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師匠 シリーズ コミュの怪物「転」(1)

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図書館からの帰り道、私はクレープを買い食いしながら商店街の路地に佇んでいた。
夕焼けがレンガの舗装道を染めて、様々なかたちの影を映し出してる。
道行く人の横顔はどこか落ち着かないように見える。
みんな心の奥深い場所で、説明しがたい不安感を抱いているようだった。
そう思った私の目の前を女の子たちの笑い声が通り過ぎる。
息を吐いて、最後の一口を齧る。
どの人の表情も、私の心の投影なのかも知れない。
ロールシャハテストだ。
笑い顔以外に、すれ違うの人の気持ちを理解できる機会なんてまずないんだから。

結局あの図書館の本の落下の原因はわからないままだった。
こんなことが、昨日の水曜日から今日にかけて、街の至る所で起きているらしい。
私は起こっていることより、この一連の出来事の向かう先のことが気に懸かっていた。
いったいどういうカタルシスを迎えるのか。
そう考えながら目を閉じると、何かをせずにはいられない気持ちになるのだった。

『エキドナを探せ』

その言葉に、糸口を見出せそうな気がする。
さっきからそのことばかり考えている。
クレープの包みをクズ籠に放る。
私にこのヒントを投げ掛けた間崎京子は、街中で起こっている怪異を怪物に例えた。
そしてその怪物たちを生み落とすのは蝮の女エキドナだ。
これがいったい何の隠喩なのか定かではない。
定かではないが、私はこう考えている。
少なくとも間崎京子は、一見バラバラに発生しているように見える怪奇現象が単一の根っこを持っていると思っている。
それも、ナントカ現象だとかナントカ効果だとかといった包括的ななにかではなく、信じがたいことにそれはたった一つの"人格"と言えるような存在に収束されているような気がするのだ。
ハ。
こんなこと、誰かに話せるようなものではない。

つくづく一人が好きだな。
暗鬱な気持ちが、帰り道をやけに遠くさせた。
家に帰り着き、玄関の前に立った時から気づいていたが、やはりその夜の晩御飯はカレーだった。

「そんなに水ばかり飲んでると消化が悪くなるわよ」

という母親の小言を聞きながらカレーをスプーンでかき込み、水で流し込む。

「今朝どっかで工事してた?」

さりげなく聞いてみたが、「そういえば、どこでやってのかしらね」と母親が首を傾げる。

父親は「知らん」と言いながら夕刊を読んでいる。
妹は身体を反転させて皿を持ったまま居間のテレビを見ている。
父親が読み終わるのを待ってから夕刊に目を通したが、特に変わった記事はなかった。
それから自分の部屋に引きあげる。
明かりとラジオをつけて、部屋の真ん中。
隅に転がっていたクッションを引き寄せる。
なにをすればいいのか正直分からない。
とりあえず昨日ファフロツキーズの項だけ読んで投げていた『世界の怪奇現象ファイル』を通して読んでみることにした。
ラジオがくだらない話題でけたたましい笑い声を出し始めたのでスイッチを消し、適当なCDをかける。
そして黙々と頁をめくる。
どこかで聞いたことがあるような怪奇現象ばかりが列挙されているが、情報の量と質にはかなり偏りがあり、ファフロツキーズの項のような詳細な解説はあまりなかった。
そんな中、CDの7曲目が過ぎたあたりだっただろうか。
私は半分読み飛ばしかかっていた文の中になにか引っかかるものを感じ、思わず姿勢を正す。
それは『ポルターガイスト現象』の項だった。

「……ポルターガイスト現象の例としては、室内にバシッという正体不明の音が響く、手も触れていないのに家具が動く、皿が宙に舞う、スイッチを入れていない家電製品が作動するといった目に見えない力が働いているかのようなものから、何もない空間から石や水が降ってきたり、火の気のない場所で物が発火したりといった怪現象などが挙げられる……」

私は緊張した。
石降り現象!
そういえば、ポルターガイスト現象を題材にしたドラマだか映画だかで、室内に石が降って来るという場面を見たことがあった。
完全に失念していた。
間崎京子はこれを言っていたのだ。
『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるなと。
自分の間抜けさに腹が立つ。
石の雨が降るという現象には、別のアプローチの方法があったのだ。

「クソッ」

本を投げて立ち上がる。
ポルターガイスト現象の項はあきらかにやっつけ仕事で、情報量としては私でもおぼろげに知っていた程度のことしか載っていなかった。
鞄からアドレス帳を引っ張り出して、目当ての番号を探す。
中学時代の先輩だ。
部活が同じだった。
彼女は子どものころに身の回りでポルターガイスト現象としか思えないような不可解な出来事が続いたらしく、やがてそれが収まった後もなにかと話のタネにしていた。
散々同じ話を聞かされたので内心ウンザリしていたものだが、2年ほど経った今では案外忘れてしまっている。

