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家 本 為 一コミュの家本為一 に関するエピソード

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☆ 昭和22年4月 岡山県知事立候補時の第一声(ラジオ放送)
 「大根のヒゲは白い、私のヒゲも白い。大根のヒゲは初めから白いが、
  私のヒゲは初めは黒かった。そこに人生の悲哀がある。
  我々の発展もある。そこから初代民選知事、家本為一の構想も生まれた。」
    ※ 選挙結果…立候補者7人中第4位、六万五千余の得票数。

☆ 家本氏を形容する表現のいろいろ
   「聖人弁護士」「貧乏人の味方」「弁護士席の聖者」「哲学者」
   「人情弁護士」

☆編入試験のパス☆
尋常小学校4年を卒業すると、成羽の高等小学校の3年の編入試験に合格した。これが得意の編入試験パスの手初め。
その後、早稲田大学専門部法律科2年後期、同大学法学部2年とそれぞれ編入試験を1回ずつでパス。普通なら6年かかるところを2年半で済ませている。
さらにその間に受けた弁護士試験も、21歳の最年少で見事合格という頭のよさをみせた。

☆東京在学中☆
下宿で自炊生活。勉強の本を買うため生活費を極度に切りつめて、常食はパンに味噌を付けて食べた。風呂代も節約して、いつもタダの水浴で済ませた。このパン食と水浴は老後まで続いた。

☆ひげ☆
弁護士として岡山に帰って来たのは明治の末、23歳だったが、そのころから黒々とヒゲを生やしていたので押し出しがよかった。

☆弁護士用の服装☆
初めは松田武一郎弁護士事務所の居候弁護士だったが2年ほどで松田弁護士が逝ったので、その後を継いで独立した。 そのころ、フロック・コートとシルクハットを作った。弁護士の体面を保つために着ることもあったのだが、家に帰るとそれを着たままでゴロンと横になり、そのまま寝るというところが変わっていた。平常は黒詰襟服で通した。

☆普通選挙実現への尽力☆
大正時代中期の普選運動(納税額による選挙権制限の撤廃運動)に情熱を燃やした。「貧乏人の味方をする弁護士」はこのころから顕著になる。大正九年十年が最高潮だが、当時「主義者」といわれた佐々木銀一、余公芳太郎らの同志たちと岡山県普通選挙期成同盟会をつくり、各地で政談演説会を開き「貧乏人労働者に選挙権を」と熱弁をふるって聴衆を湧かせた。
そのころ、日蓮宗の寒行からヒントを得て、ウチワ太鼓を打ち鳴らしながらのデモもやった。
家本氏はその先頭にたち、
 「普通選挙! 早うしょ!」ドンドコドンドン
 「フーツー選挙! はーよーしよ―」ドンドン
と音頭をとりながら、同志たちと寒夜の街を練り歩いた。
初夜は数人の同志だけだったが、2日目の夜は30人ばかり、3日目には150人にもふえた。これは、岡山でのシュプレヒコールの皮切りということになるが、中央紙の新聞記事にもなったので、デモ参加者はますますふえて、4日目には400人近くなり、5日目には天瀬の本部前の狭い通りは身動きもならぬ状態、ついに警察から解散命令が出た。

☆岡山初のメーデー祝賀会☆
大正10年5月1日に、岡山では初めてのメーデー祝賀会を開いた。
警察の目を避けて数人の同志が西中島の食堂に集まり、革命歌を歌いながら旭川の河原を歩いただけという、ささやかな集まりだった。
そのころから農民運動や労働運動、水平運動が起こり、岡山県内の運動は全国的にもそのトップをいき、小作争議や労働争議が頻発して「大正デモクラシー」が最高潮に達する。家本氏はいつも組合の顧問弁護士として活躍した。

☆生涯独身の理由☆
本人は、「嫁はもらってもええとは思っていたが、好きな読書の障りになるし、つい煩わしくなって……」 と言って、ついに独身で通した。
嫁さんを世話すると申し出た人は大勢いたが、本人が受け付けない。
ある時、友人たちが謀って一芝居打った。それは、当時岡山の検番では一番の名妓とうたわれた芸妓さんとの婚約が成立したというデマを広げたのである。驚いた家元氏は、さっそくその芸妓との連名で「事実無根」の新聞広告を出したものだ。
※貧しい人々の弁護を続けるためには、独身でなくては難しかったろうと思う。
  
☆膨大な読書量☆
書籍が生涯の好伴侶になった。買い集めた本は、法律書のほかにドイツ語、哲学、社会学、心理学などおびただしい数にのぼった。戦前、内山下の石山門の傍の家にいたころ、家の壁に取り付けた書棚の重みの影響で隣家の玄関の戸があかなくなるという珍事も起こった。

☆法律を劇で伝える☆
昭和3年に陪審法が制定された。刑事裁判に一般市民の参加の道を開いたものだが、家元氏はその仕組みを一般に理解させようと、トルストイの復活に登場するカチューシャやネフリュードフを配した陪審劇を書き上げた。
自ら演出し、市内の劇場で上演した。大変な好評で、連日大入満員札止めの盛況だったというから、劇作演出能力も相当なものだった。

