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哲学研究会。コミュの哲学って、何でしょう?

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 私は、専門的なことは、何も解りません。
しかも、もう、ん十年も前に、ちらと聞きかじったような知識では、ないのと同じ事だと思うのですが、たったひとつ、ずっと今日これまでの間にも、とても印象に残っている言葉が「無知の知」という言葉でした。
この言葉は、これまで生きている内に、何度となく、私を助けてくれたと思っています。

それは、こういうことです。
(ちょっと長くなるかも知れませんが、お許しくださいね。)
人は、生きていると、悩みを持ちます。
どんな時も、この悩みというものから離れる事は、なかなか困難で、それが浅いか、深いかは、その時と内容によりますが、ずっと持っているという印象があります。
例えば、恋愛の相談を受けます。
私からしてみると、何てくだらない・・・と思う事があったのです。
エンドレスに続く、ノロケとも悩みともつかないような話。
でも、本人は、真剣に悩んでいるのかもしれません。
少なくとも、幸せと、それが壊れるかもしれない不安で、心がいっぱいになっているように見えるからです。

次に、もう少し重い例で、子供が重病を抱えているとします。
それで悩んでいると、親切心から友人が、こんな事を言いました。
「外から見えない病気であるだけ、ましよ。」
でも、そうではないのです。
他人と自分の悩みを比較する事は出来ません。
そんな秤は、存在しないからです。

もっと重い話になります。
知り合いのお子さんが、もう何年も前に、亡くなっていた事を知りました。
自分自身の子供も似た種類の重い病気ですが、まだ、そこに生きているということで余裕があったと思います。
ある日、彼女のため息と涙の入り混じった長い話を、電話で聞くことになります。
1時間を過ぎれば、受話器は、鉛のように重くなって来て、つい、気を抜いてしまいます。
相槌を打っているのに、
「えぇ、わかります。」
と言ってしまいました。
そうすると、相手の方は、怒り始めたのです。
「あなたになんか、分かっている筈がない。あなたの子供は生きていて、私の子供は、亡くなっているのです。あなたのは、想像してわかったつもりになっているのであって、本当に、わかっているのとは違う!」
賢い人だと思いました。
全く、その通りなのです。
彼女は、お子さんがもう、駄目だと知った時に、
「こんなに辛い治療を続けるの、もう、止めようよ。お母さんが一緒に行って上げるから、死んでしまおう。」
と言ったそうです。
ところが、お子さんの方は、
「お母さんは、長く生きているから、そう思わないのだろうけど、私は、もっと生きたい!どうしても生きたい!」
と言って、結果、亡くなったのだそうです。

言葉というものは、不用意に発すれば、鋭い凶器となって、人の心を傷つけるものです。
恋愛で悩む人も、金銭的なトラブルに悩む人も、病気で悩む人も、いじめに悩む人もあります。
それぞれの人が、自殺を考えるほど悩んでいるとしたら、その人の中では、それが一番重い問題なのです。
なので、どんな悩みも馬鹿にしてはいけないと思います。
相手の悩みを、似た経験があっても、私は、本当には痛みを感じていない。
想像しているだけなのです。
だから、自分は、何も解っていない、と思いました。

例えば、新聞にも載ったような、とある事故現場に差し掛かったとします。
「こんなところから落ちて死ぬ奴は馬鹿だよなぁ。」
と友人と一緒に、せせら笑ったとします。
彼らにとっては、新聞の社会面を賑わしただけの事で、それが現実と肌で感じることのない一件だったのです。
もしも、被害者の恋人が友人で、その場にいたら、言わなかったでしょう。
ところが、そこにたまたま遺族がいて、それを聞いた・・・。
そういう事もあるのです。

そういう事を考えると、人を傷つけないように生きる為には、慎重でなければいけないし、どんなに気をつけていても、知らずに傷つけているという事があるということを知っていなければならないと思います。

例えば、こうして元気に生きているだけで、僅かな何かの違いによって、病気で亡くなった人のご家族を傷つけているという事もあるのです。

生活の中に哲学は存在していると、私は思います。
だからこそ、価値があるのではないかと・・。

みなさんにとって、哲学とは何ですか?

