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師匠 シリーズ コミュの怪物「結」(2)

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「エキドナを探したいのね」

ドキッとする。
私のイメージの中で間崎京子は何度もその単語を口にしていたが、現実に耳にするのは初めてだった。
ギリシャ神話の怪物たちの名前を挙げて共通点を探せと言った彼女の謎掛けが、本当にこの街に起こりつつある怪現象を理解した上でそれを端的に表現したものだったのだと、私は改めて確信する。
いったいこの女は、なにをどこまで掴んでいるのか。

母親を殺す夢を見ていないというその彼女が何故あんなに早い時点で、街を騒がせている怪現象がたった一人の人間によって起こされているのだと推理出来たのか。
私のようにあちこちを駆けずり回っている様子もないのに、怪現象の正体を恐ろしく強大なポルターガイスト現象だと見抜いた上で、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるな、などという忠告を私にしている。
どうしてこんなにまで事態を把握できているのだろう。

「……そうだ。これからなにが起こるのか、おまえなら知っているだろう。それを止めたい。力を貸してくれ」
「なにが起こるの?」

間崎京子は澄ました声でそう問い掛けてくる。
私は儀式的なものと割り切って、今日一日で私がしたこと、そして知ったことを話して聞かせた。

「そんなことがあったの」

面白そうにそう言った後、彼女の呼吸音が急に乱れる。
受話器から口を離した気配がして、そのすぐ後にコン、コン、と咳き込む微かな音が聞こえた。

「どうした」

私の呼び掛けに、少しして「大丈夫。ちょっとね」という返事が返って来る。
今更ながら彼女が病欠や早退の多い生徒だったことを思い出す。
彼女は私よりも背が高いけれど、線が細く、透き通るようなその白い肌も含め、一見して病弱そうなイメージを抱かせるような容姿をしている。
そう言えば今日も早引けをしていたな。
そう思ったとき、つい先ほどの「駆けずり回っている様子もないのに、どうしてこんなに事態の真相を掴んでいるのか」という疑問がもう一度浮き上がってくる。
もし。もし、だ。もし彼女の病欠や体調が悪いからという理由の早退がすべて嘘だとしたならば。
彼女には、十分な時間がある。

水曜日に昼前からエスケープした以外は、真面目に授業に出ていた私(授業を受ける態度はともかくとして)以上に、彼女にはこの街で起こりつつあることを調べる時間があったのかも知れないのだ。
もしそうだとしたならば、今の、まるで同情を誘うような咳は逆に私の中に猜疑心を芽生えさせただけだ。
だが分からない。すべては憶測だ。
けれど少なくとも、この女に気を許してはいけない、ということだけはもう一度肝に銘じることが出来た。

「エキドナを探したい。知っていることをすべて話してくれ」

単刀直入に懇願した。だがこれも駆け引きの一部だ。
彼女の一見意味不明な言動は聞く者を戸惑わせるが、その実、真理の、ある側面を語っているということがある。
短い付き合いだが、それは良く分かっているつもりだ。彼女は無意味な嘘をつかない。
嘘をつくとしても、それは真実の裏地に沿って出る言葉なのだ。意味は必ずある。
それを逃さないように聞き取れば良いのだ。

「……探してどうするの」

止めたい。
電話の冒頭で口にしたその言葉をもう一度繰り返そうとして、本当にそうだろうかと自分に問い掛け、そして胸の内側から現れた別の言葉を紡ぐ。

「見つけたい」
「それは探すことと同義ではないの」
「言葉遊びのつもりはない。ただ、本当にそう思っただけだ」
「面白いわね、あなた」

それから僅かな沈黙。
電話のある静かな廊下とは対照的に、居間の方からは相変わらずテレビの音が流れて来ている。

「正直に言って、あなたの鋏の話は驚いたわ。人を殺す夢を見ても、それが現実の人間の行動に影響を与えるなんて思ってもみなかった」

考えろ。これは嘘か、真か。
押し黙る私を尻目に彼女は続ける。

「わたしも夢の中で握っているはずの刃物の感触が思い出せない。あれが鋏だとするなら、確かにすべての辻褄が合うわね」

嘘だ!
これは嘘だ。
間崎京子は、そんな夢を見ていないと言ったはずだ。
それとも今朝私にそう言ってから、この夜までの間に彼女は眠り、エキドナが見る夢とシンクロして母親殺しを追体験したというのか。