「晩に済みません。しかもいきなりで。ちょっと教えてもらいたいことがあるんですが」

突然の電話にも関わらず彼女は私を懐かしがって、「電話より、今からウチ来る?」と言ってくれた。
「すぐ行きます」と言って電話を切り、廊下から居間の方に向かって「ちょっと出てくる」と大きな声で告げてから家を飛び出した。
生ぬるい空気が夜のしじまを埋めている。
一日、熱エネルギーを吸収したアスファルトがまだ冷めないのだ。
自転車に乗って、住宅街の路地を急ぐ。
街灯がぽつんとある暗い一角に差し掛かった時、コンクリート塀の傍らに設置されている公衆電話が目に入った。
何故か昔から苦手なのだ。
小さいころに「お化けの電話」という怪談が流行ったことがあり、ある9桁の番号に公衆電話から掛けるとお化けの声が受話器から聞こえてくるという、他愛もない噂だったのだが、私は近所の男の子と一緒にこの公衆電話で試したことがあった。
記憶が少し曖昧なのだが、たしかその時はその男の子が「聞こえる」と言って泣き出し、受話器をぶんどった私が耳をつけるとツーツーという音だけしか聞こえなかったにもかかわらず、その子が「だんだん大きくなってきてる」と喚いて電話ボックスから飛び出してしまい、取り残された私も怖くなってきて逃げ出してしまった。
それ以来、この道を通る時には無意識にその電話ボックスから目を逸らしてしまうのだ。
気味は悪かったが、今は何ごともなく通り過ぎて先を急ぐ。
先輩の家には15分ほどで着いた。
玄関先で待っていてくれたので、チャイムを鳴らすこともなく家に上げてもらう。

時計を見ると夜の9時を回っていたので「遅くに済みません」と恐縮すると、母親が現在別居中で、父親は仕事でいつも遅くなるから全然ヘイキ、と笑って話すのだった。
兄弟姉妹もいないのでいつもこの時間は家に一人だという。
先輩の部屋に通されて、クッションをお尻に敷いてからどう話を切り出そうかと思案していると、彼女は苦笑しながら私を非難した。

「同じ学校に入って来たのに、挨拶にも来ないんだから」

ちょっと驚いた。
中学時代の2コ上の先輩だったが、そういえば高校はどこに進学したのか知らなかった。
まさか同じ学校の3年生だったとは。
向こうは何度か学内で私らしき生徒を見かけたらしく、新入生だと知っていたようだった。
しばらく学校についての取りとめもない話をする。
正直、早く本題に入りたかったのだが先輩の話は脱線を繰り返している。
ただひとつ、「校内に一ヶ所だけ狭い範囲に雨が降る場所がある」という奇妙な噂話だけはやけに気になったので、今度確かめてみようと密かに心に決める。

「で、聞きたいことってなに?」

先輩が麦茶を台所から持ってきて、それぞれのコップに注ぐ。
ポルターガイスト現象のことだとストレートに告げた。
先輩は目を丸くして、「ピュウ」と口笛を吹く。

「あれ? あなたにはあんまり話してなかったっけ?」

いや、聞きました。
耳にタコができるくらい聞かされました。

先輩が小学校4年生くらいのころ、家の中でおかしなことが立て続いて起こったそうだ。
例えば食器が棚から勝手に飛び出し地面に落ちて割れたり、窓のカーテンが風もないのにまくれ上がったり、部屋のどこからともなく何かがはじけるような音が断続的に響いたり、ある時など家族の目の前で花瓶に挿していた花がフワフワと宙に浮き始め、いきなり凄い勢いで天井に叩きつけられたこともあったらしい。
それが数日置きに何週間も続き、ある時パタリと止んだかと思うとまたしばらくして急に起こり始める。
困惑した両親はついに有名な祈祷師を紹介してもらい、家のお払いをしてもらった。
その後、物が動いたりといったことはなくなり、何かがはじけるような物音や屋根裏を誰かが這っているような音は時々あったそうだが、やがてそれも起こらなくなった。
今お邪魔しているこの家でのことだ。
思わず部屋の天井の辺りを見上げたが、特になにも感じる所はなかった。