*お願い。
ここは、大人の集団ですので、敬語が下手でも結構ですから、最低限、お互いを敬うような言葉遣いで書き込みを、お願いしたいと思います。

コメント(26)

あとひとつ、付け加えたいと思います。

人を傷つけたと知った時、その取り返しのつかない悲しみも深いです。
どうしようもなく、苛まれてしまう事があると思います。
嵐丸さん、

>生きることへの救いを求めるなら、それは宗教へ向かう意志だと思います。
>知ることを求めることが、哲学へ向かう意志ではないでしょうか。

全く、仰る通りだと思います。

ただ、もしも自分が人を傷つけている事に気がつかない傲慢な人間で、それを繰り返していたら、それに気がついたときに、どうしようもない苦しみに陥るのは、自分だと思うのです。

なので、自分が「知らない」という事を知っていることで、自分の事を知るきっかけになり、自分が救われると思います。

なので、知ることは、とても大事な事だと思います。
知ること。
考えること。
悩むこと。
・・・それらを生きる力に変えること。

それから時々、酒の友とっくり(おちょこ付き)
まめのゆ さん、

 なるほど、その通りだと思われます。

時々、答えは出ないけれど、今見ている景色は、万人の目に同じように見えているのかしら? と思うことがあります。

夕日が空を紅に染めていった・・・
という文章を読んだとします。
でも、夕日の色は、瞳の黒い私に見えているものと、お隣の青い瞳のご婦人に見えているものは同じではないかも知れないですよね?
でも、真っ赤、と言えば、真っ赤が思い浮かぶのだけれど、彼女の赤と記憶している色が、全く違う見え方だったら、本当は、それも同じではないのかもしれないと思うのです。
こんな話を数年前に、ネット上でした事がありました。

それと同じように、哲学に対しても、人それぞれの解釈や理解があっていいのかも知れないと思うのです。
人は、地上に生まれて、ある期間を生きれば、いつの日か、痕跡すらなくなります。
でも、5年間しか生きなかった人と、100年生きた人に共通の生きる意味を求めるのは、とても難しい気がするのです。
その間を大切に生きやすくする為に、役に立つものであって欲しいとも思っています。

>それから時々、酒の友

春に、ご一緒できると嬉しいですが・・・。
Noixさま
眼球を取り替えられるなら、青い瞳にしてみたいと思ってました。手(パー)どんな色に見えるのか?不思議でなりません。同じ日本人でも違うのでしょう。とても気になります。

人それぞれの解釈ですが、そこに共通項=普遍性を見つける作業が哲学なのでは?
確かに「おれの人生哲学」があってよいのですが、そこには「これが正しいのだ!」という意識が有ります。その正しいと思う考え方の根底を探り、他人との共通項を探し出すことで、人間のあり方を模索するのだと思います。
偏屈な頑固じじいは多くの言葉を持たなくとも、生活習慣の中にそれはにじみ出てくるものです。その行動の片鱗、言葉の真意を探るのが大事です。
とっくり(おちょこ付き)酔っぱらった親父が、ろれつの回らない口で何か語っているときに、真理を発見するのですうまい!ぴかぴか(新しい)
だから、同席する機会があっても逃げないでねあっかんべー
まめのゆさん、

 返信が遅れてゴメンナサイ。(・_・;)

>眼球を取り替えられるなら

ふふふ・・・やっぱり、まめのゆさんも、そう思われます?
私は、こちらへ暮らすようになってから、お花や家具の色使いの選び方が・・え?・・と思うような事に、しばしば出会いました。
それ以来、同じように見えているのかなぁ?と不審に思い始めてしまったのです。

>人それぞれの解釈ですが、そこに共通項=普遍性を見つける作業が哲学なのでは?