☆語り口☆
家元氏が、ニコニコしながら話す話には、いつもユーモアがあった。
「その時の法延は、原告・被告が張り合って、冷たく緊張した空気でしたが、
 私が弁論に立とうとした途端に、ブーと一発出ましてなあ、みんな私の困っ
 た顔に大笑いで……、それをシオに空気が緩んで、あとは双方譲り合いの話
 がうまく進みました。」 
 「産児制限の問題の時でした。男と尼さんには必要なかろうと言うていると
 “それでも子を生んだ尼さんがいる”という人がいて、そんならお坊さんも、
 男の方は金玉付きの僧、女の方は金玉付かずの僧、というように区別をせにゃ
 ならんが、というようなことで……」

☆弁護士としての仕事☆
弁護士としての専門は民事であったが、人間が好きで、よく刑事事件も引き受けた。それも引き受け手のない安い官(国)選弁護人を、自腹を切って引き受け続けた。
 「弁護料が払えない貧乏人の弁護をする機会が多かったに過ぎん。
ワシは普通の弁護士じゃ。」
と言っていたが、その弁護ぶりも変わっていた。
いきなり被告へのお説教から始まり、同じような被告が立派に更生した実話を一くさりしたあとで、
 「こんどで、ボッコウこりたじゃろうから、もうこれからは悪いことはせんじ
 ゃろうと、おじいさんは思うな。」
 と言い聞かせてから裁判長の方へ向き直り、
 「裁判長、まあ一つよう考えてみてつかあせえ。いまワシの五分間の話と、刑
 務所でなんぼう月も働くのと、どっちが本人のためにエエでしょうかな。ワシ
 や、ワシの話の方が、ずっと被告のためになると思うとるがなあ。まあ、でき
 るだけ軽うしてやってつかあさい。」
 という調子だった。

☆身体の鍛錬☆
スポーツと水浴の愛好者だった。まだ若いころ、寒い真っ最中に、旭川の相生橋の辺で、道路わきの水道共用栓の前に立って素裸で冷水摩擦をしていた。通りかかった巡査が、
 「おい、何ごとじゃ。風俗をみだす、引っ込め。」
 「なに!不見識を申すな。近ごろの者は惰弱で困る。ワシは男の健康法を宣伝
 しとるんじゃ。何が風俗壊乱じゃ!」
 と怒鳴り返した。
しかし、次の日からは岡山城の下の旭川に飛び込んで水浴をするようになった。これは、当分話の種になったものである。
スポーツは、若いころからスキーと山登りである。
日本アルプスなら隅から隅まで歩き尽して「ヒゲのおじさん」といわれて親しまれ、登山家仲間で知らぬ者はなかった。

☆昭和14年頃の新聞掲載随筆☆
「人生無一物、山水無尽蔵、これを観て尽きず、これを踏みて怒らざるものは
 山水である。古人も山水の美に応えて、千巌競い秀で、万渓争ひ流ると言うて
 いる。……
  今日は病気じゃ、昨日は薬じゃと、半休半労の能率なき生活をするよりか、 早朝枕を蹴って起き、橋下乞食の鶏の鳴く頃、東山に登り萩の塚(第二古墳の 辺)に至り、一杯の茶を飲み、人の目を覚す時には悠々下山して、各々その職 業に出勤するのは、別に恥ずべき事ではない。……」

☆古墳で野点☆
昭和14年頃から岡山の操山山頂にある萩の塚という古墳へ、毎朝四時半に起きてテクテク1時間山道を登る。いつとなく同好者ができて、抹茶をたて雑談を交わしてから下るという習慣ができた。この萩の塚の暁天の集まりは、雨の日も欠がさず続いて30数年、一万回以上に及んだ。
※保護対策のなかった時代、損壊せぬよう補修しつつ、人々の集う大切な場所として慈しんだ。

☆住居☆
昭和20年の戦災で石山門の傍の家を焼け出されてからは、小橋町の国清寺境内の隅屋に住んだ。それは、仲間や世話になった人たちの善意で贈られたものだが、先生の号をとって「童牛庵」といった。
「人間が住むより、本や道具が住んでいた」と、ある人は評しているが、買い集めた本や新聞、世帯道具などが狭い部屋を占領していた。
 ここで独居の自炊生活、汚いことは乞食小屋同然、それに劣らず先生の衣服も、手足も垢に汚れていたが、首から上の白ヒゲに覆われた顔だけは、清く美しかった。

☆昭和38年新年号の、『文芸春秋』☆
先生の生活ぶりがグラビア写真8頁を使って載り、広く紹介された。
それには「弁護人席の聖者、家本翁の処世訓、よく生きる、よく笑う」と題がつけられていた。その中に、
 「家本さんは、毎月ドイツから法律の雑誌や本をとりよせて読むのが趣味の一
 つだが、ちかごろとみに視力がおとろえた」
 と説明がつき、老眼鏡と拡大鏡越しにドイツ語の本を読む姿や、裁判所からの帰り途に、夕餉の買い物の大根をぶら下げて歩いて行く姿などが載っていて、全国の読者をして、奇人弁護士の存在を驚かせたり、感銘させた。

☆ご逝去☆
昭和47年1月に、老衰のため10日間ほどの患いの後逝去。86歳。
墓は生地の美星町にある。
            
※部分は管理人の添え書きです。
各種資料を基にしています。資料については、「資料について」トピをご参照ください。
                     

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