「聞きたいのは、石が降ってきたことがあったかどうかです」
「石? 家の中に?」
「家の外でもいいですけど」

先輩は記憶を辿るような視線の動きを見せた後、「なかったと思う」と言った。

「じゃあ石じゃなくてもいいですけど、家の中になかったはずのものがどこからともなく現われたりしたことは?」
「……お皿とか果物とか色々飛んだり落ちたりしてたけど、全部家にあったものだからなあ。ないモノが出てくるって、なんか凄いね。サイババみたい」

先輩は面白がって、最近テレビで見たというサティア・サイ・ババのアポート(物品引き寄せ)について喋りだす。

「こんなしてさ、手のひらぐるぐる振ってから、出しちゃうのよ」

テーブルの上にあった鋏を手に持ってその様子を実演してみせてくれる。
私は少しがっかりした。

「そんなにポルターガイストとかに興味あるの? あたしも最近は全然だけど、むかし気になって色々調べたから、そっち系の本があるよ。読みたいなら貸すけど」

「是非」と言うと、先輩は「ちょい待ち」と部屋の本棚をゴソゴソと探し回って何冊かの本を出してきてくれた。
いずれもオカルト系の雑誌の類だ。
それぞれポルターガイスト現象に関する所に付箋がついている。
礼を言って、おいとまをしようとした時、先輩が私の顔をまじまじと見つめてきた。

「あなた、ちょっと変わったね」

先輩こそ剣道部で後輩をしごいていたころからしたら、随分肉がついてしまってるじゃないですか。
そんなことを婉曲に言ってみたが、先輩は自分のことはまったく耳に入らない様子でブツブツと口の中で呟いている。

「変わったというか、変わっている、途中、みたいな」

その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた気がして振り返りそうになる。

「あ、ごめん。気にした? まあ、また今度ゆっくり話そ」

なんだろう。今の感じ。
その嫌悪感を、私は"知っている"。
そんな気がした。

玄関を出て、家の前で見送ってくれる先輩に最後に一言だけ問いかける。

「最近、怖い夢を見ませんでしたか」

先輩は顔を強張らせたかと思うと、柔和な笑みでそれをすぐに包み隠す。

「そう言えば今朝がた見たけど。変な夢だったな。ありえない夢」

オヤスミ。と手を振って先輩は家の中へ消えていった。
誰もいない、たった一人の家に。
私は自転車に乗っかると全速力で漕ぎ出した。
家に帰り着くのが遅くなるにつれて母親の小言の量が比例して増えるのだ。
星を、空に見ながら夜の道を急いだ。


『ポルターガイスト現象の事例として名高いのは1848年、ニューヨーク州ハイズビルのフォックス家を襲った怪現象がその筆頭として挙げられる。また近年では1967年、ドイツのローゼンハイムにあるアダム弁護士事務所で起きた事件や、1977年以降、ロンドン北部エンフィールドのハーパー家で起きた怪異も広く知られている』

そんな説明を読みながら、ふと、学校の教科書もこのくらい熱心に見ていたらもっと成績も上がるだろうに思い、自虐的な笑いが込み上げて来る。
もう時計は夜の12時を回っている。
先輩から借りた本をさっそく読んでみたのだが、かなりの分量がある。
明日も学校があるし、適当なところで切り上げて早く寝た方が良いと分かっているのだが、何故か気が逸って手を止められない。

ハイズビル事件ではフォックス家の次女マーガレット(15)と三女ケイト(12)の周辺で壁や天井を叩くような奇妙な物音が聞こえ始め、その物音とある合図によって交信を図ることで霊とのコミュニケーションをとることに成功したと言われている。
ローゼンハイム事件では電話機の異常から始まり、蛍光灯の落下や電球の破裂、金庫やオーク材のキャビネットが独りでに動くなどの怪現象が起こった。
エンフィールド事件では娘のジャネット(11)が部屋で聞いた「何かを引きずる音」に端を発し、おはじきや積み木が空中を飛んだり、タンスが独りでに数十センチも動いたり、ジャネットが寝ようとするとベッドからトランポリンのように投げ出されるといった不可思議な出来事が1年あまりも続き、その間に近所の住民やマスコミ、ソーシャルワーカー、イギリス心霊現象研究協会のメンバーなど延べ30人以上の人間がこれらを目撃したと言われている。
その他の様々な事例の紹介を見ていくと、本の総論として解説されるまでもなく、かなりの割合でその現象の焦点になっているのがティーンエイジャーの若者、それも女性であることに気づく。