あぁ、またそうやって、私のへ理屈を引き出しておしまいになる・・・(笑)
仰る通りに思います。
でも、私の文章が曖昧だった所為なのですが、私の能力では、何かを見つける作業よりも、先人の仰った哲学を、生活の中に見つけて行く・・・という程度で終わっていくのではないかと思うのです。
その時の解釈・・・
例えば、アドバイスと捉えたり、戒めと受け取ったり・・・。
そういう事が言いたかったのでした。
私は、文章を書いていると、よく真ん中が抜けています。
それは、みんながお互いを知っているというような勘違いの上に起こるミスだと思います。
ごめんなさい。

あ、まめのゆさんが酔えないくらい頑固親父が同行しますので、英語か仏語で遊んでやってくださいね。あっかんべー
Noixさま
我々凡人には、共通項を発見しても、過去の偉人の言葉をかみしめるに終わってしまうのが関の山なのでしょう。少なくとも私はそんなに賢くない。

英語も仏語も全くダメですから、たどたどしい日本語でお願いしますあせあせ
あとは、語気の荒い江戸の職人言葉なら・・・うれしい顔
まめのゆさん、

 少し前に阿部美哉と仰る、やはり哲学博士でもある先生の書かれた世界の宗教という本を読んだのです。
思想という意味では、宗教と哲学、どちらも同じカテゴリーに属するのですよね。
でも、宗教というのは、始めに信じなければならない。
そこが傲慢な私には難しいのです。
自分で突き詰めて行くと、辻褄が合わなくなってしまうから。
もしかすると、それは、精神構造にもよるのかな?と思うのですが・・。

そういう意味もあって、不安のある精神的な新天地を開拓するよりは、既存のものに惹かれてしまう私なのかもしれません。

>英語も仏語も全くダメですから

コホン、そんな事がないと、既に存じ上げておりまする。
でも実は、夫も片言の日本語と英語、東北弁のフランス語を話します。
米国人女性とは、会話が成り立たない、と言って、私は、尊敬を受けましたが、実は、私が会話の必要な時には、事前に、子供に話すつもりでお願いします、とお願いする事にしているのですよ。あせあせ

>語気の荒い江戸の職人言葉なら・・・
とっても、楽しみです。わーい(嬉しい顔)
Noixさま
私は宗教家でもなければ、熱心な信者でもなく、哲学を専攻したわけでもないので詳しくは語れませんが、私の思うところを。

宗教は、知らず知らずに考え方に反映されています。
親(養育者)の生き方は宗教的な意味合いを含み、それに影響されているはずです。
現世を生き抜く知恵として、宗教の言葉を選ぶのか、哲学者の言葉を引用するのかの違いです。
そんなに宗教を毛嫌いしなくても良いのではないですか?
考え方を押しつけられる印象はぬぐえませんが、言わんとしていることの意味は、哲学も宗教も変わらないと思います。
目の前にあるモノを信じるか信じないか?から議論を始めるより、
偉い人(長老)の知恵(教え)を授かった方が早いでしょ。

来世思想に猛反発したこともありますが、
来世が存在するかどうかではなく、今をよりよく生きる為にはどうすべきか?
過去世が存在するのではなく、自身の中で欠けているもの(認識しているかどうかではなく)を埋めるために行動し、経験している自己を客観視するための代名詞ではないかと考えます。
抽象的でありますが、存在するのは「今」しかないのです。
運命も宿命も結果論です。
「これから、○○をしよう!」と思いつくのも運命。
その行動で起こった結果は「宿命」と命名されるに過ぎないと考えます。


動かないのも、動けないのも「運命」
何も変えられないのも「宿命」
・・・・・我が身に置き換えると手厳しい。。。
哲学とは生きることで生じる固定概念を対自化(自分の外に置いてながめること)すること。
哲学とは信じていること(思想)の持つ時代性、社会性、文化性を対自化すること。
哲学とはつまり反省するのための学問。
哲学とは反哲学を必要とするもの。(反哲学とは、哲学をすることをやめること)
哲学は反哲学的な生活活動を必要とするもの
哲学は反哲学的な思想運動を必要とするもの