クス、クス、クス……
コン、コン、コン……

忍び笑いと、咳の音が交互に聞こえる。

「わたしは、嘘なんてついてないわ。ただあなたが『母親を殺す夢を見たか』と聞くから『見てない』と言っただけよ」
「それのどこが嘘じゃないって言うんだ。おまえも刃物で切りつける夢を見ているじゃないか」

声を荒げかける私に、淡々とした声が諌めるように降って来る。

「わたしが見ていた夢は、『知らない女を殺す夢』よ」

なに?
予想外の答えに私は一瞬思考停止状態に陥る。

「月曜日だったかしら、それとも火曜日だったかな? チェーンを外して、ドアから首を出す見覚えのない女の首筋に刃物で切りつける夢を見たのよ。一度見てからは毎日。他のみんなはそれが母親の顔だと思っているみたいね」

どういうことだ? 間崎京子だけは、夢の中で殺した相手が母親ではないと言うのか? 何故だ。

「おかしいと思わない? 夢に出てくるチェーンのついたドアだとか、それに手を伸ばして背伸びをする感覚は、みんな実際の自分のものではない、言うならば個を超越した共通言語として出て来るのに、殺した相手の顔だけは現実の自分の母親の顔だなんて」

待て。それについては考えたことがある。私はこう思ったのだ。

『……それは"母親"というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない』と。
「チェーンのついたドア」や「届かない手」という記号が、そのままの姿でもその本質を見失われないのに対し、「母親」という記号が、もし仮に別の知らない女の顔で現れたとしたならば、それは本質を喪失し私たちにその意味を理解させることさえ出来ないに違いない。
「母親」であるために、母親の仮面を被っていたのだ。
では、間崎京子の見た「知らない女」とは……

「わたしに、母親を殺す夢なんて見られるわけがないわ。だって、わたしはママの顔、知らないんですもの」

静かに、彼女はそう言った。

「ママはわたしが生まれる時に死んだわ。家には写真も残っていない」

受話器から淡々と陶器が鳴るような声が聞こえて来る。

「見たことはなくても、あんな醜い顔の女が、わたしのママではないことくらい分かるわ」

自分の美貌のことを暗に言いながら、それを鼻にかけるような嫌味さを全く感じさせない自然な口調だった。
間崎京子のケースは、母親と別居しているというポルターガイスト現象の経験者でもあった先輩とは、明らかにその背景が異なっている。
先輩は家にいないはずの母親を殺す夢を、『ありえない夢』と称したけれど、殺す相手の顔は「母親」の顔として認識している。
今現実に母親がいなくとも、その顔を知ってさえいれば良いのだ。
間崎京子はその顔すら知らず、「知らない女」が「母親」という意味を持つための仮面を被せることが出来なかったのだ。
ならば、間崎京子の夢に現れた女こそ、エキドナに殺意を抱かせた母親そのものなのではないのか。
「母親」という仮面の下の、素顔だ。

「そう。その女が、怪物たちの母親の母親。罪深いガイアね」

捕まえた。
ついに捕まえた。
間崎京子にさえ協力してもらえれば、エキドナは見つけられる。
あるいは、今日訪ねて回った家々の主婦たちの中の誰かがその母親だったのかも知れない。