ローゼンハイム事件では弁護士事務所の秘書、アンネマリー・シュナイダーが現象の中心にいたとされているが、彼女は当時まだ18歳であり、怪現象は彼女が出勤している時にばかり起こっていることを超心理学研究所のハンス・ベンダー教授に指摘されている。
その後アンネマリーが解雇されると怪現象はピタリと収まった。
ポルターガイスト現象とはその名の通り、ポルター(騒がしい)・ガイスト(霊)の起こす現象とされることが多かったが、近年では様々な解釈がなされている。
低周波や水撃音などで科学的に説明しようとするものや、売名目的のでっちあげとする説、また超心理学者などはこれを超常現象の一種であると位置づけている。
その超常現象説では現象の焦点になっているのが若年者であることに注目し、精神的に不安定である思春期前後の彼女らが抑圧されたフラストレーションの捌け口として、無意識的にサイコキネシス現象を発動しているのではないかとした。
超心理学者たちはこの現象をRSPK(反復性偶発性念力)と呼ぶ。
無意識に起こるPKなので、その当事者も基本的には自らを被害者であると認識している。
エンフィールド事件では焦点となったジャネット自身、ベッドから跳ね飛ばされて寝れないという被害を受けている。
その瞬間を捉えたという写真が本に掲載されていたが、なんともコメントしづらい写真だ。
宙には浮いているのだが、自分で跳んでいるようにも見える。

「RSPKか」

ボソリと口にすると、なんだか面映い。
そんな変な言葉で説明するより、もっと単純な解釈があるように思えてならない。
思春期の子どもがいる家で起こった現象なら、真っ先にイタズラじゃないかと疑うべきだろう。
実際ハイズビル事件ではフォックス姉妹が後に、あれは関節を鳴らすなどした自分たちのトリックだったと告白しているらしい。
一つの事例がトリックだったからといってすべての事例がトリックだと断言するのは乱暴だが、疑われてしかるべきだろう。

ただローゼンハイムの事件では事務所の備品が破損したり、掛けていないはずの電話で多額の電話代を請求されたりといった実害があったために電気系統の技術者や物理学者、警察などが調査にあたったがいずれも合理的な説明を出来なかったという。
ノイローゼ気味だったという秘書のアンネマリーが起こしたイタズラだとするには、複数の人間の目の前で動いた180キロのキャビネットは重すぎた。
そのためローゼンハイム事件は最も信憑性の高いポルターガイスト現象の例とされているそうだ。
信じるか、否か。それが問題だ。
本を閉じ、昨日一日でこの街に起こった出来事をひとつひとつ考えてみる。

音だけの工事。
棚から飛び出した図書館の本。
コンビニ内の怪現象。
駅前のビルの奇妙な停電。
掘り出された並木。
ガソリンスタンドの揺れる給油ホース。
針がでたらめに動くアーケードの大時計。
そして石の雨。

いずれもポルターガイスト現象の例に含まれてもおかしくない内容だ。
逆に言うと、ポルターガイスト現象がそれだけ間口の広い、言わばなんでもありの括り方をされているということだろう。
先輩は経験しなかったという石が降るという現象も、過去の事例を紐解くと散見できた。
石降り現象はどちらかというと心霊現象というより、RSPK説を補強するようなものと言えそうだ。
ただ昨日街で起きた事件のうち、ポルターガイスト現象と呼ぶには少しおかしい部分がある。
それは工事の音と、並木、大時計、そして石の雨の4つだ。
これらはいずれも家屋の中で起こったものではない。ポルターガイスト現象は基本的には家屋の中で起こるものとされているのに。

あるいはガソリンスタンドの事件も屋外としてもいいかも知れない。
イタズラにせよ、RSPKにせよ、屋外で影響を成した「焦点」とはいったい誰なのか。
大時計はなにか仕掛けが出来たとしても、短時間で誰にも気づかれずに並木を掘り起こすことと、100メートルにも渡って路地に石の雨を降らせることは一体何者に可能だというのだろう。
そしてなによりこれらが昨日のたった一日で起こった出来事だという事実。
私の中で、ある気味の悪い仮定が生まれつつあった。
その仮定は私の妄想の深い霧の中から、奇怪なオブジェとして現れてきた。
まだそのすべてが見えているわけではない。
けれどわずかに覗くそれは、どうしようもなく不吉な姿をしている。
昨日一日で起きた怪現象が、それぞれ偶発的な個別のポルターガイスト現象でないとすると……
私は立ち上がり、窓のカーテンの隙間を指で広げる。
その向こう、闇の中にはまだ起きている家の明かりがぽつぽつと点在している。
それは夜の海に浮かぶ儚い小船の明かりのように見えて、私を心細い気持ちにさせる。
目を閉じて心を落ち着かせ、夜のしっとりとした甘い匂いを鼻から吸い込む。
間崎京子は『エキドナを探せ』と告げている。
私は探さなくてはならないのだろうか?
怪物たちのマリアを。