しかし、哲学はその哲学の流れを知らなければならない(哲学史)
しかも、哲学はその哲学的反省の意識現象を理解しなければならない

もし、生きるために哲学が必要でないなら、それに越したことはない。
もし、反省する必要がない人生なら、それはもっともラッキーな人生だろう

しかし、我々はそう完全でない。
しまも、毎日、失敗と挫折に満ちながら生きている。

そんな、弱い、未熟な、頭の悪い人間に必要なものとして哲学がある。
哲学は、自分がだめな人間だと思う人のためにある。
哲学は、失敗を恐れ、くよくよと生きる弱い人のためにある。

哲学は、そうした人間的なあまりにも人間的な人々の、それでいい、その人間くささをもって、最後まで、生きることを確認できる知識として存在している。

哲学は、本の中にあるのではない。
哲学は、図書館の中にもない。
哲学は、大学の中にもない。

哲学は、生活の中に、世の中を変えようとする活動の中に、自分を変えようとする人々の中に、芽生え、成長する力、生きるための力である。

なぜなら、そこにもっとも多くの失敗や挫折、そして挑戦が存在しているからではないだろうか。

哲学は素晴らしいものだ。
哲学はすべての人が、知識や教養の前提なく、出来るものだ。

なぜなら、それらの人々が、明日に向かって生きようとしているからだ。
なぜなら、それらの人々が、昨日を抱えて生きているからだ。

まめのゆさん、

 以前、少しお話しした事があるように、私は、祖母がお寺の人でしたし、親戚の経営する寺子屋の名残の保育園で育ちました。
私の体には、仏教が染み付いていると思います。
それを毛嫌いしているのではないのです。
ある日、宗教というものが人を分けると知って、大きなショックを受けました。
それは、みんな平等に幸せになれるという教育から、激しく逸脱していたからです。
そうして、次第に、私の心は、宗教という衣から離れていきました。
「躓いた時、何に向かって祈るの?」
と言われた事もあります。
でも、嫌っているわけではなくて、私の中では、横並びの関係なのです。
宗教を持つと持たないだけの違い。
宗教を持てる人は、ある意味、とても純粋だと思っています。
それを非難もしないし、むしろ、その方が正しいと思う人があっても当然だろうと思うのです。
もしかすると、羨ましいかもしれません。

例えば、宗教哲学という言葉があるそうです。
それは、宗教の中に、哲学が含まれているからで、哲学の中に宗教は、含まれていないと思います。

宗教には、余りにも多くの事柄が、複雑に潜んでいる気がするのです。
勿論、宗教にもよるのでしょうが、例えば、偶像崇拝であったり、輪廻に基づいて、現世以上に、来世を重要視する事など、それから、世界平和を謳いながら、個人の問題は、祈れば解決がつくと聞けば、興ざめしたりもします。

思想という括弧の中で、私の心の感じるところでは、宗教と哲学は横並びなのです。

>偉い人(長老)の知恵(教え)を授かった方が早いでしょ。

そうですね。
ところが、私と来たら、どんなに偉い人の言葉も、自分で納得して咀嚼出来なければ、受け入れられないという傲慢さがあるのだと思います。
偉い人の意見も愚かな自分の意見も、全部並べてから、選びたいのが私です。
我が儘なのかもしれません。
でも、例え、それが宗教家のトップであったとしても、依頼心を持って他動的に物事が運ぶと不安なのです。
自分で選んだのだから、自分で責任を持とう...と考えたい。

それから、思想という括弧の中で、宗教と哲学を分けなければ、私の心が整理できないという感覚?を持っています。
例えば、本棚の中でも辞書と百貨辞典を分けるような感覚と言えばいいでしょうか?
分かって頂けます?