「その女の顔は、まだはっきり覚えているか」

拝むような私の問い掛けに、彼女は優しい口調で答えた。

「覚えているわ。似顔絵を描きましょうか。わたし、絵は得意なのよ」

良し。良し!
私は思わず受話器にキスしそうになる。案外いいヤツじゃないか。間崎京子は。
そんなことを頭の中で叫んでいた。後にして思うと、我ながら単純だったと思う。

「どっちにしても明日ね。こんな夜には探せないわ。明日、絵を描いていくから」

またコン、コン、という咳が漏れる。

「ああ、ありがとう。無理しなくてもいから。身体に気をつけて」

じゃあ、明日学校で。
そう言って私は受話器を置いた。
明日だ。
明日には見つけられる。目を閉じて、それをイメージする。

「ムリしなくてもいいから。カラダに気をつけてぇ」

声に振り向くと、妹が廊下でくねくねと身体を揺らしながら私の物真似をしていた。
オトコとの電話だと邪推しているようだ。
エキドナだとか母親殺しだとかの怪しげな部分は聞かれていないらしい。

「もう寝ろ、ガキ」
「自分だってまだ子どもじゃん」
「キャミソール返せ」
「あ、やだ、もうちょい貸して」

そんなくだらないやりとりをしたあと、私は部屋に戻った。
疲れた。
ばたりとベッドに倒れ込む。

転がって仰向けに姿勢を変えてから、今日あったことを順番に思い出してみる。
2度目の『母親を殺す夢』。学校での情報収集。円形の地図の完成。先輩を怒らせたこと。中心地の聞き込み。無駄足。買ったままの鋏。鋏の消えた街。間崎京子との電話……(そういえば、先輩の部屋にも鋏があったな)
先輩がサイ・ババの真似をしていたときに手に持っていた鋏。
テーブルの上に無造作に置かれていたものだったけれど、手のひらから(私には服の裾からにしか見えなかったが)宝石や灰を出してみせるという奇蹟の再現をするのに、隠しにくい鋏は適切な物だっただろうか。
消しゴムやなんかの方が、よほど上手く出来るだろう。(新品に見えたけど、あの鋏もなんとなく買ったのかな)
何故それが要るのか、深く考えもしないで……
ふと、電話で注意した方がいいだろうか、と思った。

いや、駄目だな。
夕方に怒らせたばかりだし、こんなに遅い時間に電話してまた変な話をしたのでは、きっとまともに聞いてくれないだろう。
あれ? そう言えば、私もまだ持ってたな、鋏。
机の引き出しのどこかに、昔から使ってるやつがあるはずだ。
あれも捨てて来た方が良かったかも。
あ……でも眠いや……
明日にしよう……
明日に……

眠りに落ちた。

暗い。暗い気分。泥の底に沈んでいく感じ。
私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
暗い気持ち。殺したい気持ち。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。
そしてロックをカチリと捻る。
手には硬い物。私の手に合う、小さな刃物。
ドアが開けられ、ぬうっと、青白い顔が覗く。
母親の顔。見たことのない表情。見たくない表情。
ドアの向こう、母親の背中越しに月。真っ黒いビルのシルエットに半分隠れている。
どこかから空気が漏れているような音がする。それは私の息なのだろうか。
いや、私の身体にはきっとどこかに知らない穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているんだろう。
私は入り込んでくる顔に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ手の中にある硬い物を握り締め、暗い気持ちをもっと暗くして。


