キャベツ、にんじん、じゃがいも、たまねぎ、ピーマン・・・
814円でした。
自転車のカゴいっぱいになりました。
だけど、その日はもう一箇所お店に寄りたかったのです。
五分だけ、5分だけだから・・・と思いながら買い物をしていました。
戻ってくると・・・どうなっていたと思いますか?
野菜が・・・あんなにたくさんの野菜がごっそりなくなっていたのです!
「あ〜〜〜っ!!!」
かなりショックでした。
落ち込みながら自転車で寮に帰りました。
帰って、嘆きながら、寮で料理をしていました。
「神様、なんで?うちなんか悪いことした?ひどいよ、ひどいよ(泣)」
でも、そう神様に祈っているうちに思い浮かんできたフレーズがありました。
「我らに罪を犯す者を、我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえ」
主の祈りです。
「ああ、神様、私も神様に対してこんなひどいことをしてきたんですね。わたしは許してもらったのに、人のことは許せない。最悪なのは私だった。よし、思い切って許します。」
と神様に言いました。
そうすると心がスッキリしてきました☆
そのあと、私のことを哀れに思った寮の先輩が私におこづかいをくださったのです!
罪を許すと、すべてが益に変えられます!

 そして、サウロはこのアナニヤの愛溢れる祈りによって、目からうろこがおちて、目が見えるようになりました。
霊的な心の目が開かれたとも言ってよいでしょう。
ここから、サウロの第2の新しい人生が始まったのです!

 主は、約束どおり、サウロを「選びの器」にしたのです。
しかもキリストのために苦しまなければならないとありましたね。
その通り、サウロはイエス・キリストを伝えるために多くの苦しみを受けることになったのです。
しかし、サウロは、苦しみを喜びとして受け取っているのです。

 パウロは(パウロとサウロは同一人物です。サウロ:ヘブライ名/パウロ:ラテン名)
ヘブル12:4で「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と言っています。
このパウロは、後に、キリストを伝えてボコボコにされて、血を流して死にかけるほどになります。
みなさんは、今まで血を流すほど辛い目にあったことはありますか?
本当に血を流せというわけでは必ずしもありませんが、私たちは心がボロボロになったりするときはありますね。

 今の日本では、伝道をして血を流すことまではないかもしれませんね。
でも、昔、キリストのために現に血を流すまで抵抗した日本人がいるんです。
知っていますか?

 その人は山室軍平です。この人は、廃娼運動をした人です。
つまり、娼婦を助けるための働きをしました。
娼婦というのは、女の人が、自分の体を売る仕事をしている人のことです。
山室軍平は、そのようなかわいそうな女の人たちを助けるために、戦いました。
その店を経営している人たちにボコボコにされて、死にかけることもありました。
しかし、抵抗し続けるうちに、どんどんそのような店がなくなっていきました。
世の中のクリスチャンでない人たちにも賞賛されることになったのです。
山室軍平が、すぐにあきらめてしまったらこの活動は成功しなかったでしょう。
しかし、困難があって、神様に「なぜですか」と言いたくなる時も、ただひたすらあきらめません!としぶとく続けました。
正しいことを心から求めるとき、反対があっても、しぶとく続けることによって必ず勝利が訪れるのです。

 ?テモテ4:16「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」

 このしぶとさはどこから来るのでしょうか?
それは、「キリストにしか望みがない!」という信仰の表れです。
パウロは、キリストに人生が180度変えられてから、キリストのために生きることにしか価値を見出せなくなりました。その証拠にこのように言っています。

ピリピ3:8「それどころか、私の主であるキリスト・イエスをしっていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ちりあくた=糞土)

 自分の罪・汚れを、イエス様が十字架にかかることによって、消してくれた! 
キリストが新しいいのちを与えてくれた!
キリストが人生の指針を、目標を与えてくれた!
あのような人殺しをしていた自分を許し、子としてくれた!
愛される価値のなかった自分を愛してくれた!
このキリストだけが、力の源です!
反対されても何されてもかなわない!
だって、あなたを失うことは、死ぬことより辛いことだからです!
あなたを知らないというより、死んだほうがましです!
あなたにすがりつくしか生きる道はありません!
これがこれらの言葉に秘められたパウロの情熱だと思います。

 最後に、中国の獄中で迫害にあって、死んだ、ある中国の伝道者の書いた詩を読みます。
「中国の獄中で殉教したある伝道者の詩」

もしもほんの少しだけ 義の道から離れたなら
私はすぐに楽になる この苦しみ取り去られるのだろう
もしもほんの少しだけ 十字架から目を離せば
私はすぐに楽になる この痛みも取り去られるのだろう

だけど私は 主キリストを覚える
そのお方がどれほど 忠実に苦難を忍ばれたかを

* 私はもうこの世の者ではない
あらゆる関わりは解けたから
たとえこの道 狭く苦しくても
私はこの地では 旅人でありたい

もしもほんの少しだけ 神の愛に背を向けたら
私はすぐに楽になる この悲しみ取り去られるのだろう
もしもほんの少しだけ 神の言葉偽ったなら
私はすぐに楽になる この孤独も取り去られるのだろう

だけど私は 主キリストを覚える
そのお方がどれほど いのちを顧みずに愛されたかを

人が私を冷たく嘲笑っても 私はキリストの微笑みだけを
「よくやった 忠実なわがしもべよ」 そのお言葉だけを・・・
たとえいのちを奪われたとしても 私はキリストの微笑みだけを
「よくやった 忠実なわがしもべよ」 
そのお言葉だけを 求めて行きたい

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