嵐丸 さん、

 褒めてくださってありがとうございます。
全ては、臆病が為せる業です。
正しいかどうかという自信がないので、ずっと、迷いながら生きています・・・。



hiroさん、

 素敵な言葉だと思いました。
私にも理解できる気のするところが、また嬉しいと思います。

>そんな、弱い、未熟な、頭の悪い人間に必要なものとして哲学がある。
>哲学は、自分がだめな人間だと思う人のためにある。
>哲学は、失敗を恐れ、くよくよと生きる弱い人のためにある。

そうだとするならば、昨日よりも、少し心強く生きられる気がします。
心に楯を持てた気がして・・・・。
今から30年前の話しです。
まだ、私が哲学と勉強する前の話しです。

生まれて1歳か2歳の私の子供をつれて、90歳ぐらになっていた祖母を尋ねました。祖母は病気でねていました。
そして私に向ってこんなことを言ってくれました。
「Hiroちゃん、人生は素晴らしいね。私が娘を産んで、その娘が子供を産んで、そしてその子供が、また子供を産んで。。。。。」
私は、カタカナしか読み書きできない明治のはじめ漁村の家に生まれた祖母のことばに感激しました。

なぜ感動したのか、その訳はよく分かりませんでした。
しかし、そのことばには今までどんな本にもない素晴らしい生きることの素晴らしさが滲んでいるようでした。

今になると、もし人が生涯を掛けて何かをしたと言えるなら、それは人を育てたこと、人を生かしたことだと思うのです。

今になると、もし人の仕事で最も凄い仕事は、人を育てたこと、人を生かしたことだと感じるのです。

私の求めたい哲学は、そこにあるのではないだろか。
私の信じたい哲理は、そのことを展開できるものではないだろうか。


実存哲学者ですかね、私は。

嵐丸さん

うーん、そうか。なるほど。

科学哲学学会とか科学基礎論学会がありますよ。

実は、私も、哲学をやる前に科学(物理と化学)をしていましたね。
嵐丸さんの言っていること読んでいると、昔の私を見ているみたい。

がんばってください。

それしかいえないな。

嵐丸さん

すみません。そんな気持ちにさせて。。。

しかし、おもしろいですね。どうして哲学は「哲学とは何でしょう」となるのでしょうかね。

例えばアイシュタインの「物理学とは何か」という本でも、物理学のあり方が書かれているのでなく、その内容が書かれていますね。また、社会学とは何かという色々な本でも、同じで近代社会学の形成の歴史や社会学の理論を支えている他の学問との関係で、社会学が説明されていますね。

そう考えると、
哲学は、まず、哲学の説明に「哲学とは何でしょう」という説明が必要な学問なのでしょう。

ここに、実は哲学の基本的な意味が隠されているようにも思いますが、皆さんはどう思いますか。

つまり、極論すると哲学は専門家でない人も、「哲学とは何でしょう」と思うなぞなぞを解くゲームに参加できるのではないかと思いますが。

Noixさんの意見が聴きたいな。何しろ、このセクションの呼びかけ人ですから。


Hiroさん、

 自分で言い出しておきながら、この答えは、難しいですよね。
私には、一言で、それは、XXだから・・・とお答えする能力がありません。あせあせ

でも、他の学問は、自分の目で見えるものを見る学問で、哲学は、自分の目で見えないものを見ている学問かもしれないと考えた事があります。

哲学を学ぼうとすると、考えなければなりません。
他の学問でも、やはり考えはするのでしょうが、それは、自分の外側にあるものを学んでいて、哲学は、内側にあるものを学んでいるような気がするのです。
人間は、自分の顔さえ見られない・・・・勿論、鏡を介して、写真を介して、そこに写った自分を見ることは出来ますが、それでは、左右反対になっている像だったり、他人から見た自分であったりするので、直接、自分の目で自分の顔を見る事が出来ないのだと読んだ事があります。
そこでなるほど・・・と思いました。
それは、とても、もどかしい事でもありますが、哲学には、その感覚がついて回る気がします。

自分の中には、自分の世界が占めています。
なので、ものを考える作業とは、自問自答を繰り返しているのだと思うのです。
そこは、本で読んで得た知識や、他の人に教わった事、自分の経験で知った事などがごちゃ混ぜになっている世界で、また、自分というただ一つの世界でもあると思うのです。
普段、意識していない事も多いですが、自分は、自分のオーナーでありマスターです。
自分に対しては、こうしなければいけないと義務を課してみたり、命令してみたりしても、それは自由です。
逆に、これは、嫌いだとか、好きだという判断をすることも出来ます。
自分の大きさは、自分にとっては、最大の現実でもあると思うのです。