「……ッ」

悲鳴が聞こえた。
それは私が上げたのだと気づく。
動悸がする。息が苦しい。
夢だ。夢を見ていた。
身体を起こす。ベッドの上。
天井から降り注ぐ光が眩しい。明かりがついたままだ。
時計を見る。夜中の1時半。服を着たままいつの間にか寝てしまっていた。
手にはじっとりと汗をかいている。まだなにか握っているような感覚がある。
何度か手のひらを開いたり閉じたりしてみる。
辺りを見回すが、特に異変はない。粟立つような寒気だけが身体を覆っている。
そのとき、床に置いたラジオから奇妙な声が聞こえてきた。
ひどく間延びした音で、笑っているような感じ。
夜の家は静まり返っている。カーテンを閉めた2階の窓の向こうからもなんの音も聞こえない。
ただラジオだけが、間延びした笑い声を響かせている。
私は思わずコンセントに走り寄り、コードを引き抜いた。
ぶつりとラジオは黙る。
つけてない。私は眠る前に、ラジオなんてつけてない。
なんなのだ、これは。
家電製品の異常。まるでポルターガイスト現象だ。
私は机の引き出しを恐る恐る開け、乱雑に詰め込まれた文房具の中から鋏を探し出した。
中学時代から使っている小ぶりな鋏。手に持ってみたが、特におかしな所はない。
ひとまずホッとして引き出しを閉める。
どういうことだろう。
今までの夢は明け方、目覚める直前に見る明晰な夢だった。

他の人たちの体験談も一様に同じだ。
しかし今のは1回目か2回目のレム睡眠時の夢だ。
今までだって本当はこの、眠りについてあまり経っていない時間帯にも同じ夢を見ていたのかも知れない。
ただ忘れてしまっているだけで。
でもさっきのリアルさはなんだ? 明らかに今までの夢とは違う。鋏を握る感触もはっきり残っている。
私は左手で自分の顔を触った。そしてこう思う。(こっちが夢なんてことはないよな)

母親に鋏を突き立てようとしている少女こそが本当の私で、今こうして考えている私の方が彼女の見ている夢なんていうことは……
なんだっけ、こういうの。漢文の授業で聞いたな。胡蝶の夢、だったか。
ありえない、と首を振る。
だが少なくとも、今までの夢とは緊迫感が違った。恐怖心のあまり途中で目覚めてしまったのだから。(夢……だよな)
私は恐ろしい想像をし始めていた。真夏の夜の部屋の中が冷たくなって来たような錯覚を覚える。
これまでのは、焦点となっているその少女の見ていた殺意に満ちた夢が夜の街に漏れ出したもので。
今見たのは、現実のドス黒い殺意がリアルタイムで私の頭に干渉していたのではないか、という想像を。
だとしたら、さっきの光景の続きは?
もし夢を見ながら彼女の殺意に同調していた街中の人間たちが、私のようにあのタイミングで目覚めていなかったとしたら?
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をぐるぐると回った。
油断なのか。もう明日にも手が届くと思ってだらしなく寝てしまった私のせいなのか。
でもなにが出来たって言うんだ。
あんな遅くに間崎京子の家まで行って似顔絵を描かせ、それを手にまたあの住宅街を聞き込みすれば良かったのか?
せめて家の場所が特定できれば……
そう考えたとき、私は視線を斜め下に向けた。
待て。
ドアの向こうの景色。月が半分隠れていたビルのシルエット。夢の中の視線。
あのビルは知っているぞ。
市内に住む人間ならきっと誰でも知っている。一番高いビルなのだから。
ビルの位置と、月の位置。それが分かるなら、場所が、それらが玄関の中からドア越しに見えている家が、ほぼ特定出来るかも知れない!