怖い夢を見ていた気がする。
次の日、金曜日の朝。
私は寝不足の瞼を擦りながら目覚まし時計を叩く。
昨日は何時に寝たのだったか。
全身がだるい。
そして寝汗をかいている。
ベッドの上に胡坐をかいて、髪の中に指を突っ込む。
ふつふつと記憶が蘇ってくる。

私は明け方の夢の中で、母親を殺した。
昨日の夢と同じだ。

夢の中で私は足音を聞く。
そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる。
胸には憎しみと悲しみに似た感情が混ざりあって渦巻いている。
血を間欠泉のように噴き出して崩れ落ちる母親を見ながら、私は自分自身の吐く息をどこか遠くから吹く隙間風のように無関心に聞いている……

「しまった」

ベッドの上で、搾り出すように言った。
ただの夢ではないのは明らかだ。
まったく同じ夢。
これ自体が、怪現象の一部なのだ。
あるいはその本体に近いなにか。
そもそも私がこの街に起こりつつある異変にはっきり気づいたのがこの夢からだった。
怖い夢を見たという記憶だけあるのに、その中身を思い出せない。
そんな人間が恐らくこの街のいたる所にいたはずだ。
私もその一人だった。
その夢が朝の光の中に残るようになった。
その意味をもっと真剣に考えるべきだった。
クラス中で囁かれる奇妙な噂話に気を逸らされて、誰にも夢の話を聞いていない。
まさにその夢を忘れなかった朝から、まるで手のひらを返したように怪異が街に噴き出し始めたというのに。
最短でこの怪現象の正体に迫る方法を私は見過ごしてしまっていた。
このロスが致命的なものにならないことを祈るしかない。

「クソッ」

昨日から数えて何度目かの悪態を枕にぶつける。
致命的?
その無意識に浮かんだ言葉に私は思わずゾクリとする。
直感が、この街になにか恐ろしいことが起ころうとしていることを告げているのか。

バシン、と両手で頬を張る。
パジャマを脱ぎ、急いで服を着る。
するすると皮膚の上を走る布の感触。
頭は今日するべきことを冷静に考えている。
制服に着替え終えるとドアを出て、まず妹の部屋に向かった。

「入るぞ」

妹はベッドに腰掛けたままで、もぞもぞとパジャマを脱ごうとしている最中だった。

「な、なに」

警戒する様子にも構わず、前に立って見下ろす。

「夢を見たか」
「はあ? 夢? 見てない」

たぶん。と付け加えた妹は訝しげに私の目を見る。
最近母親がやたらムカつかないか、と聞いてみたが「別に」との答え。
OK。嘘をついている様子はない。
さっさと部屋を出る。
つまり受け取る側にも強弱があるのだ。
受信アンテナの性能とでもいうのか。
波長が合ってしまった人間だけが、強制的にある感情を植えつけられている。
階段を降り、リビングに向かう。
台所では母親が冷蔵庫から牛乳を取り出している。

「おはよう」「おはよう」

自然な挨拶が交わされる。
大丈夫だ。
母親を憎む気持ちは収まっている。
少なくとも殺してしまうような角度にメーターはない。
無事にパンと牛乳の朝食を終え、急いで家を出る。
昨日の工事の音は、今朝は聞こえない。
今日も暑くなりそうな陽射しの強さだ。
歩きながら朝刊の記事のことを考える。

〔UFOか? 市内で目撃相次ぐ〕

そんな見出しに、潰れたような写りの悪い写真が添えられていた。

昨日の午後6時過ぎ、北の空に謎の発光現象が起こるのを多くの人が観測したという内容だった。
私が図書館にいた時間帯か。
見たかったな。
けれどこんな事件にはもうあまり価値はない。
ばら撒かれるピースに顔を寄せて覗き込んでもなにも見えてこない。
私は昨日得た強引な仮説に基づいて、この怪現象の全体像を捉えようとしているのだから。

学校に着いた。
校門の内側で人だかりが出来ている。
近寄ると校内の地面に20センチほどの深さの凹んだ跡があった。
その周囲1メートル四方にまるで巨大なハンマーで力任せに叩いたようなヒビが入っている。
昨日まではなかった。
夜の間にこうなっていたらしい。
教師たちに追い払われ、みんなヒソヒソと口を寄せながら昇降口に吸い込まれていく。
不思議だがこれもただのノイズのようなものだ。
実体ではない。
捉われてはいけない。

教室に入ると、いつにも増して妙にざわついた雰囲気が辺りを覆っている。
朝礼で担任の教師が生徒に向かって「浮わついているようだから、気を引き締めるように」という、まったく具体性のない説教を自信なさげに口にした。

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