そこへ、哲学という学問を学んでみると、自分の大きさがどれほどのものか、やっと分かって来る気がするのです。
人は、社会の中でしか生きられません。
哲学をかじると、それと照らし合わせる事ができるようになる気がするのです。
ギリシャから始まって、現代までの間に、多くの人が考え、語って来ています。
それら、一つ一つの考え方が、自分というひとつの人間とほぼ同じ大きさの脳を持った人間から出てきたことなのです。
すると、地球の大きさ、宇宙の大きさ、歴史の大きさ、他の人々の大きさを、少し、自分の感覚で捉える事が出来るようになり、如何に自分が小さいもので、如何に自分の歴史が浅く、自分の感情なんていうものがちっぽけなものかという気がしてきます。

別のトピックでHiroさんが、受け止められない現実について、こう書かれています。

>それで、我々の精神構造はよく出来ていて、「忘れる」ようにしてくれます。
>また、「見えないようにしてくれます」

惨めな自分を知れば、人は、そこに痛みを感じ、感じるから、忘れられるように出来ているのだと思います。
でも、最初にその自分が惨めだと感じる事は必要だと思うのです。
そうでなければ、自分が増幅し、社会的でなくなり、もっと傲慢になってしまう気がします。

だからと言って、私は、毎日、一生懸命考えながらも、正しい行いをしているのかどうか分かりません。
白と黒、或いは、右と左、時には、右から2番目か3番目かを比較検討し、選択しながら生きていますが、自分が選んだのと違う道を選んだ事がなければ、その結果は分かりませんから、正しいとは言えないわけです。
でも、自分の好みはあります。
例えば、出来るだけ人を傷つけたくないとか、自分が傷つきたくない、愛情を与えたいとか、与えられたいなど・・・。
それには、どういう生き方/選択をすればいいか?
そういう智恵が哲学だと思うのです。
だから、生きている人には、誰にでも必要なものだという気がするし、参加できるゲームだという気がします。
嵐丸さま
>どんな風にニヒリズムを克服していらっしゃるのか・・・

横レス失礼します。

いい女に惚れること。ウインク
嵐丸さん^^
自己の社会活動・人間関係を通じて、過去の哲学者、偉人の言葉、又は名も無き人々によって培われてきた叡智の言葉を噛みしめ、再認識するにとどまる私としましては、ニヒリズムの克服に関して適切な普遍的な言葉は「愛」しか見つかりません。人は人を愛し、失望し、理解し、次に愛すべき対象を探す。
学問を愛する人もいるでしょう。
何かに心を傾ける、思考を集中させる行為は人間である証明です。
思考を集中させる行為のひとつとしての「愛」も人間の証明であるならば、対象が同性で有れ、異性で有れ、もので有れ、知識で有れ何であっても許されるのです。そう言う意味では、同性愛者と女性を含む人間には、乗り越える対象(ニヒリズム)は存在しないのではないでしょうか?
乗り越えない(克服しない)のです。
克服する、という考えは、脳に克服すべき対象を認識している思考形態です。
それを克服できないと自己否定することは、ニヒリストとしての自己の完成にはなりませんよね。自己否定し続ける限り、克服することが意識として存在するのですから。
虚無感はあれど、それは喪失感ではないかと思います。


ほ乳類ヒト科も、他の生物と同じく種の保存を繰り返します。
しかし、ヒト科の生殖行為には様々な内的要因がつきまといます。
動物的直感だけの時もありましょうが、征服欲やら虚無感?、愛おしさや憎悪が起こるのだろうと考えます。「無」になって、お互いが相手の存在すら見えなくなって、その場を立ち去ることは考えられません。

「理性」から考えていくのか?「本能」から出発するのか?
「愛」という陳腐に思える言葉に置き換えたくないのなら、
ヒト科特有の、動物的求愛行動に強制的に付いてくる自己の「選択基準」に焦点をあてて思索すると、何か発見できるのではないでしょうか?
それとも、お相手は選びませんか?(^^;

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