私は部屋を飛び出した。
そして階段を降りながら、眠っている家族を起こさないようにその勢いを緩める。
家の中は静まり返っていて、父親のいびきだけが微かに聞こえてくる。
私は玄関に向かおうとした足を止め、客間の方を覗いてみた。
いつもは2階で寝ている母親だが、最近は寝苦しいからと言って風通しの良い客間で寝ているのだ。
襖をそっと開け、豆電球の下で掛け布団が規則正しく上下しているのを確認する。
良かった。何事もなくて。
そして踵を返そうとしたとき、暗がりの中、鈍く光るものに気がついた。
それは私の右手に握られている。さっきから右手が妙に不自由な感じがしていた。
なのに、何故かそれに気づかず、目に入らず、あるいは目を逸らし、気づかないふりをして、ずっとここまで持って来ていた。
鋏だ。
机の引き出しを閉めながら、鋏は仕舞わなかったのだ。右手に持ったままで。
逆再生のようにその記憶が蘇る。
全身の毛が逆立つような寒気が走り、ついで、目の前が暗くなるような眩暈がして、私は鋏をその場に落っことした。
鋏は畳の上に小さな音を立てて転がり、私は後も見ずに玄関の方へ駆け出す。叫びたい衝動を必死で堪える。
ギィ、というやけに大きな音とともにドアが開き、湿り気を含んだ生暖かい夜気が頬を撫でた。
外は暗い。
玄関口に据え置きの懐中電灯を手にして、駐車場へ向かう。
そして自転車のカゴにそれを放り込んで、サドルを跨ぐ。
始めはゆっくり、そしてすぐに力を込めて、ぐん、と加速する。(鋏を持ってた! 無意識に!)
混乱する頭を風にぶつける。いや、風がぶつかって来るのか。
私は今、自分がしていることが、すべて自分自身の意思によるものなのか分からなくなっていた。
もうたくさんだ。こんなこと。もうたくさんだ。
寝静まる夜の街並みを突っ切って自転車を漕ぎ続ける。
空は晴れていて、遥か高い所にあるわずかな雲が月の光に映えている。
この同じ空の下に、目に見えない殺意の手が、無数の枝を伸ばすように今も蠢いているのか。
それに触られないように、身を捩りながら、前へ前へと漕ぎ進む。
と――――
耳の奥に、風の音とは違うなにかが聞こえて来た。
聞き覚えのあるような、ないような、音。人を不安な気持ちにさせる音。
夜の、電話の音だ。
自転車のスピードを落とす私の目の前に、暗い街灯がぽつんとあるその向こう、公衆電話のボックスが現れた。
音はそのボックスから漏れている。DiLiLiLiLiLiLi……DiLiLiLiLiLiLi……と、息継ぎをするようにその音は続く。
ばっく、ばっく、と心臓が脈打つ。
お化けの電話だ。
そんな言葉が頭のどこかで聞こえる。
誰もいない、夜の電話ボックス。
私は自転車を脇に止め、なにかに魅入られたようにフラフラとそれに近づいていく自分を、どこか現実ではないような気持ちで、まるで他人ごとのように眺めていた。
擦れるような音を立てて内側に折れるドア。
中に入ると自然にドアは閉まり、緑色の電話機が天井の蛍光灯に照らされながら、不快な音を発している。
私はそろそろと右手を伸ばし、受話器を握り締める。
フックの上る音がして、Lin、という余韻を最後に呼び出し音は途絶える。
この受話器の向こうにいるのは誰だろう?
そんなぼんやりした思考とは別に、心臓は高速で動き続けている。

「もしもし」

声が掠れた。もう一度言う。

「もしもし」

受話器の向こうで、笑うような気配があった。
「……行ってはいけない」

この声は。
そう思った瞬間、脳の機能が再起動を始める。
間崎京子だ。この向こうにいるのは。

「鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩いたものが、ヒトの中でなにをしたか、わかって?」

冷え冷えとした声が、ノイズとともに響いてくる。

「何故だ。どうやってここに掛けた」

沈黙。

「お前も見たのか。あの夢を。行くなとはどういうことだ」

コン、コン、コン、とせせら笑うような咳が聞こえる。

「……その電話機の左下を見て」

言われた通り視線を落とす。
そこには銀色のシールが張ってあり、電話番号が記されている。
この電話機の番号だろうか。

「みんな案外知らないのね。公衆電話にだって、外から掛けられるわ」

その言葉を聞きながら、私は頭がクラクラし始めた。
思考のバランスが崩れるような感覚。
この電話の向こうにいるのは、生身の人間なのか? それとも、人の世界には属さないなにかなのか。

「夢を見て、あなたがそこへ向かうことはすぐに分かったのよ。そしたら、その電話ボックスの前を通るでしょう。一言だけ、注意したくて、掛けたの」
「どうして番号を知っていた」
「あなたのことなら、なんでも知ってるわ」

あらかじめ調べておいたということか。
いつ役に立つとも知れないこんな公衆電話の番号まで。

「行ってはいけない。わたしも、少し甘く見ていた」
「なにをだ」

再び沈黙。微かな呼吸音。

「でもだめね。あなたは行く。だから、わたしは祈っているわ。無事でありますようにと」

通話が切れた。
ツー、ツー、という音が右耳にリフレインする。
私は最後に、言おうとしていた。電話を切られる前に、急いで言おうとしていた。
そのことに愕然とする。
いっしょにきて。
そう言おうとしていたのだ。
頼るもののないこの夜の闇の中を、共に歩く誰かの肩が、欲しかった。
受話器をフックに戻し、電話ボックスを出る。
少し離れた所にある街灯が、瞬きをし始める。消えかけているのか。私は自転車のハンドルを握る。
行こう。一人でも、夢の続きを知るために。
自転車は加速する。耳の形に沿って風がくるくると回り、複雑な音の中に私を閉じ込める。
振り向いても電話ボックスはもう見えなくなった。離れて行くに従って、さっきの電話が本当にあった出来事なのか分からなくなる。
何度目かの角を曲がり、しばらく進むと道路の真ん中になにかが置かれていることに気がついた。
速度を緩めて目を凝らすと、それはコーンだった。工事現場によくある、あの円錐形をしたもの。パイロン、というのだったか。
道路の両側には民家のコンクリート塀が並んでいる。ずっと遠くまで。
アスファルトの上に、ただ場違いに派手な黄色と黒のコーンがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。
当然、向こうには工事の痕跡すらない。誰かのイタズラだろうか。
その横をすり抜けて、さらに進む。
500メートルほど行くとまた道路の真ん中に三角のシルエットが現れた。またコーンだ。
避けて突っ切ると、今度は10秒ほどで次のコーンが出現する。通り過ぎると、またすぐに次のコーンが……

それは奇妙な光景だった。
「だから、言ってるでしょ。同じだって。あんたも見たんだろ、アノ夢を」

真横から聞こえたその声に驚いて顔をそちらに向ける。
小さな鉄柵の向こうにブランコがひとつだけあり、そこにもう一人の人物が腰掛けていた。
キィキィと鎖を軋ませながら足で身体を前後に揺すっている。

「あんた、高校生?」

馬鹿にしたような言葉がその口から発せられる。
目深にキャップを被っているが、若い女性であることは、声と服装で分かる。
太腿が出たホットパンツにTシャツという、涼しげな格好。あまり上品なようには見えない。

「ま、ここまでたどり着いたってことはタダモノじゃない訳だ」

意味深に笑う。
私の体内の血液が徐々に加熱されていく。
同じなのだ。この人たちは。私と。
彼らは街で起こった怪奇現象と母親殺しの夢の秘密を解いて、ここに集った人間たちなのだ。
得体の知れない不吉さと不安感に駆られて動き回った数日間が、絶対的に個人的な体験だったはずの数日間が、並行する複数の人間の体験と重なっていたということに、歓喜と寒気と、そして昂揚を覚えていた。

「あなた、さっきの夢は、どこまで?」

おばさんがこちらを向いて聞いてきた。私はありのままに話す。

「やっぱり」

少し残念そう。

「みんな同じ所までで目が覚めてるのね」
「も、もういいよ。ここでいつまでも話してたってしょうがないだろ」

眼鏡の男が手を広げて大げさに振った。

「でもねぇ、これ以上はどうやっても探せないのよね」

おばさんが頬に手のひらを当てる。

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